25 : 夜天黒日
呼びかけがなくなってしばらくしたころ、奈枝はセイクリッドの体が重くなったのを感じた。立ったままでは支えきれず、セイクリッドを抱きしめたままゆっくりと腰を下ろす。
どすん、と勢いよく尻もちをついた衝動で、セイクリッドの体がぐらりと傾いた。慌てて抱きとめた奈枝は、セイクリッドの顔を見て驚く。
眠っていた。
驚くほどに、無防備な顔をして。
「あ、ひげ」
色のせいか見えにくい髭が、ちょこっと顎に生えていた。奈枝は笑って、セイクリッドを抱きかかえ直した。
数えるほどしか会えていなかったが、セイクリッドは頑なに奈枝に触れようとはしなかった。まるで触れれば、夢のように消えてしまうと信じているかのように。それが今、こうして奈枝の膝の上であどけない顔をして眠っている。
土の上にしゃがみ込み、初夏の夜の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、奈枝はそっと月を見上げていた。
それから、幾らも経たなかった。
奈枝にとっては、この世界でセイクリッドの次に親しみ深い人が現れた。
「……ウィ――」
突然の来客に驚いたものの、丁度いいタイミングだとも思った。
しかし、名前を呼ぼうとした瞬間、驚くほどの寒気が奈枝を襲った。
「――ウィルか」
ウィルの首に小刀を押し付けていたのは、1秒前まで奈枝の膝で眠っていたセイクリッドだった。セイクリッドは小さく欠伸をすると、小刀を収め、再び奈枝の膝に戻って来た。今度は正真正銘の、膝枕である。
「……」
「……」
出鼻を完全に挫かれたウィルと奈枝は、お互いにしばし沈黙した。
「……こんばんは、ウィル君」
「――うぃーす」
ウィルは呆れながらも返事をした。
「もしかして、セイ、クリッドさん呼びに来ました?」
「いいえ。今日は自分の任務っすね」
「任務?」
「はい」
「私を殺すこと?」
「違いますよ」
「今更だと、思うんだけど」
「そうっすか? でも、違いますよ」
今度は奈枝が呆れる番だった。ウィルにはこれで合計、二度殺されそうになっている。あの時の言葉を、奈枝は一度も忘れたことがない。
「……殺さなくて、いいの?」
奈枝は膝に乗ったセイクリッドの頭を撫でながら俯いた。
「安心していいっすよ。貴女を傷つけられる人間は、この領地に誰一人いないことが実証されましたから」
不貞腐れたような物言いのウィルに、奈枝が首を傾げる。
「聖女だから?」
「それは禁句。あと、さっきの見て、本気でそう思ってるなら随分とおめでたい」
奈枝はセイクリッドを見下ろした。そこには、子供のようなあどけない顔で、髭を生やして眠る大人がいた。
「……超人ショーは正直、どこまでがどうなのか、よくわからなくて……」
「ルベルジュの正当な血を引く烏の頭目。隙さえつければと思いましたけど」
やっぱりそうだったんじゃん。奈枝は苦笑を漏らす。
「まぁ、無理でしたね。斯くなる上は、貴女には鳥笛を吹いてもらわねば」
「殺すのは無理そうだから、働け、って?」
「殺そうとは思ってなかったっすけどね。まぁ、そういうことっすね」
往生際の悪いウィルに奈枝は笑った。久しぶりに、愉快な気分だった。
「わかった。働く。仕事くれる?」
「そういう仕事って意味じゃないんすけど。まぁ、その人が許せば」
ウィルが半眼で見下ろした人物を、奈枝も見下ろす。
「……くれるかな、仕事」
「まず無理でしょうねー」
「だよねえ……こんなシスコンに育ってるとは、思わなかったなぁ」
はぁ? 死す昆? ウィルの視線を無視して、奈枝はセイクリッドの髪を指で弄ぶ。随分とぐっすり眠っている。
「――よく寝てんでしょ」
「うん」
「二週間、ほぼ不眠。生きてる方が不思議」
「……そんなに仕事、忙しかったの?」
「理由はあんさんが、一番知ってると思いますけどねー」
銀色の髪をつんと引っ張る。
「……気づけばずっと、あの木に、鳥が留まってた気がする」
「気じゃねえよ。部下に任せて仕事してりゃあいいのに、この大馬鹿野郎はまたあんさんが心配でたまらなくて、部屋の明かりが消えるまで見張ってなきゃ気が済まなかったんだと」
奈枝は笑った。笑おうとした。けれど、上手く笑えなかった。代わりに、膝の上のセイクリッドの頬をそっと撫でた。
彼が奈枝のために払ってきた犠牲を、奈枝は何も知らずに当たり前のように甘受していた。
「牢屋までもう少し足止めができてりゃーなー。こいつもいい加減、前を見て立ててたのによー」
「私は、生きててよかった。会いたくて、来たんだし。――それに、弱ってるとこなんて、もう見せてくれなくなってたから」
ウィルから謝罪は必要ない。奈枝だって、セイクリッドをこれ程弱らせてしまっていることを、誰かに謝るつもりはない。
「正直、俺はあんまあんさんのこと好きじゃねーよー。何も努力せず、好きな時にフラッと来て、そいつの人生狂わせるほど好かれてるんだから」
ウィルの言葉に、それもそうだと奈枝はケラケラ笑った。
「あ、でも。命乞いとかしたよ」
「――へぇ」
予想外だったのだろう。ウィルは珍しく、驚いた顔をして奈枝を見た。
「私はね、君のこともそこそこ好きだよ」
「やめて! 俺の心はセイクリッドのものなんだから!」
「なんですって! 君たち、お姉ちゃんは許しませんよ!」
膝の上で寝入っているセイクリッドが起きたら、目を剥いて怒りそうなことをウィルが言う。そんな彼に、奈枝は心の底から笑みを向けた。
「なんて言っても、10歳ちょっとの頃から知ってるからね。近所のお姉ちゃんの気持ちだわ」
近所のお姉ちゃんて、俺の方が10も上なんすけど――呆れたようにそう言ったウィルを見て、奈枝は懐かしむ。
あの日、あの晩。
誘拐されそうだったセイクリッドのために、寝間着姿で駆け付けた少年。
大勢の大人が駆けつける中、子供はウィル一人だった。大人に混じって、セイクリッドのために命を懸ける決断をした少年――そして、奈枝が彼を支えた時間より、よほど長い間傍にいて、ずっと彼を――彼の心を、彼の理想を守り続けてくれた人。
懐かしさから目を細めた奈枝に、ウィルは大きく息を吐きだした。
「――あんさんは、こいつのたった一つの、生きる意味だ」
ウィルの言葉に、奈枝は目を見張る。
「出て来なきゃよかったんだ。10年も隠れてたんなら、そのまま引っ込んどけよ。こいつがどんだけ頑張って、あんさんを忘れたと思ってる。また同じ苦しみを味わわせるのか。こいつをずっと不安の中に置き去りにしていくのか」
奈枝は口を開いて、閉じる。
何を言っても、彼のそばにいなかった奈枝の言葉は薄っぺらい。
「死ねる怪我を何度も負った。死んだ方が楽なこともあっただろう。なのにこいつは、死ねなかった。この庭に連れて行けと、瀕死の状態で呻くこいつを見て、俺があんたをどう思ったか」
セイクリッドにとって、自分の存在が支えになっているとは気づいていた。けれども、これ程深く彼に根付いていたとは、奈枝は思ってもいなかった。強く口を引き結ぶ奈枝に、ウィルは溜息をついて、笑った。
「もし次。また置いていくのなら――その時は、こいつを殺してけ」
「……殺せるかな?」
「喜んで首を差し出すだろうよ」
奈枝は笑った。ルベルジュの正当な血を引く烏の頭目。殺せないと言ったばかりのその舌で。彼を、簡単に殺せる者は自分しかいないという話が、なんだか面白かった。
「ウィルくん。そのお願い聞いてあげるから、今度ご飯でも奢って」
「……うぃーっす」
はーあ。負け越しかぁ。そう呟いたウィルに、奈枝はケラケラと笑う。
――ざぁ、と。
一陣の風に吹かれて、サクラの木々のざわめきが聞こえた。
それはまるで、笑い声のようだった。




