31 : 乞うに落ちず、語るに落ちる
「それ以上は必要ない」
ユージンの冗談に奈枝が笑い声をたてる暇もなかった。場が瞬時にしんと静まり返った。胸いっぱいに詰まっていた喜びが、音を立てて抜けていく。奈枝はゆっくりと声のしたほうを振り向く。
「そのお方の訪れはほんのひと時のこと。今が非常事態によって心細い思いをなさっているかもしれないが、それも時期解決してみせる。いずれ天へと戻るお方に俗世の理など無用」
奈枝にあまり見せたことがない頭目の顔をして、セイクリッドはその場に立っていた。彼らは全員、歩く時に足音を立てない。奈枝はセイクリッドがこの部屋に入ってきていたことさえ知らなかった。
「い、つから」
「――隠居した出歯亀まで引き入れて何をしているのかと思えば……。今回のお節介は幾ら何でも度が過ぎる。そこまでする義務なんて、どこにもないでしょう」
ズシンと鉛を飲まされた気分だった。いつもの天邪鬼な台詞とは、少し違う。彼は全く持って真剣そのものの眼差しで奈枝を貫いていたし、そしてそれは途方もない真実だったからだ。
「――不安にならず、期待をしていてください。絶対に裏切りませんから。必ず貴女は、帰れます。帰れなかった場合の心配など、しなくていいんです」
「でも、あのね」
「なんですか」
しどろもどろに弁解しようとする奈枝を、セイクリッドは容易く受け止める。あの頃の立場とは大きく逆転してしまっていることを、嫌でも実感させられた。恋する乙女の面倒くさい性分として、家族と見られたくない気持ちと、姉でなくなった寂しさが入り混じる。
こういう立場には慣れていない。
甘えさせてもらうことも、甘えることも、特にそれが男性だなんて。奈枝は全く慣れていなかった。
けれど、ウィルに言われた言葉を思い出して奈枝は勇気を奮い立てる。
――上手に甘えてみりゃあいい。
その言葉に背を押され、口を開いた。
「私、こっちの世界にいたいの。出来れば、セイクリッドさんの傍にいたい」
駄目かな? 出来る限り甘えた声で、首を傾げて奈枝が言う。慣れなさ過ぎて、少し傾げればいいだけの首は肩に付くほど曲がっているし、目は上目遣いどころか睨みつけるような迫力だ。上手に甘えるの条件を一切満たしていない奈枝の行動に、セイクリッドは顔を背けた。
駄目だった。打ちひしがれる奈枝の様子になど気付きもせずに、セイクリッドは拳を握りしめ、二つ呼吸を繰り返す。
「……貴女は今、縁を求めている。見も知らぬ場所で、貴女に恐怖を与えた者たちに囲まれ生活する心細さもあるでしょう。家族を亡くし、帰る手段も潰えている――私も随分と年を重ね、貴女の知る幼子ではなくなったとは言え、縋るに容易い……が」
貴女は、現世の者ではない。
セイクリッドが紡いだ真実に、奈枝は言葉を失う。
「その擦れはいつか必ず綻びとなることでしょう。生まれ育った地で、貴女は家族以外の沢山の愛情に囲まれているはずだ。輝く未来もあるでしょう、やりたいこともあるはずだ。勉学を励んでおられたではありませんか。その全てを思い出しなさい」
もう彼は、奈枝に愛情を確認しなくても、きっと生きていける。奈枝を導く立場になった彼は、大人の責任で、惑う奈枝に鞭を加える。
「――それでも、こっちにいたいと、思った」
きっとあちらで、100点の生活は暮らせるだろう。大学を出て、就職して、結婚して――だけど、もうきっと、120点の笑顔を浮かべることは、この先一生ないのだ。
だって、君がいないから。
「何故です――貴女は」
「――家族だから、だよッ!」
弟でも、兄でも、もう何でもいい。
奈枝にとって、切り札は、そして最後まで縋りたいものは、これしかないのだ。
セイクリッドは、奈枝の咆哮に息を呑む。そして、眉根を寄せると、顔を赤くして叫んだ。
「本当の家族でもないくせに! 独りよがりの、ありがた迷惑だ!」
セイクリッドの激しい拒絶。出会ったばかりの頃のような、きつい口調。
奈枝の最後の砦を、あっさりとセイクリッドは砕いた。
本当の家族でもないくせに――彼は奈枝が「弟」だと言う度に、そんな悲しみを抱いていたのだろうか。奈枝は拳を握りしめて、声を張り上げる。
「ああそりゃあ、ごめんなさいねぇ! でも、でもねえ! それでも私は――あの時君が、地面に倒れて、誰の助けも突っぱねてた君が、泣いたあの時から!! お節介でも図々しくても、私の最後のたった一人の家族だって、思ってるんだよ!!」
どうしようもない悲しみに飲まれそうだった時、奈枝が思い出すのはいつも、セイクリッドだった。
顔に泥がこびりつき、飴玉を入れるために口を開けるのもやっとだった。そんな彼が、奈枝の支えになった。助けなければと、救わなければと――けど、だけど。
それだけだったらきっと、こんなに立派に成長してと、笑って手を振れたはずだったのに。
「亡くした家族は大切だっただろう。だが、人は家族を新しく紡げるものだ。貴女にはその可能性がある。奈枝さんはきっと良い妻に、良い母になる。何故それが分からない! 奈枝さんがずっと求め続けた“本当の家族”が、あの地に戻ればいつか、きっと必ず――!」
「家族なら、こっちでだって――」
「どう伝えればいい、どう伝えればわかってくれる! あんたは、帰るんだよ! こんな、偽物の家族捨てるんだ!」
セイクリッドが、顔を歪めて、叫ぶ。
その顔が、何故か、今にも泣きそうに見えて。
「足踏みするな! 俺を足枷にするな! あんたは、誰よりも、何よりも幸せになれ! あんたの、あんたに――俺が、何をしてやれる!」
「じゃあ、結婚してよ!!」
荒々しい言葉遣いを咄嗟に繰り広げていたセイクリッドは、前のめりになったまま体を硬直させた。目を見開いたまま唖然としているセイクリッドを見上げ、奈枝は眦を朱に染めて、再び叫ぶ。
「君が、結婚してよ!」
怒りのせいか、顔を真っ赤にして叫ぶ奈枝とは反対に、セイクリッドはどんどん冷静を取り戻していった。
「――それは……先ほどのユージンの説明のせいですね。この地に残るためには、それが一番容易いと。ええ、ですが――それは、ええ、万に一つも無理な相談です。そこまでする必要が何処にありますか。いい加減に弟離れを――」
バシンッ
しどろもどろに弁を立て始めたセイクリッドの言葉は、おかしなところで止まった。
諸外国から、絶対に敵に回してはいけないと恐れられるルベルジュの私兵隊「烏」――
その精鋭兵の頂点に君臨する、当代頭目セイクリッド・ルベルジュの顔面に、リネンのスリッパがくっついていたからだ。
「セイ君の、馬鹿っ! わからず屋、唐変木、こんの――シスコン野郎!」
ズルリとスリッパがセイクリッドの顔から落ちる。
額に青筋を浮かせ、奈枝になんと言い返そうかと目を開けたセイクリッドは――今度こそ完全に言葉を失った。
――ぽろり、ぽろりと。
どれだけ、何があっても決して泣かなかった奈枝が――涙を溢していた。
「人の幸せを、君が決めるな! 私の気持ちを、知ってるつもりになるな! 私は君が思ってるよりもずっと、君を、あ、あい、愛してるんだから!」
真っ赤にした顔で、興奮により震えた声で奈枝が叫んだ。
硬直しきっているセイクリッドは、奈枝の言葉になにも返すことが出来ないどころか、彼女が自分の脇を通り過ぎて走って行く姿を見ても尚、指先一つ動かすことが出来なかった。
クレイが奈枝の暴動に顔面を蒼白させている。セイクリッドと奈枝を見比べ、自分の使命を全うさせるため、一つ頭を下げるとその場から消えた。
ユージンと言えば、途中から壁を向いて完全に気配を殺していた。振り返らないところを見ると、引き攣るほどに笑っているらしい。セイクリッドは彼を視界に収めると、少しばかり気が落ち着いた。
ふー……と細い息を吐きだして、髪を掻き上げる。
「……何か言いたいことがあるなら、聞こう」
「そうか。では、せっかくなんで」
手を上げたユージンは笑い声を隠しもしない。セイクリッドは感情がついていかずに、本能のまま苛立ちを募らせる。
「なんだ」
「お前なぁ。20そこそこの小娘相手に、同じ土俵で喧嘩してどうする」
セイクリッドの苛立ちは一瞬にして不甲斐なさへと変わる。何も言い返せないでいるセイクリッドに近づくと、ユージンは肩を寄せた。
「いつまでたっても『若』を卒業できない坊ちゃんだ。いいか、老いたる馬は道を忘れず。よく聞け。為にならなかったら、俺の愚息を一本やろう」
「なんだと言うんだ」
温厚な奈枝を怒らせ、泣かせてしまったことは、セイクリッドに深い影を落としていた。こうなれば、こんな時でさえこの調子なユージンにすら助言を授かりたくなる。自薦も他薦も、女の扱いに関しては優秀な男だ。
「――」
こう言って来い。
そうユージンに伝えられた言葉に、セイクリッドは眉間に深い皺を刻んだ。
「ふざけるな、言えるわけがないだろう」
「こんな犬も食わない痴態を披露できたんだ。これぐらい朝飯前だろう? ――10も年下の、惚れた女のために折る矜持さえ持ち合わせておらんのか」
セイクリッドがぐっと奥歯を噛み締めた。そんな『若』に、ユージンが笑う。
「会ったら何が何でも、一番にそれを言えよ。ほら、さっさと追え。女は追いかけられたいから逃げる、とんでもなく面倒な生き物なんだからな」




