29 : 無知には鞭、飴には飴を
――その件については一任していただきたい。今手筈を整えております
あの台詞は、奈枝がこちらに留まる準備をしていたのでは、なかったのだ。
奈枝はフラフラと廊下を歩いていた。漂っていた、という言葉の方が正しいかもしれない。
当てもなく、途方に暮れて。辿り着いた先は、いつもの洗濯場だった。見習いたちの姿はすでに消えている。仕事を終え、次の持ち場に移ったのだろう。
この場所で、ウィルとセイクリッド、三人で笑い合った日が既に遠く懐かしい。
はためく洗濯物が好きだった。
特に着物を干した日は、なお一層。泳ぐ着物の隙間を縫うように走り、祖母を脅かす瞬間は、奈枝にとって幸せの象徴とも言えた。
大事だった。幸せだった。そんな日々は、もう来ない。
あちらには、もうないのだ。そんな日を迎えることは、もうない。あちらではもう、見つけられないのだと告げるのは、大層甘えた考えで、失礼なことだとわかっていた。かと言って、この心の内を伝える勇気も奈枝にはなかった。
セイクリッドに大切にされていることは、今では火を見るよりも明らかだ。
けれど彼は、奈枝に会ってから、ずっと、ずっと……明確な線引きをしている。
奈枝はあちらの世界。
自分はこちらの世界。
二つの世界は交差することはあっても、一つになることは決してない。
折れたご神木を見た時、奈枝は思った。これでもう帰れない。それなら、それでいいと思った。
けれどセイクリッドは、奈枝は戻るものだと信じていた。奈枝がこちらに残りたいと考えているなんて、微塵も思っていないようだった。奈枝は用事が終われば常世に帰るもの――それが、セイクリッドにとっての常識だった。
甘えを指摘され、高みからしっぺを食らった気分だった。
この世界なら。和解したセイクリッドになら、望まれると自惚れていた自分が恥ずかしい。
「こんな、甘ったれ。相手にもならないか……」
奈枝だって、こんなにも心に疼きを抱える前ならば、彼が日本に迷い込んで来たら何が何でも戻してやろうとしたはずだ。彼は彼の世界で、掴み取る未来がある。
きっとセイクリッドも、奈枝のあちらの世界での未来を鑑みて帰れと言ってくれている。わかっている。セイクリッドが奈枝を大事に思っていることは、十分承知していた。
――ただ奈枝と彼では、抱えた気持ちの種類が違っただけ。
彼が、向こうへ戻る手段を確立してくれようとしている、その事に感謝こそすれ、悲しむなんてとんだ不義理だ。本当の家族でもないのに、そんな苦労をしょってまで、あちらの世界に送り出してくれるだけでもありがたいと、そう思わなければ。
奈枝のことを女性として愛してもいない彼が、奈枝の面倒を見続ける理由や義務など――どこにもないのだから。
「10年かぁ」
奈枝にとっても長い半年だった。しかし、セイクリッドにとってはもっと長かったことだろう。少年期のいい思い出だったと、過去のことにされても仕方のない年月だ。本当に彼とは生きる世界が違ったのだと、身をもって感じる。
――いつまでも傍にいたかったのは、自分だけ。
弟だと思ってた彼はもういない。そこにいるのは、大人という線引きを持つ一人の男性だった。
「どうしたんですかい?」
ぼーっと洗濯物を眺めていた奈枝の後ろから声がした。その独特なしゃべり方から、振り向かないでも誰かわかった。
「……ウィル君」
「うぃーっす。何なさってるんで?」
ウィルは奈枝に話しかけているのに、目線は庭の木を見つめていた。きっとあそこに、本日奈枝の警護についているクレイがいるのだろう。彼は奈枝の心情を慮り、奈枝を一人にさせてくれていた。彼は先ほどのセイクリッドとの会話を聞いただろうし、奈枝がこちらの世界に住むつもりでいたことも知っている。
「自分は大人だって思ってたのに、子供のおままごとのようなものだったんだなって、失望してるとこ」
「そりゃいいっすね、聖女様の伸びた鼻も少しは短くなったでしょうよ」
「君は本当に失礼だね! 高い鼻、って言ってよ! せめて!」
「泣き言なら、安くしときますよ」
ウィルはにやりと笑った。奈枝から情報を聞きだすつもりか、親切心か判断がつかずに、奈枝は苦笑する。
「まあ、予想通り、君がとっても喜びそうな話だよ」
「そいつぁいい! とっととお帰り願います!」
「知ってんのかよぉおおもぉぉぉおう! 奈枝さん泣いちゃうぅうう」
奈枝はその場に勢いよくしゃがみ込むと膝に顔を埋めた。冗談抜きで涙が滲みそうになる。そんな顔を、セイクリッド以外に見せられない。見せたくない。
「なんだよーー私以外全員知ってたのー?! やめてよーもー空回り恥ずかしいー!」
嘘だ。寂しくて、しょうがない。最近少し仲良くなり始めたと感じていた警護の二人にも嘘をつかれていたのだとしたら――私にだけ教えてもらえなかったのだとしたら、悲しみで溶けてしまうかもしれない。
ガサガサ、と茂みが揺れた。クレイが木の上でバランスを崩したようだ。
「いーじゃないっすか。21でしたっけ? 旅の恥は掻き捨て。若い内に沢山恥掻いたらいんじゃないっすかあ」
「耳の穴を小指で掻きながら言うことじゃないよね?!」
それに、旅にしたくないから言えないのである。奈枝の気持ちを寸分もわかってくれない薄情者に、膝の中で悪口を叫ぶ。
「ウィル君のどあほーー! 陰険! 不能! 短小! 皮被りーー!!」
「尊き御身とは思えないお口の悪さじゃあございませんこと!?」
ドサリ、と音がする。クレイが木の上から転げ落ちたようだ。
ウィルの言ってることは最もだ。わかってる。当たって砕けろ。そうしなければ、先には進めない。何も解決しないまま、年長者であり、責任者であり――そして奈枝の家族で居続けてくれるセイクリッドの言う通りに、帰らされるだろう。
「恋と家族を一度に失ったら、私今度こそ無理、絶対立てない」
けれど、だって、まだ21なのだ。
恋だって初めてで、何も勝手がわからない。躓くことも挫折することも多かったけど、失恋はしたことがない。きっと痛いだろう。辛いだろう。1年前の、あの日のように。もう一人じゃ生きていけないと思うかもしれない。その時に、もう「セイ君」は傍にいない。自分で選んだ未来に、彼がいない。
ウィルはガシガシと頭を掻くと、大きなため息をついた。
「9つ下の小娘の我儘も聞けないほど、うちの頭目は狭量じゃないっすよ。上手に甘えてみりゃあいい」
「言わせて、さっさと振られて、帰れってんでしょ! その罠には、はまらないから!」
「さいでっか」
「それに、結局甘えたことなんてないからわかんないよーー!」
未だ顔を上げれない奈枝は、わーんと膝の中に悲鳴を吐き散らす。
帰りたくない、そばにいたい、迷惑かな、私のことやっぱり家族にしか見れない?
そんなこと、どれか一つだって、口にできる気がしない。
だって奈枝にとってセイクリッドは、ずっと「弟」だったのだ。甘えるなんて、お天道様が許しても奈枝さんが許せない。
「んあー……じゃあ、まあ亀の甲より年の劫って言いますし。おっさん呼んでみますか」
なにその、飲み会盛り上がってきたからゼミの先輩呼ぶわ、みたいなノリ。
「おっさん?」
奈枝はおずおずと腕の中から顔を出す。
亀のようなその動きに、ウィルが笑った。
「これで、貸し借りなしっすからね」




