24 : 笑う門には君、来たる
マントを羽織った小さな少年隊員が、兵舎を走る。そんな日常的なことに、目を止める者はあまりいない。
例えばそれが、少年ではなく成人女性で、隊員ではなく聖女だとしたら、奈枝はこんなにも早く兵舎を抜け出すことは出来なかっただろう。
進む道は覚えている。もう何度も、この道を進んだ。
時に行き、時に戻り、時に留まった――聖域へ。
喉に張り付く空気を、何度も何度も肺が押し上げる。走り慣れていない足は貧弱で、けれども気持ちの焦りについていこうと精一杯地面を蹴った。
奈枝は後ろから、ジンが人知れずついてきていることを確信していた。
聖域に入る寸前、烏の鳴き声がした。ジンが、自分はここまでだと音で奈枝に伝えたのか、それとも――。
奈枝は、真夜中の聖域に足を踏み入れた。真夜中にここを訪れるのは、久しぶりだ。セイクリッドが中学生くらいの頃、誘拐されそうになって以来。
奈枝は聖域の真ん中で立ち止まると、呼吸を整える。走ったせいで、随分と胸が激しく鼓動を打っていた。浅い息を何度かやりすごして、大きく息を吐く。
背を伸ばし、出来る限り声を震わせないように、奈枝は言った。
「セイクリッドさん、いるんでしょ」
奈枝が瞬きをする間に、セイクリッドは現れた。
もう驚きはしなかった。
セイクリッドは奈枝から僅かに離れた場所で、静かに佇んでいる。月の光は、同じ色のセイクリッドの髪を照らすが、表情までは写さない。
濃い闇の中、一歩、また一歩と奈枝はセイクリッドに近づいていく。セイクリッドは、微塵にも動こうとはしなかった。
月が映し出す淡い影を付き従えながら、セイクリッドの前までやって来た奈枝が、じっとセイクリッドの顔を見上げた。ここまで近づけば、薄明りでも彼がうっすらと微笑んでいるのが分かる。
張り付いた笑みに、違和感はもう感じなかった。
ただ無性に、馬鹿らしさが込み上げる。
私はどれほど、馬鹿だったのだろう。
奈枝は脇に抱えていた緑色の包みに手を入れる。奈枝が取りだしたものは、葡萄色のやわらかなマフラーだった。まるで硬直したように動かないセイクリッドの袖を引っ張り、屈ませる。彼は素直に従った。あぁ、本当に。馬鹿なのは自分だったのだと、奈枝は何度も思い知らされた。
マフラーをかける。初夏の夜には暑く感じるだろう。けれど奈枝は、それがほどけないように、輪を作るとしっかりと結んだ。
「メリー、クリスマス」
セイクリッドは何も話さなかった。何も語らない。何も見つめない。ただ、物事全てを流すように、笑顔を作っている。
この人が10年で覚えたのは、この笑顔の張り付け方だけだ。
自分の心を隠すための、笑顔だけ。
その笑顔の向こう側を覗こうとすれば、きっとすぐにでも扉を開けてくれたのに。開けてくれなくても、無理やりこじ開ける権利を、きっと彼は私に与えてくれていたのに。
真っ直ぐな優しさなんて、いつだってくれなかった。けれど、わかりにくい愛情に溢れていた。
どうして、変わったと決めつけてしまっていたんだろう。
この人は、何も変わっていなかったのに。
これだけ近づいても、指一つ触れようとしない。少しでも身じろぎしてしまえば、奈枝に触れてしまうことを恐れるように――セイクリッドは硬直している。
彼は、奈枝を傷つけたことを、きっと心の底から後悔している。
奈枝はマフラーから手を離した。セイクリッドは屈んだまま、背筋を伸ばすことさえ出来ずにいる。
その様を見て、奈枝は少しだけ勇気を得た。小さくともった勇気を胸に、光に向かって手を伸ばす。
「顔、随分変わったね」
「――10年も、経ちましたから」
彼の口から、そのことを聞いたのは初めてだった。奈枝はこっくりと、頷く。
「髪も、伸びたね」
「切るのが、面倒で」
「私より、君の事わかってくれる人、出来た?」
これまで返答に時間をかけなかったセイクリッドが、言葉を詰まらせた。けれども、奈枝の発言におこがましさを感じているようではない。心底困ったような、情けない顔をして奈枝を見ていた。
「よく笑うようになった」
セイクリッドは俯いた。下から見上げる奈枝からも、表情を読み取られないように。
「――貴女が笑えと、言ったんだ」
奈枝はぎゅっと自分の胸を押さえた。胸が苦しい。
彼は――あの日ここで途方に暮れ、傷だらけで倒れていた小さな少年は。こんなに大きくなったのに、こんなに立派になったのに。こんな小娘の奈枝の教えた心得を、きっちりと胸に抱き続けてくれていた。
奈枝の存在した証を、こんな風に証明してくれていたのだ。
ずっと、ずっと。10年という年月を。
忘れられているはずがない。嫌われているはずがない。
奈枝はきっとまだ、セイクリッドにとって――家族のままだ。
「君を許します」
気付けば、自然と口をついていた。
受けた暴力に、謂れのない殺意。奈枝を縮こまらせ、現実に向き合う気力を奪うのには十分だった。セイクリッドに触れる前、ほんの少し、震えてしまっても、仕方がない程の恐怖だった。
「だから、許して」
頑なに心を閉ざして、彼と真正面からぶつかるのを避けていた。それはきっと、
「君に、ごめんなさいと―― たった一言さえ、言わせてあげなかった、私を」
次の瞬間奈枝を襲ったのは、息もできないほどの衝動だった。
強すぎて、抱擁だとは言い難い。
奈枝の腕をセイクリッドが掴み、引き寄せる。隙間すらないほど体を結びつけると、力任せにその身を掻き抱いた。何度も何度も、震える指が背を掴む。
けれど、奈枝はそれをしっかりと受け止めた。彼のぶつける全ての感情を、一つだって取りこぼさないように、必死に抱き返した。
「何処にもいかないと、約束したくせに」
震える声。
恨み言さえ嬉しくて、奈枝は首筋に埋まる銀色の髪に頬を摺り寄せた。
奈枝は震える彼の声を真綿で包むように、努めて優しい声を出す。
「ごめん、ごめんね」
セイ君。
虫唾が走ると吐き捨てられて以来、初めて名を呼んだ。
呼んだ名は、無様に震えて掠れていた。けれど、彼には十分に届いたようだった。骨が折れてしまいそうなほどの圧迫。その強さが、奈枝は嬉しかった。
「奈枝さん――ごめんなさい。奈枝さん、ごめんなさい。ごめんなさい、奈枝さん、奈枝さん……」
呼べなかった時間を埋めるように、呼べなかった名前を、言わせなかった謝罪を、繰り返し、セイクリッドは繰り返し吐き出した。奈枝はその全てに返事をした。何度も何度も、天邪鬼なセイクリッドの、必死の甘えを受け止めた。




