09 : 笑う門には幸、きたる
セイクリッドと、これほど長い時間共に過ごすのも、こちらの世界の食事を取るのも初めてだ。奈枝はセイクリッドと向き合ったまま、食事を続けていた。
「それで、お兄ちゃんってなに。君が傷ついてた諸々のあれは全部、兄弟喧嘩だったの?」
「平たく言えば」
「平たく言わなくていいから、ちゃんと言って! 聞く権利ぐらいはあると思います!」
彼の心の傷を抉ることを避けていた奈枝であったが、これ見よがしにチラつかされたものまで看過できるほど、大人ではない。
特に、兄弟喧嘩で誘拐まで起こすなんて普通ではない。更に未だ脅威の真っただ中にあると知り、心穏やかにあちらの世界に帰ることは難しい。
「よくある話ですよ。父が他所で産ませた下賤な私が気に食わない――と。生まれ年を考えても、血筋を取っても、ドンと構えていればこともなく終わることなんですがね。高貴な血は一滴の汚れさえ拭き取らねば、気が済まないのでしょう」
冷めた目と口調で淡々と説明するセイクリッドに奈枝は頭を抱えた。なんだその、ばあちゃんが毎日欠かさず見てた昼ドラみたいな設定は。
「……よくある話かどうかはおいといて。なにそれ、生きてる限り命を狙われるってこと?」
「いえ。あるいは、相続権さえ放棄してしまえば――」
「放棄しよう! 今すぐ! 別にこだわってないんでしょ?! そういうの」
解決の糸口をつかんだ奈枝が、ぱんっと両手を叩いた。
その奈枝に、セイクリッドは間髪置かずに言い放つ。
「嫌です」
あまりの潔さに、奈枝はわなわなと唇を動かした。
「いいいい、いのちと、どっちが大事なの!」
奈枝にしてみれば、当然命だ。
なのに、セイクリッドはぴしゃりと言いきった。
「当然、相続権です」
奈枝にはその理由がわからなかった。命より優先したい権利など、奈枝は持ち合わせていない。
「相続権は、この屋敷の住人であることを何よりも明確に示しています。これがある限り、当主でもない兄は、好きに私を追い出すことは出来ない」
「……けど、そこも詳しく聞きたいけど……仕事もしてるんでしょ? 収入もあるなら、他所に家を借りてもいいんじゃ……」
セイクリッドは目を閉じた。
睫毛を震わせながら深呼吸のように長い息を吐くと、そっと瞼を開く。
「自らの権利を溝に捨てるなど愚者のすることです。持てるものは持っておく。こんな世の中です。当然でしょう」
不敵な笑みを浮かべたセイクリッドに、奈枝は言及を諦めた。
「……生き残る保証、あるんだよね?」
「奈枝さんに心配はかけないと、保証しましょう」
100点満点ではない返答だったが、奈枝はそれで妥協した。働かない男に働けと言っているのと同じ匂いを、セイクリッドからも感じたからだ。
「私は必ず、貴女よりも先に老い、骸となるでしょう。その日はきっと、さほど遠くない」
奈枝は怒りも忘れて、ぽかんと口を開けた。
何も考えず、流れに身を任せていただけの奈枝とセイクリッドは、違うのかもしれない。奈枝は初めてその事に思い当たった。
彼はその飽きるほど長い待ち時間の中で、何を考えていたのだろうか。
突然の事に頭が回らない奈枝の表情に、わずかばかり目を細めると、セイクリッドは平らな口調で告げた。
「最期の日はどうか、決して聖女の役目をさぼらずに、必ず迎えに来てくださいね」
セイクリッドの精一杯の甘え。最期の瞬間を奈枝に看取られたいと伝えてきた彼に、唇を噛む。奈枝はもう、誰も見送りたくなどなかった。
けれど、このまま過ごせばきっと、遠くない将来そうなるのだろう。
なら、最後に。まだ誰かを見送るのならば――
「……わかった。葬儀のやり方なら覚えたから、任せておいて」
ドンと胸を叩く奈枝に、セイクリッドは優雅に口の端を上げた。
***
「さっき話してた、私兵隊ってなに」
「我が領地の私兵、警備組織です」
「それに入ってるって聞いたんだけど」
「ええ」
「それどころか、隊長さんになったって聞いたんだけど」
「ええ」
「私、聞いてないんだけど」
「昨夜お伝えしましたよ」
「えっ? ――あっ!」
優位に立って言い募っていた奈枝は、慌てて口元を押さえた。昨夜、こちらの世界にやってきた酔っ払いの面倒を見たのは、まず間違いなく彼だ。
自分が強く言える立場でないことを思い出し、しおしおと肩を窄ませる。
「そ、それはごめ……」
「まぁ冗談ですけど」
「セイクリッドォオオオオ!!」
奈枝は腹パンしたい気持ちをパンにぶつけた。二つに裂けたパンに齧り付いて、息をつく。
「……それも、危なくないの」
ポツリと奈枝がつぶやく。
「貴女の頭と同じく万年春のような常世とは違い、こちらは何処にいても、何をしていても絶対の安全などありませんよ。己の身を守れ、立場を築ける――私には勝手のいい場所です」
奈枝が、ぐっとパンを飲み込む。
「……ですが、兄にも、敵にも。そう易々とくれてやるほど、このセイクリッドの首は安くはありません」
「素直に、死なないように努力するから安心していいよ大好きな奈枝さん、って言えないの」
それが言えれば苦労はしない。今度はセイクリッドが、パンと共に言葉を飲み込んだ。
それからしばらく、二人はもぐもぐと口を動かし続けた。
奈枝よりもずっと優雅な動きで、セイクリッドは食事を終えた。お茶のおかわりを注ぐセイクリッドに、奈枝はカップを渡す。我が家では、年少者がお茶を淹れるのは当たり前のことだった。
「こんな美味しいの食べてたんじゃ、あんな冷ご飯チンしたおにぎりなんて食べられたもんじゃなかったねぇ」
よくわからない煮凝り状のものを口に入れながら、奈枝は思い出す。
倒れていた幼児のセイクリッド。彼のために作ったご飯は、小学生のセイクリッドが平らげた。
葬式帰りでろくに食材も入っていなかった冷蔵庫の中身で作ったおかず。お世辞でも美味しいとは言い難いものだっただろう。
その時を思い出していたのは奈枝だけではなかった。神妙な顔をして、セイクリッドは入れ終えた茶の水面を見つめる。
「……私が今まで食べた中で、あれほど美味いものはありませんでした」
またひねくれた嫌味を、と半笑いで奈枝がセイクリッドを見る。
彼の表情を見た途端、二の句が継げなくなった。セイクリッドがあまりにも、悲しそうな顔をしていたからだ。
「……美味しいの、嫌だった?」
「まさか」
「じゃあ、笑ってよ。嬉しい時は、笑うんだよ」
当たり前のことを言った奈枝に、ポットを傾けていたセイクリッドは息を喉に張り付けた。
「笑ってよ、セイ君」
その言葉にセイクリッドの表情が凍り付く。
「笑わなきゃ駄目。笑わないと、忘れるよ。生きてても、心が死んじゃう」
奈枝は、自分の価値観を簡単にセイクリッドに押し付けた。歩き続けなければ、立ち止まってしまうように――笑い続けなければ、笑えなくなると。
奈枝の横暴な持論をぶつけられたセイクリッドは困惑していた。
もう何年自分が笑えていないのか、さっぱりわからなかったからだ。
セイクリッドは、奈枝の言葉の通り、笑い方を忘れてしまっていたのだった。
笑うことは、セイクリッドが生きる目標に掲げた「奈枝に恥じない生き方」の中に、必要がなかったから。
お茶を入れようとしていたセイクリッドが顔を伏せ、初めて年相応の――困惑したような、弱り切ったような表情を浮かべる。そして、小さく首を横に振る。
触れれば壊れてしまいそうな危うさに、奈枝は土足で足を踏み入れた。
だけど、だからこそ。ここで、引いてはいけない。
「笑お、奈枝さんが見ててあげるから。ね、ほら」
にー。と奈枝が身を乗り出して、セイクリッドの頬を引っ張る。いつもの覇気も嫌味もなくしたセイクリッドは、ただ奈枝の暴挙にたじろいでいる。
「セイ君、大好きだから」
ね、ほら。そう言って優しく微笑む奈枝に、セイクリッドはくしゃりと顔を歪めた。
笑えている、とは到底言えないその下手くそな笑みに、奈枝は泣きたいほど心が潤うのを感じた。