汗
駅まで向かういつもの道を歩くだけで、汗が噴き出すような暑い日だった。
喫茶店で出されたグラスにまるで汗が流れ落ちるかのようについた水滴を眺めていた。
まるで意を決したように彼は言った。
「俺、会社を辞める」
「そう、いいんじゃない」
本当に、そう思ったからそう言ったのに、彼は驚いた顔をしていた。
俺に何を求めていたんだろう、と思いながら、自分は彼が求めていた言葉を知っていながらそれを差し出すことを選ばなかったんだなと理解した。
彼は幾度か口を開けて、そして閉じた。自分が口に出した言葉の行き先をどうしたら良いのかと迷うように。
俺は彼をとても哀れだと思った。その気がないなら言わなければ良いのに。言ってしまったらその言葉の責任を取らなければならないじゃないか。彼とは浅い付き合いだったが、俺は彼にそれだけの度胸がないことを知っていた。
彼が自分に言外に助けを求めていたことはよくわかった。今の発言を取り消させてくれないかと。そのチャンスを与えてはくれないかと。
俺はそれをわかっていながらもそれを無視して彼の次の言葉を待った。
(俺は冷たいのだろうか)
彼の気持ちをわかっていながら、彼の要望にあえて応えない自分を省みる。
けれど、この時はなんとなく、彼は自分が放った言葉の責任を取るべきだと思ったのだ。
だから、俺は彼の言葉をただ待った。少しの優越感を抱きながら。
彼はようやくもう一度、開いた唇に音を乗せた。
「そうか、よかった」
「もう、次は決まっているんだ」
「来月から次のところで働くことになってる」
コーヒーを飲み干して、彼は席を立った。
俺はもう少しここで作業をするよ、と言って残った。
なんだ。
捨てられたのは俺だったのか。
彼にこの会社にいて欲しかったのは。
彼に頼っていたのは、俺だったのか。
彼のコーヒーは飲み干され、
俺のコーヒーはそのままだった。
グラスについた水滴はすっかり乾ききって、
これから外に出ても汗が噴き出すようには思えなかった。