23 : 沈黙は肯定、雄弁は失言
「……これが、あの木かぁ」
サクラも盛りを終えたのか、ぽつぽつと木に粘り強く咲いている花以外は、朽ちて地に伏していた。日本の桜のように、舞い散るわけではなく、枝についたまま枯れるようだ。茶色く色づいた花が、ぼとんぼとんと首を落としている。
なるほど、サクラと桜は違うらしい。
けれど、春に薄紅色の花をつけるところが何とも憎い。聖女のために植えられたと言っていたサクラの木。かつて、日本の桜に思いを馳せてこの木を「サクラ」と呼んだのかもしれない。
春の穏やかな陽は、どんどんと照りが厳しくなってきた。
初夏を迎えそうな季節となっても、奈枝はまだ兵舎で軟禁状態を送っていた。
その状態に飽き飽きしていたのがばれたのか、警護についていたジンが「外に出ますか?」と声をかけてきた。
最近食が細くなっている奈枝を心配しての声かけだったが、それに気付かず奈枝はまごつく。
自分が出かけることで迷惑をかけるのでは、と心配する奈枝に、ジンは笑った。とびっきりの場所がありますよ――そう言ってジンが連れてきたのが、聖域だった。
「ここは一番安全なんで。急に木がぶっ倒れたりしない限り。じゃ、俺はこれで」
かっこわら。そんな言葉を語尾につけそうな口調で、聖域を見渡したジンが、一点を見つめながら言った。
突然のジンの別れの言葉に驚いた奈枝は、あと僅かなところで彼の服を掴み損ねる。風のように去っていったジンの後姿を、奈枝は呆然と見守るしかなかった。
折れた木の鑑識の為、と言ってジンと奈枝は聖域に入った。あまりにもすんなりと通された為、本当に警備が万全なのか不安しかない。誰かあんな調子で入ってきたらどうするんだ。怖々としながら、ポツンと一人で、奈枝は聖域に立っていた。
「……なんか、一人って久しぶりだな」
調子狂う。ぽりぽりと頬をかいた奈枝は、そっと折れた幹に近づいた。
動かすことを憚られたのか、人力では不可能だったのか、幹はあの時奈枝を避けて倒れた姿のまま、横になっていた。
ゆっくりと幹に手を添える。ほんの少し触れただけなのに、樹皮はボロボロと剥がれた。ほかのどのサクラも、茶色く枯れた花で覆われているのに、この木の周りには一つもなかった。
きっと、限界だったのだろう。幾度も、あちらとこちらを繋げてくれたご神木。この世界に、かつてあったという魔法で、ずっと頑張り続けてくれていたのかもしれない。古くからこの地と奈枝たちを見守り続けてくれたサクラの木は、最期の力を振り絞って奈枝の我儘を叶えてくれた。
――奈枝。
幹を優しく抱きしめる。懐かしい、祖父母の声が、聞こえるようだった。
***
「くしゅん」
奈枝は自分のくしゃみで目が覚めた。初夏とは言え、外で寝るにはまだ冷える。
サクラの木に体をくっつけていたら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。起き上がる拍子に、なにか懐かしいにおいがした。体を起こして、ぐんと背伸びをする。
この世界に来て、初めてぐっすりと眠った。
緊張と混乱の連続で、のんびりとした時間は持てても、安心することはできなかった。ここは、奈枝が一番この世界で慣れている場所でもあり、家への帰り道でもある。心が安らぐのも無理はない。
ずるりと、肩から何かが体を滑った。なんだろうと視線を動かせば、ブランケットがかけられている。どこか見た覚えのある、タータンチェックの赤い毛布。
どこだったかな、あの雑貨屋かな。奈枝はぎゅうと毛布を抱きしめた。いい匂いがする。涙が出そうな、匂いだった。
日が暮れそうになって、ようやくジンが戻って来た。
毛布に包まって折れたご神木を眺めていた奈枝は、朗らかに顔を和ませる。
「これ、ジンさん? ありがとう、やっぱクレイさんとは違って気が効くね~」
冗談を交えて冷やかせば、ジンは毛布を見て一瞬目を見張った後、何故かとても嬉しそうに笑った。
***
「また外を見てんですか?」
こちらの世界の夜は、驚くほどに闇が深い。田舎育ちの奈枝でさえ、夜の静けさには未だ慣れない。空よりもずっと、緑は濃い影となって景色を飾る。一重、二重に折り重なって、濃さを増す緑を、奈枝は窓際に座って眺めていた。
そんな奈枝の後ろから、窓枠に手をついて顔を寄せてくる男がいた。引き続き警護についてくれているジンだ。ジンの明るい赤毛が目に入り、夜の闇に慣れた目に、ちかちかと映る。
「あそこ。鳥がいるみたい」
奈枝は一本の木を指さした。その刺した方角に、ジンはどきりとするが、顔色を変えずに奈枝を窺う。
「あの木。いつも何か留まってるの。たまに動いて木が揺れるから、結構大きな鳥だと思うんだけど――昼より夜の方がいるから、夜行性なのかなぁ」
梟とか? そう言いながら、奈枝は木から目線を外さなかった。ジンは奈枝を見下ろした後、窓から身を乗り出して声を張る。
「――アー! クァークァ! クァ、カー、アーー」
突然の奇声に驚いた奈枝がジンを仰ぐ。
「びぃっ……くりしたあ……なに、どうしたの突然」
うまいね、と言って笑う奈枝に、ジンも体を戻して笑う。
「だろ。烏の鳴き真似。うちの隊の十八番なんすよ」
「うん、すごいすごい。なんて言ったの?」
「ん。お嬢さんが、近くにいると気になるから、もっと遠くに行けーって言ってるって」
「私言ってないじゃん!」
うちの生ごみ荒らさないなら、烏は嫌いじゃないよ別に。と奈枝は笑った。奈枝の浮かべる屈託ない笑顔に、先ほど聖域へ連れて行ったことは間違いではなかったとジンは感じる。
「さ、飯でも食いましょ」
「うん……え! わー、嘘! おにぎりじゃん! すごい!」
窓際から立ち上がり、ジンの持って来た夕食を見た奈枝は両手を叩いて喜ぶ。
「これ麦かな? ちょっと茶色いね。食べていいの?? いいよね、いっただっきまーす!」
いつもより数倍高いテンションで席に着くと、奈枝は両手でおにぎりに齧り付いた。その様子を見て目を瞬かせているジンに気付きもせずに、頬を押さえて喜ぶ。
「あ~~~、美味い。味はちょっと違うけど、おにぎりってだけでもう、美味い! 嬉しいなぁ。こっちって、サクラの木といい、なんかちょっと交差してるよねえ」
サクラと名付けた人が持ち込んだのだろうか。それとも、おばあちゃん? 嬉しくて奈枝はもぐもぐと口を動かした。
最近食欲の減退していた奈枝であったが、白結びを頬張る姿からはとても想像できない。ジンはほっとしつつ、席に座る。クレイと違い、ジンは融通をきかせて食事だって共にとってくれる。
「お嬢さんと頭目って恋人なんです?」
スープマグを持ち上げたジンの言葉に、奈枝はご飯粒を喉に詰めた。
「げっふぉげほげほっ……!」
「わっ、大丈夫っすか!」
水で米を流し込んだ奈枝は、勢いよくグラスをテーブルに置いた。
「はー……。……突然すぎない?」
「すんません。回りくどいのあんまり得意じゃないんで」
「……そういうこと、聞かれないもんだと思ってた」
ふうとため息を奈枝はこぼす。
最初の内こそ、何か聞かれたらどう答えようかと怖々していたが、ジンもクレイも奈枝の素性はおろか、彼との関係も尋ねてくることはなかった。
セイクリッドから詳しい事情が説明されているのか、組織と言うものはそう言うものなのか――アルバイトしかしたことのない奈枝には判断もつかなかった。ただ、彼らに聞かれない内は話さなくていい、と安心していたのは確かだった。
「まぁ無理して根ほり葉ほり聞こうってわけじゃないんすけどねぇ。まー、何も聞かされないで2週間、通常業務ほっぽってるわけだし。ちょっとぐらい甘い蜜吸ってもいいんじゃないかなって」
2週間。こちらの世界にきて、もうそんなに経つのか。焦りと共に、悲しくもなる。それほど長い間、奈枝はセイクリッドと共にいるのに、まともに会話すらしていないからだ。
こちらに来たいなんて、我儘を通すべきじゃなかったのかもしれない。無条件に受け入れてもらえると思っていた奈枝は、己の甘さを悔やんだ。
「二人とも忙しい身だろうに、ごめんね」
「いいんすよ」
そう言って笑うジンの顔に邪気はない。どこかの誰かさんとは大違いだと、微かに笑った。
「恋人じゃないよ。セイ、クリッドさんとは――そうだなぁ」
家族、と伝えれば、恋人を肯定するよりもはるかに、あらぬ誤解を与えるだろう。
ジンは当たり前のように奈枝を聖域へ連れて行った。彼にも、クレイにも、聖女だと確信を持たれていると思っていいはずだ。
その聖女と、セイクリッドに血の繋がりがあるはずがない。赤の他人が「家族だった」と伝えて考えられる可能性は、そう多くないだろう。悪戯好きの奈枝とは言え、セイクリッドの近況を知らない状況でこういった類の冗談は言えない。
でも、嘘をつきたい質問ではなかった。奈枝は悩んだ末、ぽつりとこぼした。
「……セイクリッドさんは、私の一番大切な人かなぁ」
半年前も、今も。思いの種類は変わっても、丈は変わらない。
うん、そうだな。と指についた米粒を舐めとる奈枝を、ジンが、その髪の色程真っ赤な顔をして見つめている。
「……え、なに」
「いや、俺も。そんだけあけすけに伝えなきゃ伝わんねーのかなって……」
「へえ?」
「実は結婚考えてる彼女がいて……」
「へえ!」
奈枝の乗り気につられて、話は自然とそちらへ流れていった。なれそめから、結婚を決めるきっかけとなったことなど。当てもなく話していく内に、奈枝は一度聞いたことのある話題になっていることに気付いた。
「序列は守らないと、って先輩もしてないから、俺が先越せねーし」
「はー……じゃあ、オーケーもらえたとしても、結婚できないんだー」
桶? と首を傾げるジンに奈枝は何度も頷いた。
そうか、セイ君。まだ結婚してないんだ。
あれから10年たったと聞いた時。奈枝に一番最初に浮かんだ文字は、結婚だった。
20そこそこの奈枝ですら、ちらほら友人の結婚報告を聞き始める年齢である。30の、それも花形職である私兵隊で頭目を務めるセイクリッドが、縁遠いわけがない。
セイクリッドが結婚する。
彼が10にも満たない時は、将来いいお嫁さんをもらうんだよと思っていた。
16の時にはどうだっただろうか。もしかしたら、彼の隣を誰かにあげることに寂しさを感じたかもしれない。
そして、20の時――。
「しかし頭目をねぇ。狙い目かもしれませんよ。最近は女遊びもほどほどにしてるみたいだし」
「お、女遊び?!」
「いや、元々好色な人じゃなかったんすよ! 俺が見たことある彼女も、一度だけだし!」
「むむむむしろ、み、見たことあるの!? いつ!?」
セイクリッドに彼女がいたとは、奈枝は聞いたことがなかった。
いつのことだろうか。奈枝と会えなかった10年の間だろうか。それとも、奈枝と会っていた、あの時にはすでにいたのだろうか。
「ジンさん待ってやっぱりさっきの――」
「いつって、いつだったかなー俺が12・3のころだったからなぁ。14・5年前か?」
詰んだ。はい、詰んだ。
彼にはいたのだ。奈枝と会っているその期間に、いたのだ。恋人が。
これだからもーあーもーあー。
恋なんて、するもんじゃない。
「頭目が――あの時は隊長だったけど。声かけてくれることも少なくてさぁ。声かけられたときは嬉しかったなぁ」
「へぇ」
奈枝はスープマグを持つと、気のない返事を返した。それにあまり頓着せずに、ジンは話しを進める。
「まさかの頭目が、兵舎に女連れ込んでて」
「へぇ?!」
今回のことといい、16の時といい、セイクリッドはよくよく兵舎を好きに使うのだなと奈枝は驚く。いや、――14年前?
「飯持って来いって言われて、彼女の顔俺は見れなかったんすけどね。女連れ込んでるの見たっていう奴がいて、頭目に女兄弟がいないのは周知の事実だし」
「……黒髪の子と、二人で?」
「そう、クレイと一緒だったんすよ。よくご存じで」
さすが聖女、とジンは口に出さずに口笛を吹く。奈枝はスープマグをおぼんに置く。
ごめん、それ多分――どころか、確実に私だ。
言うことを憚られ、笑って流した奈枝に何を思ったのか、ジンは慌てて口を開く。
「いやでももうそれも14年も前の話ですし。今はそういう彼女いないみたいっすよ」
「そうなんだー」
そういう、なるほどね。そういう彼女は、ね。
ジンはぼりぼりと頭を掻くと、話の流れを変えようと試みる。
「まぁ、ちょっと彼女の顔見てやろうと思ったら、早く帰れってすぐ怒られたんすけどね。あの頃から頭目は怖かった」
ジンの言葉に、奈枝は首を傾げた。
「……怖い? 照れてたんじゃなくて?」
「いやいや、あの目は本気の殺気でしたよ」
そうだったかな、と奈枝は記憶を掘り起こす。
――奈枝さんが見たかっただけですよ。私が自分の女を連れ込んでいると、馬鹿げた噂がのさばっておりましたので。
照れて拗ねたような顔をした少年の頬は少し赤くて、少しだけ口早だった。セイクリッドが怒っているように見せるときは、いつも気恥ずかしい時ばかりで――
セイクリッドは、天邪鬼だった。
彼は小さなころから、本当に助けてほしい時に、助けてと言えない子だった。
欲しいものを、欲しいと言えない子だった。
――本当の心を、歪な言葉で隠してしまう子だった。
がちゃん、とおぼんの上の食器が鳴った。
テーブルに手を置き呆然とした顔をする奈枝に驚いたジンが、顔を覗き込む。
「お嬢さん?」
「……ジンさん。これ、食べたことある?」
奈枝は、皿に残っていたもう一つのおにぎりを指さす。
ジンの皿の上にはすでにおにぎりはない。ジンは慌てて頷いた。
「うん。そりゃ、もちろん」
「食べて」
「え」
残っていたおにぎいりを、あれほど美味しそうに食べていたというのに、奈枝はジンに差し出した。
「食べて」
奈枝の強い目力に勝てずに、ジンはすごすごとおにぎりを手で掴んだ。
そしてそのまま、ガブリと齧りつく。
「――違う」
奈枝は小さく首を横に振った。ジンは、狼狽しながら口を動かす。
「何がっすか」
「それは、今、私を見て、食べ方を真似たんでしょ?」
ジンは黙った。
それが肯定だった。
おにぎりがもし、この世界で一般的に出される食べ物だったなら。
この世界の住人は、ナイフとフォークで食べるはず。
奈枝はそれを知っていた。
10歳のセイクリッドが、器用にそうやって食べる姿を、目の前で見ていたのだから。
じゃあ、これは。
このおにぎりは、皆と同じメニューなんじゃなくて――
「これは、彼が……私のために用意させたのね?」
ジンは返事をしない。
奈枝は勢いよく立ち上がると、窓の方へ向かった。どれほど目を凝らしてみても、もう木は揺れていない。あちゃあ、と言う顔をしているジンを振り返る。
「梟じゃなくて、烏なのね。君たちは」
ジンは返事をしない。
「あそこに留まっている烏は、黒い服を着て、葡萄色の目をしてる?」
ジンは、返事をしなかった。
奈枝はクローゼットから緑色の包みとマントをひったくると、廊下に飛び出した。その姿を見て、ジンが悲鳴を上げる。
「あぁもう! だから大人しく、仕事してりゃあいいのに!」
それはくしくも、もう一人の警護人と同じ意見だった。




