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21 : 生ける聖女、死せる烏を走らす

 セイクリッドと奈枝が、喧嘩とも言えない程些細な仲違いをした、あの日。

 セイクリッドはこっそりと、奈枝を尾行していた。無事に彼女が常世(とこよ)へ帰る姿を見なければ、不安で仕方がないからだ。彼女が元気で去る姿を見るからこそ、先の数年を待つことができる。


 ウィルに洗濯物を押し付けられたセイクリッドは、急いで籠の中身を片づけた。逆ではないかと思ったが、頭に血がのぼっていた自分が駆けつけたところで、同じことの繰り返しだっただろう。セイクリッドは洗濯物を乱雑に干しながら、幼い頃からの親友の心遣いに感謝した。


 呆れるほど心の狭かった自分の幼さをセイクリッドは恥じた。

 洗濯籠は、適当に干したせいかすぐに空になった。すぐさま走り出す足。洗濯場を抜けると、一時的に洗濯場を閉鎖していたため、立ち往生していた部下がいた。口早に許可を出すと、セイクリッドは再び走った。


 ――婚約……!? あ、違う。ごめんね。いるのは婚約者じゃなくて、お見合い相手なの。それも今は全てお断りしてるし……


 追いかけた先で聞こえた、驚いたような奈枝の声。ほっとして、セイクリッドは壁伝いにしゃがみ込んでしまった。

 情けない、震える手を顔に押し付けて、セイクリッドは笑った。情けなかった。自分は家族でいいなどと言いながら、このざまだ。彼女がまだ誰かのものになるわけではないと知ったセイクリッドは、戦場で勝鬨かちどきを聞いた時よりよほど安心した。


 聖域に辿り着いた奈枝が、いつもよりもずっと苦戦しておぼんを持ち、木によじ登る。一度振り返った彼女が口を動かしたのはわかったが、何と言ったかまではわからなかった。恨み言だろうか、それとも、別れの挨拶だろうか。

 別れ際に顔を見せることすら出来ず、セイクリッドは奈枝を見送った。今顔を見てしまえば――高ぶる喜びのまま、感情を奈枝にぶつけてしまいそうだったから。


 いつものように無事に木の向こう側へ消えていった奈枝に息をついたセイクリッドは、次の瞬間、全身に鳥肌が立つのを感じた。


 奈枝を送ったご神木に咲いた花達が、ボトボトとその身を落としていく。


 常とは明らかに違うその異様な光景を、セイクリッドはしばらく成す術もなく見つめていた。ようやく足が動くようになると、大慌てで専属の庭師を呼びに行った。駆けつけた庭師も、原因不明だと匙を投げる。

 禁忌とは知りながら、聖女の通り道である枝の間に手を通した。

 しかし、そこは以前と同じく、セイクリッドにはただの空間でしかなかった。


 以後、奈枝が渡ってきていたその木は……朽ちる事こそないものの、二度と花を咲かせることはなかった。


 そうして、神が一柱、失われた。


 セイクリッドにとって、たった一人の、唯一の神だった。


 花の咲かなくなったその年から、セイクリッドがどれだけ庭へ通い待ち続けても、奈枝が現れることはなかった。


 10年、10年だ。

 あの日から10年。決して短い期間じゃない。


 歴代の中で、一番長い彼女の来なかった期間は、4年。6歳から10歳のころ。それ以外は大抵、3年で現れていた。その彼女が、10年も姿を見せなかった。依代にしていたサクラの木が、あんな姿になって――。


 他の花が一斉に咲き誇る中、たった一本だけ、いつまでたっても蕾をつけないその意味を……セイクリッドは正確に悟った。


 ――彼女はもうこの場所に降り立つことは無いのだと。

 彼が諦めるには十分だった。


 諦めなければ、過去にしなければ、彼女に誇れる自分でいられると思えなかった。

 この姿をもし天から見ているのなら――彼女に恥じない自分でいたいと、そう思い、その一心だけで生きてきた。


 なのに。


 ――セ、イ。


 見続けた夢が、失ったと思った希望が、再びこの手の中に零れ落ちてくるなんて――セイクリッドは一度だって、考えたことがなかったのだ。




***




「では、失礼致します――私以上に、心を尽くすように」

 セイクリッドは、にこりと微笑んでそう言うと部屋を出て行った。セイクリッドが出て行くと、告げられた隊員は敬礼していた形を解いた。


「……さて、どうするか」

 そうぼやくのは、先ほどまで奈枝を縛り上げていた隊員だ。

 セイクリッドの態度が180度好転したことをきっかけに、奈枝に対する態度を改めていたが、彼がいなくなった途端に気が抜けたような声を出す。


「あの分だと、隊長は大目玉じゃすみそうにないな……次会った時も、首繋がってたらいいけど」


 奈枝と彼は個室に案内されていた。牢獄から連れ出された先は、ルベルジュ家の管理する屋敷ではなく、秘密を保持しやすい兵舎であった。

 客間として使われるそこは、隊員の寝床より幾分か上等に整えられている。


 奈枝が人知れず息を吐き出す。

 殴りつけられた背中が痛むし、頭も体もふらふらだった。そばにあったベッドにぽすんと腰かけ、ひりひりと痛む手首をさする。先ほどまで拘束されていたせいだろうと、なんとなしに取った奈枝の行為に気付いた隊員が、くいと眉毛を上げた。


「これは気が利きませんで。なんとも慎ましやかでいらっしゃる。言ってくだされば治療でも致しますのに」

 男の言葉に、一瞬ポカンとした奈枝は、疲れも忘れて勢いよく吹きだした。

 薬箱を取りに行こうとした男の足が止まる。

「……なんですか」

「ごめんなさい。嫌味は、私兵隊の十八番なのかと思って」

 誰のせいでこうなったと思ってるんだ。そう罵ることも出来た奈枝は、先ほどまで自分を縛りあげていた相手に向かって、肩を震わせて本気で笑っている。男はそのことに、心が逆撫でられた。


 解放された安堵からか、未だ続く恐怖にか、先ほど向けられた殺気にあてられたのか――奈枝は少しばかり興奮していた。


 いずれにせよ、一隊員が個人的怒りをぶつけていい相手ではなくなっていることだけは確かだった。彼女が無事に首と胴を繋げているその事実が、全てを物語っていた。


「彼に――セイ、クリッドさんに。仲良くしろ、って言われたでしょ? ってことは私、多分だけど、もう大丈夫なんだよね? はーあ、怖かったー……。私もう、流石に喧嘩する体力ないし、仲良くしてよ。あ、名前教えて?」

 あっけらかんとして言った奈枝に、隊員は苛立たしげに薬箱を開けた。


「クレイと申します」

「クレイさんね。私は片峰。いいよぉさっきみたいな砕けたしゃべり方で」

「頭目のご客人にそのような無礼は」

「あー、そっか、そうなんだ。もう、頭目なんだね……」


 ごめん、ちょっと今、頭まわんないから、バカみたいなしゃべり方でも許して。そう言って、片手に顔を埋めた奈枝はぶんぶんと首を横に振った。彼女なりに今の状況を整理しようとしているのだろうと、クレイは笑った。笑ったのは、自分の身を儚んだからだ。


 聖域に侵入しただけで飽きたらず、代々受け継がれてきた神にも等しい木を損壊。

 それだけでも縛り首ものであるにもかかわらず、頭目の禁句を口にして尚、生きている。

 更には、頭目を退かせ、武器を解除を命じられた。そんなことができるのは――


 私兵隊内でも、領地内でも敬語を使う相手を探す方が難しい頭目。その彼が敬語を使って接するこの女が何者なのか――クレイは、決して、考えたくも、察したくもなかった。


 彼女の手には縄で掠れた痛々しい跡が残っている。罪人として拘束した、罪人とは一番かけ離れた位にいるだろう相手。

 自ら負わせた怪我を手当をしようとは、何とも滑稽だ。クレイは自嘲しながら、消毒液、軟膏、包帯を箱から取り出す。


「手当をします。背中も診ましょう」

「ありがと、でもいいよ、大丈夫。平気」

 奈枝は痛みから手をさすっていたことを忘れたかのような顔でクレイに言った。 クレイはその面倒な謙遜に眉を顰め、無言で手を差し出すように要求する。


「……じゃあ、こっちだけ」

 奈枝はどこか観念したように眉を下げると、手を差し出した。傷口に触れぬように、乱暴に彼女の手を掴んだクレイは動きを止める。


 女の手が、震えていたからだ。


 クレイの怒りがさっと引く。

 目の前の女の位など、関係なかった。痛みを我慢し、恐怖を押さえ込む目の前の女がまだ若い娘であることを、クレイは今ようやく認識した。


「にしても、セイクリッドさんもまだまだよねえ。こんな幼気(いたいけ)な女の子を、縛ってた人と一緒の部屋に放り込むなんてさ。心遣いがなっちゃいないと思わない?」


 手を差し出しながら、奈枝が言う。手の震えが収まらないことを、誤魔化すような明るいしゃべり方だった。


 自らの恐怖さえ口実にして、人の罪悪感を消し去ろうとする女の気遣いに気付かぬほど、クレイは幼くなかった。


「貴女に、謝罪したほうがよろしいのでしょうか」

「やめてよ。謝られたら、私も謝らないといけないんでしょ。あの木、倒したこと。私、謝りたくないし、償う手段持ってないし。セイ、クリッドさんが有耶無耶にしてくれるの、大人しくこの部屋で待とうよ」

 きっとそうなる、と希望を信じるかのように呟いた奈枝に、クレイは静かに従った。




 ――そして数刻後、奈枝の言った通りの結果がもたらされる。


「この度は無事の御来訪、現世(うつしよ)の民一同大変嬉しく思っております」

 後ろにウィルを従えてやってきたセイクリッドが、夕暮れ近くに生真面目な顔をして訪ねてきた。クレイが隊長に昇格してあるウィルを見て、無事だったんすねと口笛を吹く。

 自分でどうにか背中に湿布を貼った後、ベッドの上でうつらうつらとしていた奈枝が、体を起こして出迎える。


 セイクリッドは、奈枝の記憶の中の彼よりもずっと大人になっていた。

 きっともう、飴よりも酒を好む年だろう。幼い頃の面影はあるものの、既に一人の、立派な大人がそこに立っていた。

 奈枝よりももうずっと高くなった背、広くなった肩、角ばった手。顎にはもしかしたら、毎朝髭が生えるのかもしれない。いや、奈枝が知らなかっただけで、もうずっと生えていたのかもしれない。


 大人になったセイクリッドに、先ほどあれだけ拒絶された彼に、どう声をかけていいのか悩んだ。

 先ほど与えられた恐怖を泣きながら訴えることなんて、昔だったら簡単だったのに。今は、毛ほども行動に移そうとは思えなかった。


 セイクリッドは、何かを探るように真剣な表情で奈枝を見つめている。奈枝は彼の目を見つめ返すことが出来ずに、彼の胸元に視線をやった。


 殺そうとしたり、助けようとしたり。一変した態度に、少しばかりついていけてない。

 セイクリッドの立場と気持ちは今一つ把握できていない奈枝であったが、自分の気持ちならわかる。


 奈枝は、セイクリッドが嫌いではない。あんなことをされても、尚、嫌いではないのだ。

 なら、取るべき行動は一つだと感じた。


「ご歓迎ありがとうございます……あの木、壊しちゃったの問題なんですよね? 大丈夫でしたか?」


 生きててよかった。また会えて嬉しい。会えない間どんなことがあった?


 君は再会を、ほんの少しでも喜んでくれた?


 会えた喜びを押し隠し、奈枝は努めて冷静に発言した。奈枝は、水に流すことにしたのだ。先ほどのことを話題に出すことさえ拒否した奈枝に、セイクリッドは少しだけ時間を置いた後、ゆっくりと口を開く。


「お心遣いとても嬉しく思います。元々、あのご神木は古の昔に、聖女の為に植えられたもの。聖女であらせられる貴女がどうしようと、感知せぬと」

 他人事のような言い方に奈枝は首を傾げた。

「……お兄さん?」

「ええ」

 元々あの場所は、私兵隊の持ち物ではない。頭目のセイクリッドでも、手に追えぬ案件だったのではないか。奈枝は恐る恐るセイクリッドを見上げる。

「怒られたり、しましたか?」

「何、貸しの数は負けておりません」

 にこりとセイクリッドが微笑む。奈枝はその顔に強烈な違和感を覚えた。


「ですが、聖女は既に常世(とこよ)に御帰還し、その折に、あのようになったと説明させていただきました」

「うん、それはいいんですけど――じゃあ私、これからどうしよう」

 私兵隊に残っていることが伝われば、責任問題よりもずっと大きな面倒が待っていることは明白だった。聖女としてこの地に遊びに来ていた時、奈枝はなんの枷も持たなかった。数時間、もしくは数十分の滞在でしかなく、影響力もさほどなかったからだ。


 責任も、期待も、信仰も、何もない自由の身。それが、サクラの木があのようになってしまい、帰還が難しいとなると話は変わってくる。


 ――ルベルジュの屋敷は正式に、聖女を手に入れてしまえるのだ。


「その件については、私が全責任を負います。ひとまずは、この兵舎で目立たずに、大人しく、過ごしてくださいますよう」

「目立たずにと大人しくって――重複する言葉を二回も続けなきゃいけないほど、心配ですか?」

「念には念をと思いまして」

 有無を言わさぬセイクリッドの微笑みに、奈枝は神妙に頷いた。


「頼りにしちゃって、すみません。セイクリッドさん」


 セイクリッドは一瞬だけ、その微笑みにひびを入れる。しかし、奈枝に悟らせる前に、再び面に笑みを張り付けた。


「――いいえ、光栄ですよ」






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