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異世界黙示録マイノグーラ~破滅の文明で始める世界征服~  作者: 鹿角フェフ
第七章:数多の願いが集うとき

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第百五十三話 フェンネ=カームエール(1)

 ギィと、木と木がこすり合わさる嫌な音を立てながら木製のドアが開く。

 あばら屋と表現するには少し失礼だろうか、だが普通の住宅と呼ぶにはこれまた評価に過ぎる。

 そんな一軒の家に住まうのは二人の女だった。

 かつて聖女と呼ばれ、人々の信仰と崇敬の念を一身に受けた神に愛されし奇跡の娘たちは、だが今はその栄光が嘘かのようにみすぼらしい格好で慎ましやかに日々を過ごしていた。


 扉から現れたのは聖女ソアリーナ。

 元が村娘だったからだろうか、粗雑な綿の衣装に身を包んだその姿はそこらにいる一山いくらの人々と何ら変わりは無く、だが纏う神聖と美しき顔が否定するかのように彼女の有様を物語っている。

 その手には籠に入ったパンといくらかの食材があり、また薬草と思わしき植物や薬らしきものも見え隠れしている。

 どうやら買い物にでも行ってきたようだ。


「体調はいかがでしょうか、フェンネさま」


 声をかけられた側には、ベッドで休む一人の女がいた。

 聖女に与えられた法衣ではないものの、それでもまだ自らの身体を恥じるかのように全身を布で覆い隠す女。

 全ての聞く者を溶かすその声音で答える彼女は、逃げ落ちたもう一人の聖女フェンネ=カームエールだ。


「はぁ、ソアリーナ。その様付けはやめなさいって言ったでしょ。もう私は聖女でもなんでもないのだから……」


「しかし私にとって尊敬する方には違いありません」


「この街では浮いてしまうと言っているの。困った子ね……」


「も、申し訳ありません……」


 何度言っても聞かない辺り、ソアリーナの頑固な性格が出ている。意志を曲げないことは人として何かを成すときに重要な要素ではあるが、やり過ぎると問題となる。

 ソアリーナが持つ頑固さは、時として彼女たちに厄介な問題を持ってくるが、だとしてもフェンネは彼女を本気で叱りつける気にはならなかった。


 フッと笑みを……神に奇跡を授かったあの日から誰も見ることのない笑みをヴェール代わりの布の下で浮かべながら……フェンネは幾分明るい調子で話題を切り替える。


「ふぅ、体調はいいわ。不思議なものね、これだけ年老いた顔と身体であっても、たいした治療もせずに自然と治ってしまう」


 破滅の王イラ=タクトとの決戦の際、フェンネは死を連想させるほどの傷を負った。

 腹に深く刻まれたそれは確かに彼女の臓器をいくつか破壊し、なんらかの高度な医療措置がなければ回復は不可能だったはずだ。

 にもかかわらず、彼女の怪我はみるみるうちに回復していった。無論ダメージが完全に消え去っている訳では無い。

 未だかつてのように動き回ることはできないし、一日の大半をベッドの上で休息に費やす必要がある。

 だがもはや死神は彼女の側から過ぎ去り、その気配すらない。

 本来はソアリーナがここまで心配する必要はなかった。

 だからもし今のフェンネを害すものが居るのだとしたら……。

 それはきっと彼女自身の心なのだろう。


「最近、このままずっと暮らすことも悪くないかなと思い始めているの」


 ソアリーナが静かに頷き、その先を促す。

 何か吐露したい悩みや思いがあるのだろう。聖女の仕事は何も邪悪との敵対ばかりでは無い。

 むしろ人々に寄り添いその心の闇を払う事こそが平和な時代に求められるものだった。

 ソアリーナも魔女が出現するまではそのような事に一日の大半を費やしていたし、そのような事こそが聖女に求められるものだと理解していた。

 だから、そう、これはいつもの事なのだ。

 悩める者を救い導くのは聖女の役割なのだから。


「何もかも忘れて、破滅の王の事も、私の目的のことも、全て忘れて、このまま世界の終わりが来るまで静かに日々を過ごす。それでもういいのかなって」


 フェンネの心がすでに折れている事は、ソアリーナもなんとなく理解していた。いや、フェンネだけではない。自分もすでに心が折れているのだ。

 平和な世界を信じて、それが神の御心だと信じて進んできた。だが結果はこれだ。

 自分の願いの為に多くを犠牲にしてしまった。それでもなお生きあがいて何になるというのだ。

 そんな自罰的な考えがソアリーナの胸中を占めるが、ふと彼女はある事情を知らないという根本的な問題に気がついた。

 自分は平和と人々の為にレネア神光国を興した。では一体フェンネはどのような理由があって自分たちに協力してくれたのか?

 同じ理想を共有していたと当時は信じていたが、今になってみるとそれは少しおかしい気もする。


「フェンネ様はどのような目的があったのですか?」


 ソアリーナは、意を決してその問いを口にする。覚悟を持ってフェンネの心の奥底に触れることとしたのだ。


「ふふふっ」

「えっと……」


 その笑いにソアリーナは少し困惑してしまう。馬鹿にする為の笑いでもなく、何か面白いことを楽しむ笑いでもなく、それは思わず零れてしまったとでも言わんばかりに寂しさにあふれた物だったから……。


「貴女と一緒よソアリーナ。ただ幸せになりたかっただけ。聖女の願いなんてどれもこれもそんなちっぽけなものよ」


 その言葉の意味がいまいち掴めずソアリーナが困惑していると、フェンネは窓の方へ視線を向けながら語り出す。

 昼時のため外からは明るい日差しが入り込み、窓の向こう側には貧しいながらもたくましく生きる人々の営みが見える。

 明かりをともしていない室内は日光が差し込むとはいえ少し薄暗いが、その明るさと暗さが、何かを暗示しているかのようにも思えてしまう。


「昔はね、自分で言うのもなんだけど、いわゆる絶世の美女ってやつだったのよ私――ふふっ、面白い顔。貴女のそんな顔、久しぶりに見たわ」


 フェンネが笑う。今度は楽しげなものを見た時の笑い声。

 ソアリーナは自分が余程変な顔を見せていたのかと思わず口元に手を当ててみるが、残念ながら指先の感触だけで自分の表情をうかがい知ることは出来なかった。

 そんなソアリーナの態度がこれまた面白かったのか、フェンネは続けてコロコロと笑うと、一転して少し静かな口調で語り出す。


「まぁ聞きなさい。長い話よ。面白くもなんともないけど、貴女が聞きたがったんだから責任を持って最後まで聞きなさいな」


 ソアリーナを椅子に座るように促し、何かを思い出すようにふぅと息を吐く。

 そして、フェンネ=カームエールという女性が聖女に認定されるまでの、長い長い旅路の話が始まった。


 ◇   ◇   ◇


 聖王国クオリアのとある街……東方州の港町に絶世の美女と歌われし踊り子がいた。

 クオリアは宗教国家の為、全土にその教義が行き渡っており人々はその教えから来る道徳観をベースとして暮らしを営んでいる。

 とは言え地域差というものは確かに存在する。中央や北方州とは違って東方州におけるそれはクオリアという国から連想されるものとは違ってかなり緩いものがあった。

 すなわち娯楽産業の繁栄である。

 本来クオリアでは娯楽というものは適度に楽しむべきものと考えられている。貪りは執着に繋がり、執着は大切なものを失わせる結果をもたらすとの教えがあるからだ。

 故に賭博、ギャンブル、酒、薬、売春などといった人の欲望に直結するような娯楽は厳しく制限され、場合によっては死刑もあり得るほどの刑罰が違反者には下される。

 だがここ東方州では経典の解釈の差からその辺りの制限がかなり緩く、他州の者が見れば目を回して卒倒してしまうほどに煌びやかな職業が東方州を管轄する教会の名の下に認可されていた。

 そんな街に、フェンネは生まれ落ちた。


「絶世の美女フェンネ=カームエール!」


 酒場――と呼ぶにはあまりにも豪華なその場所の中央。一人の男が思わず叫ぶ。

 ステージの上に立つフェンネはその身に付けた薄布をヒラヒラと踊らせながら、ともすれば艶めかしいとさえ言える所作で人々の向かってお辞儀をして見せた。

 その瞬間、静かだった酒場に割れるような拍手と喝采の声が響き渡る。


「貴方を我が夫に!」

「いいや、彼女は私のものだ!」

「美しきフェンネ! ああっ! 貴方の愛をいただけるのであれば、私は他に何もいらない!」

「どのような金銀財宝も、どのような装飾品も、彼女を彩る脇役でしか無い。全ての装飾品は貴方を前に石木と化し、己を恥じるでしょう!」


 賞賛の言葉は尽きることは無く、ステージ下の従業員らしき者たちへ投げるように渡される贈り物の数々はすでに山となっている。

 そこらの凡夫のそれではない。使われる賞賛の言葉を聞けば教養と地位の高さが知れるし、送られる品物を見ればその財力の高さが知れる。

 高位の聖職者、聖騎士、大規模な商会の会長。そんな人々が子供のような憧れの籠もった瞳を向けている。

 その場にいるあらゆる存在が彼女に、ただ彼女だけに注目していた。


 ――私はきっと神さまに愛されているんだわ!


 その考えは傲慢ではあったが当然の帰結ともいえ、また純然たる事実とも言えた。

 フェンネの、彼女の人生は、まるで運命があらかじめ決められていたかのように常に激流の如き速度で過ぎ去っていった。

 平凡な家庭の生まれだったフェンネがその美貌による狂乱に巻き込まれ始めたのは、なにも遅い時期ではなかった。むしろ驚くほどに早かった。

 どこそこの家に驚くほど愛らしい少女がいる。

 始まりはそんな街の片隅で主婦たちが繰り広げる噂だった。

 何処にでもあるような日常の話題。一時盛り上がったかと思ったら、まるで潮が引くように消えてゆき、いつしか誰もそのことを覚えていないようなそんな話題。

 だが彼女の持つ美しさが、それを許さなかった。

 噂が噂を呼び、人が人を呼ぶ。街の片隅の噂はいつしか街中に広がり、周辺の村や町に広がり、やがて東方州全土まで広がりを見せる。


 ――皆が私を褒めてくれる。皆が私に贈り物をくれる。皆が私に笑顔を向けてくれる!

 ――私は神様に愛されている! 皆が私を愛してくれている!


 悲劇の一助となったのは、クオリアという国が確かに神の寵愛と善性によって成り立っていたという事だろう。

 彼女が持つ魔性の魅力の危険性を確かに理解し、純粋無垢なる少女に悪しき欲望の手が伸びないよう彼女をよく知る人々が影ながら尽力したのだ。

 彼らは願っていた。

 この小さく愛らしい娘が人並みの人生を送り、幸せに暮らす事を。

 だがその善性が、嘘偽りの無い愛が、彼女が内に秘める誤解を解くことなく肥大化させてしまった。

 本来ならもっと早い段階で人が持つ悪意に気づくはずの少女は、何も知らぬまま成長していったのだ。


 ――私がお話しすると皆が喜んでくれる。私が笑顔を向けると皆が喜んでくれる。

 ――私はなんて幸福なんだろう! 私はなんて恵まれているんだろう!


 やがてその美貌がもたらす金と欲望が彼女の人生を破壊したのはそうおかしいことでは無かった。

 母親は彼女を通じて貢がれる金銭に夢中になったし、父親は彼女を求めてやってくる者たちが持つ権力に魅了されてしまった。

 気がつけばフェンネは家族を失いひとりぼっちで、踊り子という職業を始めたのはそういう理由もある。


 ただ、彼女は自分の生まれや境遇を不幸だと思ったことは無かった。

 正確には不幸は確かに感じるが、この不幸はやがて幸福に至るための過程であると考えていたのだ。


 ――私の騎士様はどこにいるのかしら?


 フェンネには小さな頃から夢があった。それは幸せな家庭を築くこと。

 何の変哲もない家庭だ。愛する夫と愛する子供、ずっと続く幸せ。最低限家族が食べていける程度の生活であれば更に文句は無い。

 ただそこに少しだけ夢を載せるのなら、夫との出会いは劇的であればと願っていた。


 ――私の騎士さまは、いつ来てくれるのかしら?


 幼き時代のフェンネが好きだった絵本がある。

 題名は『騎士さまと悪いドラゴン』

 それはクオリアに流通する典型的な内容の物語で、若い聖騎士がドラゴンに囚われし街娘を救出しにいくというものだ。

 人々や上司が無謀だと諫める中、その若い下級聖騎士は正義の心と神への信仰を抱き死地へと赴く。

 姫でも貴族でも何者でもない、ただの街娘を助ける為だけに命を賭ける聖騎士。

 携えるのは聖騎士剣と鍛え上げた聖剣技。そして神への信仰だ。

 壮絶なる戦いの果て、神の祝福を受けた聖騎士はやがてドラゴンを打ち倒す。

 街娘は無事で、新たなる英雄も五体満足。凱旋する二人を人々の喝采と祝福が包む。

 そして二人は当然の様に恋に落ちる。

 最後は二人が聖神アーロスの祝福の元で幸せな家庭を築き、ずっとずっと幸せに暮らしましたと締めくくられる児童向けの絵本だ。


 ――これだけ神さまに愛されているのだから、きっと私にも騎士さまが来てくれるんだ!


 フェンネはこの物語が小さい頃から大好きだった。

 優しかった母がいつも読んでくれたこの話が、何よりも大好きだった。

 自分もこの絵本の中の街娘のように、いつか自分だけの騎士さまがやってくるのだと信じて疑わなかった。

 だから、両親が彼女がもたらす財貨に惑わされ破滅したときも、仲のよかった住人の人たちが怯えた様子で距離を取るようになり始めたときも、親戚を名乗る一度もあったことのない者たちに財産を全て奪われた時も……。

 狂いそうになりながらも、耐えることが出来たのだ。


「フェンネは俺のものだ!」

「いいや、俺と寝たんだ! 俺の妻になると誓ってくれた!」

「嘘だ! 俺だってフェンネと結ばれたぞ! 彼女がそんな事をするはずがない!」

「このクソ淫売が!」

「ずいぶんと良い声で鳴くじゃないか!」

「聖なる国でなんたる有様、恥を知れ!」

「その顔と股ぐらで何人の男をダメにした?」

「お前のような女は男がしっかりとしつけないとな!」


 だからそう。

 生きるために身体を売ったときも、愛した男に顔が腫れ上がるまで殴られた時も、信じた男に商売道具として使われたときも、どれだけ女性としての尊厳を踏みにじられたとしても。

 彼女は耐えることが出来た。


 ――神さま、私の騎士さまは何をしているのでしょうか?


 やがてかつての少女は大人になり、男という存在の愚かさを理解し、同時に自らの美貌の使い方を理解する。

 結局、落ち着いたのは踊り子という立場だ。

 もちろん騙されることはあったし、恥辱を受けて歯を食いしばらねばならぬ事もあった。

 だがマシだ。あの頃よりもずっとマシだった。


「偉大なる聖神アーロス。本日も無事平穏に過ごすことができ、感謝致します。どうか明日もその恩寵をこの身にいただけますよう。祈りを捧げます」


 驚く事に、これだけの境遇を経てなお、フェンネは就寝前の神への祈りを忘れたことはなかった。

 それは果たしてどういう意図か?

 強く願えば神様はきっと助けてくれると笑顔で語ってくれた優しかった頃の母の記憶か、それとも自宅にあつらえた豪華な祭壇に毎晩真剣に祈っていた父の姿の記憶か。

 もしくは好きだった本に出ていた騎士さまの記憶か……。

 フェンネが日々の祈りを忘れることは決してなかった。


「偉大なる聖神アーロスよ。本日は少し厄介な客が来ましたが、この程度の問題で収めて下さったこと、心より感謝致します」


 なんの変哲もないある日の事だった。

 その日も踊り子としての仕事が終わり、ちょっとしたトラブルに時間を取られながらもなんとか一日を生き抜いた夜。

 彼女の祈りは、唐突に神へと届いた。


=Message=============

フェンネ=カームエール。願いを提示してください。

―――――――――――――――――


 それは劇的な変化であった。

 まるで時が全て止まったかのように周りの全てが停止し、昼間ですらこれほどの光は存在しないだろうという輝きに辺りが包まれる。

 かと思えば誰もこの変化に気づいている様子はなく、ただ自分のいる部屋だけが切り取られたかのように隔絶している。

 そして脳と耳朶を優しく揺らす声。

 自らの声が聞く人全てを魅了する魔性のそれであるのなら、それは聞く全存在を祝福する、まさしく神の声だった。


 聖神アーロスが。顕現したのだ。


 涙があふれる。

 神は存在すると知っていた。多くの人々がそう言っていたし、あらゆる書物や伝承、物語にもその実在は示唆されている。

 だが自分の元に来てくれるとは思わなかった。いくら神に愛されているとはいえ、流石のフェンネもただの街娘にそのような奇跡が起こるとは思ってもいなかったのだ。

 だが神は実在する。彼女の目の前に。

 献身的な祈りは届き、祝福の声と共にその存在はやってきたのだ。


「ああっ! 偉大なる神よ、聖神アーロスよ! なんて、なんて喜ばしい日なのですか! ありがとうございます神よ! 感謝致します! この出会いに感謝致します!」


 涙があふれる。嗚咽が漏れ、感激の言葉が震える声と共に叫ばれる。


=Message=============

貴女の願いを提示してください。

―――――――――――――――――


 フェンネはあふれる涙を拭くの袖で拭う。そして神への礼を失しない様に祈りの姿勢を取り、静かに、そしてハッキリと告げた。


「私は本物の愛が欲しいのです。多くの男の人からどれほど愛の言葉を受けても、それは本物ではありませんでした。私の曇る眼では人の真実を見定めることが出来ません。それでは愛を探せないのです」


 神からの返答や相づちはない。だがちゃんと話を聞いてくれているという確信はあった。

 フェンネの口から次から次へと言葉が出てくる。まるで抑圧されてきた願いがついに爆発したかのように、彼女は言葉を止めることができない。


「私を捧げるに値する、私を裏切らない男性が欲しいのです。私を心から愛し、どんな困難にも立ち向かい。私の全てを、私の魂を愛してくれる、騎士さまが! 物語の騎士さまが!」


 自分だけの騎士さま。

 多くの男を狂わせ、自ら共々破滅させ続けた魔性の女は、そんな少女じみた幻想をこの時まで抱いていたのだ。

 数えきれぬ程の男に汚され、裏切られた女は、まだ世界のどこかには自分に相応しい夫となるべき男がいるのだと信じている。

 ただ運が悪いから、ただ本物に巡り会えていないから。だから自分は裏切られ続けているのだと、そう純粋に信じていた。

 そしてその純粋無垢なる願いを、神は確かに聞いていた。


=Message=============

――その要求を受理します。

   祝福を授けましょう。

―――――――――――――――――


「ああっ、ああっ……!!」


 彼女の人生に絶頂というものがあったのなら、おそらくこの時この瞬間だったのであろう。

 ここが、この一瞬が最高であった。

 自分の苦しみが全て報われ、望みが叶い、そして真実の愛が手に入る。

 幸福と絶頂。彼女の心の奥底にいた絵本好きの小さな女の子が喜びの声を上げ叫ぶ。



 ――幸せがやってくる! 幸せがついにやってくる!

 ――私の元にも物語の騎士さまがやってくるんだ!

 ――聖なる剣を持ち、誰よりも優しく、誰よりも強くて、そして私を愛してくれる。

 ――私を幸せにしてくれる、私を絶対にいじめない素敵な素敵な騎士さまが!


 ――やっぱり私は愛されていた! 神さまに愛されていたんだ!

 ――ありがとうございます神さま! 心から感謝いたします!

 ――ああ、もう待てない! 今すぐ荷物を準備しなきゃ!

 ――今まで騎士さまが来なかったのも、きっとうっかり寝過ごしていたからね!

 ――神さまがくれる力を使って、ねぼすけな騎士さまを迎えに行かなくちゃ!



 これがフェンネにとって人生の絶頂だった。

 確かに人生の絶頂だった。だから……。

 あとはもう、落ちるだけだった。


「何という事だ。その顔は一体どうしたんだフェンネ!」

「まるで老婆じゃないか! 本当に神から祝福を得たのか?」

「悪と取り引きをしたのでは? ああ、ところで先日の約束は無しにしてくれ、理由は分かるな?」

「フェンネ……? そういえばそんな女もいたな」


 人々は急速にフェンネ=カームエールという女性から離れていった。

 神はフェンネに《人の心を読む》力を与えた。それは確かに、完全に、完膚なきまでに人の心の奥底まで見通す神の瞳である。

 そして同時に、神は彼女から代償としてその美貌を持って行った。

 人々が愛した、人々が狂うように求めた。その美貌を……。


 だから悲劇が起きる。


 彼らが愛したのはその美貌であって、老いさばらえた枯れ木のような醜女では無かった。

 唯一残ったその美声は確かに未だその魅力を放っていたが、その事実が逆に男達の神経を逆なでした。

 そのような見た目をしながら、なんという声で囀るか。

 かつては人々を魅了する美しき声音と賛美された声は、老いて痩せ細ったその身体と合わせると人々を誑かす魔の声と蔑まされる事となる。


(なんと醜い女だ!)

(なんでこんな女にあれほど金をつぎ込んだんだ? 詐欺じゃないか!)

(声は良いし顔を隠せば抱けるか? いや無理だな)

(神も余計な事を。この女はあのままが良かったのに)

(聖女か……中央に売ればいくらか金になるか?)


 神の瞳で見た人々は、醜悪そのものだった。

 その心に抱く悪意は吐き気を催す程で、取り繕った笑顔の奥底で下劣な欲望を煮えたぎらせている。

 フェンネの周辺には、いつしかそのような者達しかいなかったのだ。

 もしかしたら、もっと早い段階で彼女がこの力を手に入れていたら……。すでに去ってしまった、彼女を真に愛した人々の思いを知ることが出来たかも知れない。

 だが事実はそのようにならなかった。

 現実は彼女に苦しみを与えるだけだった。


 ただ……。それでもフェンネは人を恨むことはなかった。

 ここで憎しみのまま復讐を果たせればどれほど良かっただろうか。神の祝福を受け聖女となったフェンネにはその力があった。

 だが彼女の持つ生来の善性と、今の今まで心を支え続けてきたものがそれを許さなかった……。


 ――ドラゴンに浚われたあの街娘は誰も恨んではいなかったわ。

 ――笑顔で騎士さまと共に中央の聖都に凱旋したの。

 ――だから、そう……。


 気がつけば、彼女はひとりぼっちで中央へ招かれていた。

 人々は新たなる聖女の誕生に喜び、その神の奇跡を口々に祝福する。



 偉大なる神を称えよ! 聖なる神アーロスを称えよ!

 ここに新たなる聖女フェンネ=カームエールは聖誕した!

 祝福あれ! 新たなる聖女に永遠の祝福あれ!



 熱狂と混乱と興奮。歓喜と崇敬と羨望。

 人々のあらゆる感情が渦になったその中心に一人の娘が心静かに座す。

 こうして顔伏せの聖女フェンネ=カームエールは生まれた。

 彼女が顔伏せと呼ばれるのは、何もその老いた顔を人目に見せぬようヴェールを被っているからではない。

 かつては晴れやかで輝きに満ち、前だけを見ていた顔が、今はもうずっとずっと伏せられているからだ。

 自分の人生がただ苦しみだけの為に存在していたと知り、前を見ることを諦めたが故に……。

 もう誰も見たくないから。もう何も聞きたくないから。だから……。

 いまはただ、神に愛されていると有頂天になった女の末路が横たわっているだけだ。

 それが聖女と呼ばれようと、もはや関係無い。


 ――騎士さま……。


 ただ、小さな女の子が泣き続けるだけだった。

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― 新着の感想 ―
愛してくれる騎士さまが欲しいという願い叶ってないじゃないか。 やっぱりこの世界の神様ろくでもないな。
聖王国クオリアのとある街……東方州の港町に絶世の美女と歌われし踊り子がいた。 >謳われし、ですかね いつも楽しく読ませて頂いています!
>「貴方を我が夫に!」 妻かな?
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