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05 : 五つ子の魂百まで

 復学して、何事も無い日常が過ぎていった。毎朝ご先祖様、両親、祖父母が眠る仏壇にお茶と白飯を供え、家を出る。

 一日に一度は家中の窓を開けて風を通し、毎月一度は墓参りにでかけ、手を合わせる。

 学校では他愛もない話題で盛り上がり、時に腫れもののように触られた。奈枝にとっては、子どものころから変わらない日常だった。


 変わったこともある。

 日常の隙間に、度々セイクリッドと言う少年の記憶が入り込むのだ。


 四十九日を終えた今、毎日のようにあちらの世界に通いたい気持ちは、日に日に強くなっていった。あのまま別れたセイクリッドを心配する気持ちも大きかった。


 しかし、奈枝はこちらで、彼はあちらで――間違いなく、生きているのだ。


 曖昧な世界は、心地よさを与えてくれる。心細い奈枝に、潰えてしまったと思っていた愛をくれた。けどそれは、決して――依存していいものではない。

 二つの世界がどうして交わっているのか、奈枝にはわからない。起きているから夢ではないし、現実だから映画でもない。

 わからないことだらけの中で確かなことは、奈枝はこちらで、彼はあちらで、これからも立ち続けなければならない――と言うことだった。


 奈枝はこちらの世界を疎かにしない程度にしか、あちらの世界に干渉してはいけない、と自分で制限を設けた。子どものころから厳しいしつけの中で育った奈枝にとって、それはあまり難しいことではなかった。むしろ、もうすぐ行ける、という希望が、毎日の孤独を走り抜ける活力になった。


 彼を思い出すと、奈枝はあたたかい気持ちになれた。簡単には会えないけれど、どこかで繋がっている「弟」のような存在。彼を思い出す度、奈枝は力が沸くようだった。


 そうこうしていると、すぐに初盆となった。再び賑やかになった仏前に、届けられる沢山のお供え物を並べていく。和裁教室、詩吟の会、ゲートボール仲間に、古くからの友人。交流の輪が広かった祖母の元には、そのお供え物の数以上の人が訪れてくれた。

 一人で切り盛りできないだろうと、再び隣組のおばさんたちが喪服で台所に駆けつけてくれた。赤飯を炊き、漬物を切り、お茶を淹れ、大量のお菓子を皿に盛りつける。祖父の時は、祖母が先頭に立っていたことを、今度は奈枝が執り行った。


 うだるような暑さの中、化粧崩れを直す暇もなく、台所と仏前を行ったり来たり。お出迎えはおばさんたちに甘えて、見送りの時だけ玄関に顔を出した。

 弔問客の言葉に、幾度か目頭を熱くさせた。人々の厚意に支えられ、眩暈を起こしそうな三日間が終わった。




 夏休みの間、短期間のバイトを始めた。初めて、自分の労働力を賃金に変える責任を知った。気が張ってばかりのバイトを終え、這う這うの体で帰ってきても、真っ暗な家が出迎えてくれるだけ。溜息の数がぐんと増えた。

 家と、バイト先と、大学を、行ったり来たり。

 淋しい奈枝の夏休みに対して、「旅行に連れてってくれる彼氏の一人もいないの」と笑う教授に、その日の晩、やけっぱちになり酒を奢らせた。


 男に頼らずとも、旅行ぐらい行けるんだい。


 ぐでんぐでんに酔っぱらって帰って来た奈枝は、這いずるように階段を上り、勢いのまま和箪笥の引き出しに飛び込んだ。体が浮くような、沈むようなこの感覚にも、もう慣れてきた。


「ぐえっ」


「――また、なんという格好で……」


 二股の枝から転げ落ちた奈枝を待っていたのは、天邪鬼な少年と草の匂い。奈枝はひっくり返ったまま、うへへと口角を上げた。


「ほーら! どんなもんだいってんだい! 教授め! 海外旅行どころじゃねえんだてやんでい! 異世界旅行だって出来るんだぞ、ばーろーめ、こにゃちくしょうめ!」

 奈枝が頭に思い描いた初老の教授に向かって叫んだ。ずるずるずる、となめくじのように這いながら、姿勢を整える。


「口も行儀も悪いですよ」

 酔っていらっしゃるのか。そう続ける声が、記憶の中にある声よりも随分と低くなっている。


「やっほう、セイ君。あらまーイケメンに育って……もしかして、声変わりしたあ?」

「池綿……? もしかしなくても。もう、17になりました。いつまでも幼子のような声でいるほうがおかしいでしょう」

 奈枝は驚きに目を見開く。

「じゅうしちぃ? またまたぁー! この間まで中学生だったじゃーん!」

「チュウガク……? 今日は常世 (とこよ) 言葉を多く使われますね」

 頭の上に広がる、曇り空と同じ色のセイクリッドの髪は、前回に会った時よりほんの少し伸びている。ミリタリー風の漆黒の服を纏い、精悍な顔つきになった少年は、以前から随分と成長したように酔った頭の隅でも感じた。


「驚かれるのも無理はありません。現世うつしよと常世では、巡る時の速さが違うようですから」

 鬱病と床? けらけら奈枝が笑っていると、セイクリッドが仏頂面で手を差し伸べる。親切にする時さえしかめっ面のセイクリッドに、奈枝がまた笑った。

 切り株にハンカチを載せたセイクリッドが、奈枝をそこに座らせる。お姫様扱いににやける奈枝の隣に、セイクリッドも腰かけた。


「貴女は、私が6つの時から変わらない」


 低いセイクリッドの声に、再びふふふと奈枝は笑った。そりゃそうだ。だってまだ私にとっては、数カ月しかたってないんだから。

 酔いのせいでふらつく体を、セイクリッドに預ける。こてんと頭を載せた場所が、彼の肩の位置だと知る。


「大きくなったねぇ」

 背なんかは、もう奈枝を越したかもしれない。満足気に、奈枝は笑う。


 セイクリッドはへちゃへちゃと笑う奈枝を見た。奈枝もこの不思議な空間にいる少年を見つめる。一度目線を落とした彼は、もう一度顔を上げた。


「御名を、賜りたく」

「ミナ? みな……あぁ、そう、名前。名前だったね」

 うんうん、と適当に頷く奈枝とは対照的に、セイクリッドは真剣な表情だった。奈枝は面白くて、ふふふと笑う。

「アンパン食パンカレーパン・ドキンバイキンホラー・ジャムバタチーズだよ」

「アンパンショクパンカレーパン・ドキンバイキンホラー・ジャムバタチーズ様」

「じょーだんでーす」

 真顔で、一音すら間違えず復唱された奈枝はケラケラと笑った。セイクリッドの額に浮かんだ青筋が目立ち始める前に、奈枝は口を開いた。

「片峰だよ、片峰 奈枝」

「カタミネナエ様」

「かたみね・なえ。セイ君は家族だから、奈枝って呼んでいいよ。『なえおねえちゃん』とか、『なえさん』って呼んで」

「カタミネ・ナエ……奈枝さん」

「うん、そう!」

 何が面白いのか、奈枝は両手を叩いて笑っている。セイクリッドは、口の中で繰り返す。

「奈枝さん」

「なあに」

「奈枝さん」

「なあにぃ」

 覚えたての言葉を口にする子どものようなセイクリッドを、奈枝は笑いながら撫でた。機嫌がいいのか、いつもは寄せられるセイクリッドの眉根も平らなままだ。奈枝は嬉しくて、また撫でる。

 細く柔らかい月色の髪は奈枝の手にしっとりと馴染む。目を細め、「奈枝さん」と繰り返すセイクリッドをじっと見下ろすと、今までは感じなかった居心地の悪さを感じた。訝しく思えど、用事を思い出した酔っ払いの頭からは、すぐに抜け落ちた。奈枝はポケットに手を突っ込む。

 取り出した飴を、ぽいっとセイクリッドの口に放る。突然のことに驚いたのか、セイクリッドは目を瞬かせる。


「飴。飲み屋のレジでもらったの。教授と飲んでたんだ」

「教授とは?」

「行ってる大学の先生だよ。奈枝さん、こう見えてお勉強しているの。将来ね、安定したお仕事につきたいから」

 偉いでしょ、と笑う顔は締まりがない。しかし、セイクリッドは言葉に詰まったように真顔になった。

「それでね、飴見て、セイ君思い出して、会いたくなっちゃったから来ちゃった」

 教授へのほんの少しの対抗心は、自分への建前にすぎなかったのかもしれない。火照った頬で笑う奈枝を見ていられずに、セイクリッドは口の中で飴を転がしながら、顔を伏せる。


 あの時、傷だらけで地に伏していた彼の姿を、奈枝は幾度も思い出す。


「あっちにいても、あの時のセイ君を、何度も、何度も、思い出すよ」

 ――辛かったねえ、悲しかったねえ。そう言って、


「哀れみですか?」

 知性と理性を兼ね備えた少年の不満げな声に、奈枝は頷く。

「そう。悲しい時は、辛いから。私ぐらい、悲しんでる君を大事に思ったって、いいでしょ?」

 よく頑張ったねえ。奈枝はセイクリッドに身を寄せたまま、彼の手を取って両手で握った。その手の温かさに、セイクリッドが一度大きく震えた。彼の肩口に顔を埋める。


「いい匂い」

「止めてください、汗臭いでしょう」

 引っ込めようとするセイクリッドの手を、奈枝がぎゅっと掴む。

「生きてる匂いがする」

 セイクリッドは、何と言っていいかわからずに口を噤んだ。その事に気を良くした奈枝が、ふふふと笑う。そしてセイクリッドの指を持ち上げ、一本ずつ絡ませ合うとポツリと言葉を零した。


「……あの日、あの日はねえ。私が、ひとりぼっちに、なっちゃった日だったんだぁ」


 ぎゅう、とセイクリッドの手を強く握りながら、奈枝は続ける。


「お父さんとお母さんの顔も、写真でしか知らなくて。育ててくれたじいちゃんが死んで、ばあちゃんも死んで。家族みーんな、いなくなっちゃって。もう、何もかもどうでもよくなって、生きる気力も沸かなくて――辛くて、寂しくて、悲しかった。もうどうにでもなれって、思っちゃいけないのに、思っちゃった」


 セイクリッドは、ぎゅっと手を握り返した。同じことを、あの日、たった6年しか生きていなかったセイクリッドも、この場所で思っていたからだ。


「けどね、そんな時に、セイ君がね、『ありがとう』って、言ってくれたんだあ」


 冬の気配がようやく遠のいた、4月のあの日。

 奈枝は、正真正銘一人になってしまった。


 これまでの感謝と義務だけで、祖母亡き後も立ち続けていた奈枝は、もう、これ以上は無理かもしれないと、そう思っていた。


 そんなあの日。絶望の淵に座っていた奈枝に、生きる希望をくれたのが、幼いセイクリッドだった。


 夜のしじまに負けてしまいそうな時、何度も思い出した。私があの時、死んでいたら――きっとあの子は助からなかったと。

 押しつけがましく強請る感謝は暴力でしかないと知りながら、浅ましく、何度も何度も、思い出した。


「君を助けられたこと、嬉しかった。ごめんね、私ひどい人間だからさ……今、私、生きてるんだなって……私が生きてる意味はあるんだな、って。そう思った」


 彼は奈枝を必要としてくれた。虚無感を埋め、彼女の心を満足で満たした。醜悪な感情だとはわかっていた。けれど彼は、真っ暗闇の海の中にぷかりと浮かんだ、小さな太陽。その光に向かって、奈枝は舟をこぎ続けた。


「君は、あの時から。私のもう一人の、たった一人の家族……私の、輝く、生きる希望」


 酔いに任せ、セイクリッドに凭れかかったままぺらぺらとしゃべっていた奈枝は、体を起こした。握った手がするりと解ける。セイクリッドがこちらを向いた隙を見逃さず、悪戯心から彼に酒臭い息を吐きかけた。眉間に皺を寄せて奈枝を睨む彼を見て、けらけらと笑う。


「大事な大事な、可愛いセイ君」


 ぎゅうと強く抱きしめる奈枝を、セイクリッドは一拍の後、そっと抱きしめ返した。温もりが心に行き渡った奈枝は、幾ばくも経たぬうちに寝息を立て始める。


 その重さに不満と安堵を感じたセイクリッドが、寝入った奈枝を見下ろして、肺から息をゆっくりと吐きだした。


 セイクリッドの吐いた息は、空を覆う灰色の雲に溶けていった。胸に沈めた想いも共に吐き出したセイクリッドは、それでいい、と一時目を瞑る。


 彼らのすぐそばには、奈枝がいつも突然現れるご神木がある。空に向け、丸い輪っかを描くような枝ぶりのご神木は、奈枝以外を移動させることもなければ、彼女以外が出現したこともない。勿論、セイクリッドが手を翳したところで、何も起きなかった。

 奈枝だけが、この世界でただ一人、あの木で行き来できる人物なのだ。


 ご神木から視線を外したセイクリッドは、姿勢を変え奈枝を抱えた。まるで重さを感じさせないような動きで、軽々と彼女を横たえさせる。6歳の頃のセイクリッドでは決して出来なかったであろうことが、今はこんなにも簡単にできるようになっていた。


 自らの膝の上で気持ちよさそうに眠る奈枝の頭を、セイクリッドが撫でる。


 いつもの仏頂面を仕舞い、今にも泣き出しそうな顔で彼が呟く。


「貴女が例え誰であっても、かまわない。人でも、聖女でも、妖魔でも――奈枝さんが生きるために贄が必要だと言うのなら、いくらでもこの身を差し出そう。私は、貴女に……救われたのだから」


 6歳のちっぽけな身に余るプライドを捨て、父に頭を下げる決意をくれたのは、まぎれもなく彼女だった。あれをきっかけに、ただ腐っていくだけだったセイクリッドの人生は大きく変わった。


 現状を知った父により、すぐさま改善された環境で、幼いセイクリッドは誰よりも必死に勉学に励んだ。

 勤勉はそれだけで才能だ。寝る間も惜しみ努力したセイクリッドは、めきめきと頭角を現す。

 その優秀さと模範的な態度は周囲の好感を呼び、セイクリッドのささやかな願いは享受される。


 彼は私生児でありながら、剣を持つことを許された。


 ――お目付け役が剣の指導係に変わり、上官になるのに、時間はかからなかった。


 ルベルジュの私兵隊と言えば、この国よりも長い歴史を持つ国内最強の勢力だ。


 永くこの地で「黒い翼」と恐れられ、諸外国と毎日のように渡り合っていた。

 辺境の地でもあるここは常に、侵攻の脅威に晒されていた。国の統合により数百年前に領土が膨れたが、国境線はまだこの地だ。


 辺境の地、レーンクヴィスト。


 それは、かつて、長きにわたり辺境の地を守り続けた一族の名だ。彼の一族の名が歴史から消える時に、この地に与えられた。


 守備の要でもあり、攻撃の精鋭でもあるレーンクヴィスト私兵隊の実力は、かつて古の時代に魔王を倒したと謳われるほどだ。絵物語にもなるほど長い間、ずっとその強さは受け継がれている――栄光と共に。


 そこで隊長として隊を纏めるセイクリッドを軽んじる者は、もうこの土地の何処にもいない。そのきっかけを与えてくれた奈枝を、セイクリッドが思い出さぬ日も、また無かった。


「俺はね、奈枝さん。貴女に救われた命を、貴女に恥じぬよう、生きたいと――ずっと、それだけを……」


 頬を撫でる。その指は、儚くも確かな熱を孕んでいた。




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