20 : 相死相愛
今が何時かもわからない暗闇の中で、奈枝はひっそりと息をしていた。
混乱と恐怖により回らない舌で、何度もセイクリッドの名を呼ぶ奈枝が、気でも触れたとでも思ったのかもしれない。彼らは手足を縛っていた奈枝に、更に目隠しをし、猿ぐつわを食めた。そして乱暴に、奈枝を牢獄へと放り込んだ。
「しっかり見張ってろよ」
もう一人にそう言うと、男の気配が遠ざかった。分厚い扉が閉まる音がする。完全に無音になった空間ではそこに誰かいるのかどうかもわからない。話す手段も、何かを訴える手段も、奈枝にはなかった。
どうしていいか、わからなかった。
奈枝の見通しが甘すぎたのだろうか。こんな風になることを、一度だって想像したことはなかった。奈枝はただ、セイクリッドが生きていることを、確認したかっただけ。そしてできれば――また笑って話をしたかった、それだけだったのに。
自分が「聖女」と呼ばれる立場であったことを明かす暇さえなかった。伝えていれば、何か変わっただろうか。あの場では、火に油を注ぐだけだったかもしれない。彼らは奈枝があの大木を倒したと、信じて疑っていなかったのだから。
でもきっと、セイクリッドに会いさえすれば、絶対に助かる。
奈枝は縛られた両手を、背中でぐっと握りしめた。大丈夫、きっと、大丈夫。
黴臭い牢屋で、奈枝はまんじりともせず光を待ち続けた。
***
「神の冒涜は誰であっても死罪――隊長の命令だ。一思いにやってやれと」
自由な耳で、奈枝が悲しみを拾い上げたのは、それからすぐのことだった。
「誰かも、何処の国の者かもわかってないのに?」
「上の決定だ。雛は親鳥に従うもんだろ?」
「面倒な案件なのかもなぁ。下手なこと聞きゃ、俺たちの首が飛ぶって?」
「若い女だ。こっちとしちゃあ、少しの楽しみもあったのにな。まぁ、仕方ない」
決定事項だ。そう言って紙をめくる音がした。男達は、勿体ないと言わんばかりにため息を吐く。まるで差し出されたケーキを取り上げられたような、心無い息だった。
――誰であっても死罪。
奈枝はその言葉に、現実味を帯びてなかったこの状況を嫌でも認識させられた。奈枝は今、殺されそうになっている。手足を縛られ、目隠しをされ、猿ぐつわをはめられても尚どこかで安心していた奈枝が、がたがたと大きく震え出す。
――隊長の命令だ。一思いにやってやれと。
だって、隊長の名を、奈枝は知っていた。
誰よりもよく、知っていた。
「んー! んん、んー!」
突然暴れはじめた奈枝に、男は一瞬の迷いもなく、奈枝の背を剣で殴った。奈枝は息を吸ったまま体を緊張させた。
「しっかし、残念だなぁ。あんな大胆なことする女、アッチの方も強いだろうになぁ」
「次は鞘から抜けよ」
「あ、俺の名剣?」
「馬鹿野郎」
人をこれから殺す人間達は明るい声で、奈枝を嬲る。体中の温度が、スッと失われたようだった。
体が痛いのか、心が痛いのか。奈枝はもうわからなくなっていた。
セイクリッドは、あの木を大切にしていた。先祖代々受け継がれてきた、神にも等しい木だと言っていた。セイクリッドは、わざとではないにしろ、その木を倒した奈枝を許せなかったのかもしれない。
最後に顔を見せる事さえなく、奈枝の命を摘む決断をするほどに。
「女に辛い思いはさせたくねぇなぁ。大丈夫、俺が一瞬で終わらせてやるからなぁ」
そんなこと、思ってもないくせに。
男が両手足を縛った奈枝の体を固定する。奈枝は無我夢中に体を動かすが、一ミリも移動することができない。体が床に食い込みそうなほど強い力で縫い止められていた。
「死にたくないならよ――お前が殺した神に、地獄で命乞いでもしてきな」
軽い口調の男たちの心からの怒りを知り、奈枝は乱れる呼吸を整えることが出来なかった。
セイ君、セイクリッド。
せめて最後に、「奈枝さん」と呼んでほしかった。
しゃらり。剣を鞘から抜く音。奈枝は全身に力を入れて、あらんかぎりに暴れようとする。ギチギチと縄が鳴り、痛みが皮膚を襲った。しかし、身動きすらできない。
悲哀に呑み込まれたその時、ギィィイと、重い扉が開く音がした。
「隊長にはある程度の裁可を許しているが――聖域での狼藉者まで卸す許可を与えていたとは知らなかった」
「頭目を悩ますまでもないと思いやして」
「下手人は女らしいじゃないか。拷問を避けてやろうとは情でも移ったか――まさか。その女を情婦にしてたんじゃ無いだろうな。手前の下半身の不始末を、隊員に取らせるなよ」
「へいへーい、おっしゃる通りで」
「手を出すならきちんと身辺調査をしておけ。隊長の女が神殺しの大逆人など――外聞が悪いにも程がある」
話し声が空気を伝ってきた。奈枝に向け、剣を振り下ろそうとしていた男の動きが止まる。奈枝を拘束した男はそのまま、扉が開いたほうを見やった。
「おや、隊長。そういう理由だったんですかぁ?」
「お前減俸」
「わー! 止めてくださいよぉ! 俺、ようやく彼女にプロポーズしようとしてんすから!」
「かわいそうに。この女隊長に捨てられて、ずっと祈ってましたよ。聖なる加護を、聖なる加護をって」
やいのやいの、とこれから人を拷問にかけようとしている人間たちの話し声とは思えない、軽やかな会話が響く。命拾いした、とは到底思えない恐怖の中で、奈枝は心臓が早鐘を打つのを感じていた。
生きてた。
生きてた――生きてた。あぁ、生きてた。
「これか」
「はい。顔見ますか」
地に縫い付けられたままの奈枝は、踏みつけている男から髪を掴まれ、上を向かされた。
目隠しと、猿ぐつわを付けた女の顔を、新たにやってきた男は一瞥する。
その視線は、目隠しをしていても感じるほど、冷たかった。彼から、到底向けられたことがない強い怒気に、嬉しさではち切れそうだった奈枝の胸が恐怖に萎む。
「いい。興味があるのは顔ではない」
カツンと軍靴を鳴らすと、男はしゃがんだ。そして笑う。にっこりと、芋虫のような女を見て。
「――さて、華々しく登場した聡明なる其方ならご存知だろうが、我が領土は三国と隣接している。時に物見を送り、時に密使を受け入れる。可憐な尻軽のお耳には、到底入れられないような行動を取ることもあるだろう。その土地の特殊さゆえに、それなりの権限も認められている――もちろん、不届き者の処遇も含まれる」
短くなった髪を掴まれ、しゃがみ込む男に顔を向かされた奈枝を寒気が襲った。
その男の言葉に、その男の声に、その男の態度に。
「端的に言おう。其方は私の個人的な怒りを買った。拷問は軽いと思うな。100度殺しても、殺し足りない」
全身の血の気が引いた。目の前の男――セイクリッドから放たれる本気の殺気を受けて、凍り付く。
会えたと喜んだのは、自分だけだった。自分だけだったのだ。
セイクリッドはいつだって、奈枝を歓迎した。幾つになっても、どんな時でも、奈枝だと気づいた。それゆえ、心底軽蔑しきった視線を向ける相手が奈枝だと――気付いていない、はずがない。
「くつわを」
冷ややかな声でセイクリッドが命令を下す。剣を持っていた男が、奈枝の口にはめられていた猿ぐつわを外した。
「折しも、其方が繰り返す戯言と同じ名を持つこのセイクリッドが、私の神を殺した理由を、直々に聞いてやる。内容如何によっては、100度が99度になる可能性もあるだろう」
心臓が止まりそうなほど冷たい声。奈枝は呆然と彼の言葉を受け止める。
今まで猿ぐつわをしていた口は、上手く言葉を紡げない。掠れた声が、微かに紡がれる。
「セ、イ……」
しん、と沈黙が響いた。
物音一つ立てられないような圧迫感。
セイクリッドから放たれる殺気が膨れ上がったのを、誰もが感じた。
禁じられたセイクリッドの呼び名。
それはかつて、兄により不当な扱いを受けていた際の、セイクリッドの蔑称である。
――ここにいる誰もが知っていた。
セイクリッドが、決して。
現存するどんな人間の冗談でも「セイ」と呼ぶことを許さないことを。
「1000度、私自ら殺してやろう――その呼び名、虫唾が走る」
セイクリッドが剣を抜く音がする。先ほどの予告通り、拷問が始まることを意味する音を聞いて、奈枝は恐怖を覚えるよりもずっと先に、生を諦めた。
セイクリッドと繋がっていた、最後の一本の糸までもが、ぷつんと切れた気がした。
彼はもう、奈枝に親しみを覚えていない。それどころか、こんな状況に陥ってなお、名前を未だに図々しく呼び続ける奈枝に、声が震えるほどの怒りを抱えている。
セイクリッドをそこまで怒らせたのが自分だとすれば、もう、これ以上生にしがみ付く理由もない。
諦めることは簡単だった。父も、母も、祖父も、祖母も。奈枝を置いて行った。その都度諦めた。ただ一つ、諦められなかったことがあるとすれば――
唇を動かした。乾いた口には、上手く言葉が乗らない。
「……よ、く……生きてた……」
よく、生きた。
あの日と同じ言葉を、奈枝は知らず口にしていた。
ただ一つ、諦められなかったこと――それは、君と会えなくなったことだけ。
それだけが、どうしても、何をしても、諦められなかった。
――ガツンッ
奈枝が死を迎えるために力を抜いた瞬間、金属が打ち付けられる音がした。カラカラカラッ……高いところから落とされた金属が震える音。けれども、目隠しをされた奈枝には、それが何かもわからなかった。
セイクリッドの手から抜け落ちた剣が、床に転がる。突き刺さるほどの静寂の中、セイクリッドは口を開いた。
「名は」
その声は、まるであの日――傷ついて血に伏せた6歳の頃のセイクリッドのように、力なく、心細く、その場に落ちた。
セイクリッドは、ただボロ布のように床に踏みつけられている奈枝を、目を見開きながら見つめている。しかし、目隠しした状態で俯かされている奈枝は、自分が問われているのだと気づくのに時間がかかった。
この場を支配する者達により、意図的に生み出された長い長い沈黙により、ようやく悟る。
乾いた喉は、部屋中の埃を吸い込んだかのように心地悪かった。奈枝は深い悲しみと恐怖で混乱する頭のせいで、疑問を持つことなく、干からびた唇をゆっくりと開いた。
「……片、峰……奈枝」
――その瞬間、セイクリッドが大きく後ずさった。驚愕に、大きく目を見開きながら。
一同はまるで真夏に雪でも降るかのような異様な情景を目にした。
退いた。あの、セイクリッド・ルベルジュが。
まるでそれが合図だったかのように、隊員が一斉に攻撃態勢を取る。奈枝を拘束していた男が、強い負荷をかけて彼女を縛り上げた。余りにも強い力に、直接的な痛みを感じた奈枝が悲鳴を上げようと口を開く。
しかし、奈枝が悲鳴を上げるよりも先に、セイクリッドがその隊員の手を捻りあげていた。奈枝は突然訪れた解放に、頭がついていけずにポカンと口を開いている。セイクリッドに捻りあげられた腕を、隊員も驚きながら見つめていた。
「全員、武器を仕舞え」
従え。力なく呟いたセイクリッドに、全員が困惑しながらも従った。私兵隊にとって、頭目の言葉は絶対である。
セイクリッドは隊員の腕を手放すと、物音で奈枝を怯えさせないよう、ゆっくりとしゃがんだ。
震える指で、セイクリッドが奈枝の目隠しを外す。はらりと、奈枝の顔から布が剥がれ落ちた。そこに見る、二つの澄んだ双眸に、セイクリッドは唇を噛み締め、目を閉じた。
――10年。
10年、見続けた、叶うはずのない彼の夢が、そこにいた。




