第百五十四話 フェンネ=カームエール(2)
全てを話し終え、フェンネはふぅと小さくため息を吐いた。
長い時間が経っていた。ソアリーナも真剣にその話に集中していたため、一息つこうと姿勢を変えたときに尻を痛めたことに気づいたほどだ。
どうやら彼女が考えていた以上に長話だったらしい。
気がつけば外の明かりは赤みを増し、一日が終わりへ向かう店じまいの時間帯となっている。
「そんな、つまらない話よ」
そう締めくくられた言葉に、ソアリーナは返す言葉が見つからなかった。
聖女になってからの話はそう珍しいものではない。この辺りはソアリーナと同様で、基本的に神学を修める事と、人々への慰撫、そして能力を鍛え上げ敵と戦う事に費やされている。
ソアリーナも経験している事であったため、フェンネも説明を省いたという事もある。
ただ、話の聞き役となっていたソアリーナ同様に、フェンネの人生もまた苦難と悲劇に満ちたものだったのだ。
「調子に乗った女が、天に手が届いたと勘違いして全てを失った。いえ、はじめから何も持っていなかったのかもね。所詮見てくれだけで作られた虚構だったってことよ」
そんなことはありません。
その言葉を言えれば、どれほど良かっただろうか。彼女の苦しみは分かる。ソアリーナとてかつて愛すべき人々を自らの手にかけた過去を持っているのだ。
形は違えどただ幸せになりたかっただけの、それだけの自分たちが、その小さな望みさえ叶える事が出来ないと知ったときの絶望の深さはよく分かっているつもりだ。
ソアリーナの言葉を待たずして、フェンネの独白は続く。
それはもはや自らの境遇を聞かせたいと言うよりも、ただただ自分の苦しみをその場に吐き出しているかのようにも思えた。
「けど、けれども、これはあんまりだわ。あんまりすぎる。罰にしてももう少しやり方があったんじゃないかしら? 私は、ここまでされるほどの仕打ちを誰かにしたのかしら?」
独白は続く。
「だから、失ったものを取り戻す為にエラキノと取り引きした。正確にはエラキノの主であるゲームマスターにだけどね……」
その話は少しだけ聞いたことがある。
ゲームマスターの目的はこの世界で開催されるゲームで勝利する事。
ソアリーナの目的は新たな国を興して新なる神の国を作り上げる事。
そしてフェンネの目的は失ったものを取り戻す事。
本人の口からは直接聞いてはいないが、エラキノがそれらしきことを話してくれた事があった。曰く老いを戻したいのだと。
「別に全部戻ってくる必要は無かった。少しでもマシになればって、そして彼はその力があった。全てが終われば私に普通の人生を与えてくれるって約束してくれた。してくれたはずだった……」
確かにGMの能力ならそれが可能だろう。当時は彼女の境遇を知らずずいぶんと利己的な願いだと思ったが、今考えるとそれも浅慮だった。
ただあの頃の自分は全てが一杯一杯で、他人の苦しみに構う余裕などなかった。
それはおそらくきっと、ずっと苦しみ続けてきたフェンネも同様だ。
神に裏切られた彼女は、神を信じ続ける自分をどう見ていたのか。
どちらにしろ、結果はすでに知るとおりだ。
自らの理想の為に、自分たちはあまりにも多くのものを犠牲にしてしまった。
ソアリーナは自らの至らなさを恥じ、唇の端を強く噛む。自分は、自分たちはあまりにも楽観的すぎたのだ。
あれほどの力を持ち、もはや刃向かう者は存在せぬとすら思えたゲームマスターの彼でさえ、あっさりと敗れてしまった。
あの日以降彼とは会っていない。皆がちりぢりになってしまったから。
全てを放り出して必死で逃げ、ここまで来たから。
ふと彼が急に懐かしくなった。彼の名前はなんだったか……、GMと呼ぶことになれてしまった為すっかりと忘れていたが、ただ冷淡で慎重な性格かのように見えて、どこか状に厚い部分があったことだけはよく覚えている。。
だが……、それも、もう。
「結局、男なんていつもそうよ。私のところからいなくなる。何か壮大な理由をつけてあれやこれやと言い訳しても、結局老いて面倒な女が嫌になっただけなのよ」
ゲームマスターの彼の事を言っているのだと、ソアリーナは理解した。
「男なんて、そんなものよ」
ああ、彼女にとってGMは最後だったのだろう。
もしかしたら自分を助けてくれるかもと、期待する最後の男だったのだ。
フェンネの境遇と人生を聞いたソアリーナはそう判断した。彼の力と、彼の願いと、そして彼との約束。
彼が自分を救ってくれると、この苦しみから解き放ってくれると、信じていた。
だが結果は今の自分たちの境遇が証明している。
結局、彼女の最後の希望も潰えた。
もうここには終わりしか存在していない。
「貴女も気をつけなさいよソアリーナ。これから普通の人として人生を過ごしていくのよ。誰も温室育ちの元村娘なんて守ってくれないわ」
話が唐突に脇道に逸れた。
楽しげな声音はソアリーナの境遇をからかっているようで、実のところ心配の方が比重は大きい。
ソアリーナは確かに自分が聖女となってから世間というものを殆ど知らない事を思い出す。
「貴女みたいな男性経験の無い娘は、簡単に悪い男にひっかかるしね」
クスクスと、今度は確かにからかわれた。
思わずソアリーナはむっとしてしまう。世間知らずなことは変えようのない事実ではあるが、だとしても少し笑いすぎではないだろうか?
彼女は反論するように少し語気を強める。
「い、いえ! 男性経験が無いというわけではありません。向かいの道沿いにあるパン屋のおじさんとも良く挨拶しますし!」
「……そういうところよ」
フェンネは一瞬思わず最悪の事態を想定し、そしてあまり使いたがらない読心の能力を持ってソアリーナの本心を見定める。
そして彼女の言う男性経験が、単純に男性と会話をしたという意味合いで使われている事を知り、大きな安堵のため息の後に先程の言葉となった。
だが当の本人はキョトンとするばかり。フェンネのため息の理由が分かっていない様子で可愛らしく小首をかしげている。
これは真剣にどこかのタイミングで教育をしなければとフェンネは固く誓う。
あの様な目に遭う娘は自分で十分だ。少なくとも目の前の世間知らずにそうなって欲しくはない。
閑話休題とばかりに、フェンネは話を元に戻そうとする。
「貴女に愚痴っても仕方ないことだったわね……忘れてちょうだい。裏切られ続けた惨めな女の恨み言よ」
だが何の気なしに漏れたその愚痴が、この場では少しばかり不適切だったようで、それがソアリーナの興味を引いてしまった。
「その……。恨んでいるのですか? 彼の事を」
質問をした後に、しまったとソアリーナは思った。
恨み言という単語を聞いて、思わず投げかけたが、あまり良くない問いかけだった。
相手の心を踏みにじる、無遠慮な質問だ。それが是であれ否であれ、今は彼女の心を暴くのではなくそっと寄り添う方が大事だというのに。
どうしようもない感情を、聞くべきではなかったのに。
「恨んではいないわ。別に彼に悪意が無いのはなんとなく分かっていたから。けど私も彼も……もう少しやりようはあったんじゃないかって思うの」
だがフェンネもただ能力だけで聖女という立場にいたわけではない。
ソアリーナの不躾な質問にも気分を害することなく微笑みを持って返す。
ただその美しい声音を震わせる悲しみの言葉が、ソアリーナの心に棘のように刺さる。
「貴女だってそうじゃないの?」
「そうかもしれませんね……」
「けどもう、残念ながら終わっちゃったのよ。私の物語も、貴女の物語も。――幸い聖女の力はまだ残っている。目立つ事さえしなかったら女二人ひっそりと生きていくことは容易いわよ」
「そう、ですね。きっとそうなんですね……」
ソアリーナもフェンネの言葉に同意する。
今更何をしようというのか。フェンネの言葉通りに全て諦めて逃げ出してしまうのが一番楽だった。自らの罪と失った友。夢と願い。
それら全てを諦め。ただ静かな静かな時間を受け入れる。
何もかも終わってしまった。自分たちの物語はもう結末を迎えてしまったのだ。
この日の光が差し込む薄暗いボロ家が最終章。
ここが物語の最終ページだ。
――聖女ソアリーナと聖女フェンネは、夢かなうことなく破れ、そのままひっそりと誰にも知られることなくどこかに消え去っていきました。
これで終わり。後は締めの言葉が記されるだけ。
世界が滅ぼされようが、世界が存続しようが、舞台から退場させられた彼女たちはもはや関係無い。
それも良いだろう。
ああ、疲れた。本当に疲れた。
ソアリーナは心からそう思う。認めてしまうとどっと疲労が押し寄せてきた。
それはきっと、フェンネも同じだったのだろう。
「さっ、話し込んでいたらもうこんな時間だわ。夕食の準備をしましょう。最近は調子が良いから私も手伝うわよ。ふふっ、神への祈りをしなくて良いぶん、楽に済ませられるわね」
自分たちの悲しみを無理矢理どこかへ押しのけるように、フェンネは笑って見せた。その美しい笑い声にソアリーナも同じく無理矢理作り上げた笑みでもって答える。
自分は上手く笑えているだろうか? 自分たちはちゃんと笑えているだろうか?
だがそんな事もう気にする必要は無いのかも知れない。
なぜなら彼女たちの物語はすでに終わりを告げ、これからはただただ静かで代わり映えのない日々が続くのだから。
彩りを添えるのは窓から差し込む光と、向こう側に見える人々の力強い営み。
そして時々思い出す過去の残響だ。
だからそう、もう何も気にする必要はないのだ……。
だが。
「たのもーーーーっ!!!!」
突如玄関の方から絶叫が響く。
思わずびくりと肩をふるわせたソアリーナとフェンネを誰が責められようか。
それほどにその声は唐突で、無遠慮で、そして強引だった。
「ソアリーナ! フェンネ! 開けてくれええええええ!!!」
自分たちの名前を呼ばれた。人違いなどではなく明らかに自分たちが目的だ。
聖女である二人を害する存在などめったにいない。むしろここアイアンヘンジの街では遭遇する方が奇跡と呼べるだろう。だから恐れる必要はないのだが……。
二人は普通に怯えていた。当然の感情だ。聖女と言えど人間、聖女と言えど女性。
今の二人が抱く感情はどちらかというと変質者に抱くそれと同じだった。
「俺だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
だ、誰なの?
互いに尋ねるよう視線を交差させるがお互い困惑の表情しか浮かんでいない。
その間にもドンドンとドアは軽快にリズムを打ち、外にいるらしき訪問者はなりふり構わず自分たちの名前を呼んでいる。
なんの目的で? というか本当に誰なの!?
答える者はいない。
――ただ、どこかで物語のページが捲られる音がした……。




