18 : 知者は惑わず勇者は遅れる
何度試しても、何日たっても、年が明けても――あの引き出しの底が消えることはなかった。
今まで行ったことがある日を思い出し、日付や曜日、満月かどうかなんてところまで関連付けて験してみても、どれも徒労に終わった。
出かける度に、綺麗な飴玉を探すのが癖のようになっていた。買い込んだ飴は、一つも食べられることなくリュックの中に詰め込まれている。
試すたびに、化粧をして、お洒落をして、からあげを揚げた。もし通じたら、なんて言おうか考えながら。遅くなってごめんね? 中々来られなかったけど何かあったの? それと、この間はごめんね――
伝えられることのない言葉ばかりが積もっていった。
その内、奈枝はこの胸の喪失感を受け入れるようになっていた。受け入れなければいけないことを奈枝はよぉく知っていた。
奈枝はこの胸の痛みを、三度も味わったことがあるのだから。
試して、試して、試して――その内、試さなくなった。
***
「ねえ、お茶パック追加はないの?」
「あ、隣の部屋のスーパーの袋の中に、お菓子と一緒に入れてます!」
「ちょっとトイレ借りるわよ」
「どうぞー!」
「奈枝ちゃん、このお花貧相だから、ちょっと手入れるわよ!」
「はーい! お願いしまーす!」
黒い礼服を着た腰の曲がった夫人たちの間を、奈枝はばたばたと走り回っていた。
「奈枝ちゃん、お経始まるって」
「あっ、えと」
「こっちはいいから行っておいで!」
「はい! ありがとうございます」
おばさん達の声に頭を下げつつ、呼びに来たおじさんの背を追って奈枝は仏間へと向かった。
馴染みの住職は奈枝が来たのを見止めると、会話を打ち止めて仏壇に姿勢を向ける。奈枝はポケットから数珠を取り出して、仏壇の近くに腰かけた。沢山の人達で溢れ返っている仏間の中で、奈枝はそっと目を閉じた。住職のお経に合わせて、手を合わせる。短く切り揃えた髪が、耳の辺りでさらりと揺れた。
突然引き出しの向こうへ行けなくなったあの日から、半年がたった。
気付けば祖母の一周忌。目頭が熱くなることもあるが、皆かねがね笑顔だった。ご近所の人に始まり、詩吟の会でお世話になっていた方々も駆けつけてくれて、遺影の中の祖母の笑顔に相応しい明るい場となった。
陰干しした着物も、数着を残して譲り渡した。その名の通り、箪笥の肥やしになるよりも、もっと上手に使ってくれる人たちがいたからだ。
奈枝には、いつか着ようと思えるための数着と、祖母の思い出があればそれでいい。
それから、納戸にはもう行っていない。
毎日を規則正しく過ごし、学業に励み、バイトに勤しみ、仏壇に手を合わせ、月に一度は墓に顔を出す。奈枝の日常は、本来あるべき姿を取り戻していた。
「黒江さんは本当に若い頃から綺麗でねぇ。嫁いでこっちにいらしたってのに、ここいらの男はみんな夢中になったもんだ」
「ハーフだったかね? そりゃあべっぴんさんだった。旦那さんが入れ込むのも無理はなかったよ」
「おかげで、片峰さんは奥さんに一切頭があがらんかった」
ははは、と笑いで場が包まれた。説法を終えお寺さんもすでに帰っている。
ひととおり昔話に花を咲かせると、一人、また一人と帰り始めた。最後の一人を見送った後、奈枝は一人通い慣れた墓に向かった。途中の花屋で、菊と、鮮やかなスイートピーと、カーネーションを買う。色はどれも、祖母が好んだピンクに合わせてもらった。
――今日はくしくも、五月の風が香る、母の日だった。
風に遊ばれた髪を耳にかけようとして指が止まる。セイクリッドが撫でたあの髪は、もう切り捨ててしまった。
奈枝にとって祖母は、母親に等しい。優しい人だった。温かく、前向きで、そして決して立ち止まらず、常に奈枝を導いてくれた。祖母にははっきりと、奈枝が一人で墓に向かうような日が来ることを、理解していたからだ。
一人で暮らして、一人で生きて、一人で頑張っていく。そんなことは一年も前に――祖母が死んだ時に、覚悟をしていたはずだった。あの時、小さな光に触れるまでは。
料理上手で、趣味が多くて、いつまでも祖父を名前で呼ぶほどラブラブで、そしてたまに抜けていた祖母。祖父を追いかけて、遠いところからお嫁に来たと聞いたことがあった。きっと奈枝は、その「遠いところ」を知っている。
奈枝が小さなころから、祖母の髪は真っ白だった。透き通るような髪は、手だけが覚えているセイクリッドのそれにとても似ていた。
ばあちゃん。ねえ、黒江ばあちゃん。
草を毟り、掃除を終え、線香をあげた墓の前にしゃがみ込む。
ねえ、ばあちゃん。ばあちゃんもあの箪笥を、通ったことがあるの? あの箪笥を、とても大事にしてたもんね。あれは、ばあちゃんの花嫁道具だったから。
あの箪笥は、あの不思議な木で――サクラのご神木で、作ったんだよね。あんなにも、枝が育つほど、古くに。
心の中に思い描く祖母は、いつもにこにこと笑っている。その祖母にも、奈枝では計り知れないような苦労があったのかもしれない。「遠いところ」から、お嫁に来るような、そんな苦労が。
奈枝は世間の不平等さに、慣れてしまっていた。
父と母を、幼い頃に望んでも手に入れることは出来なかった。大切に大切にしてきた祖父母さえ、奈枝を置いて行った。
奈枝は、諦めることを知っていた。諦めることの辛さも――そして、生きるためにそうするしかないことも、よく知っていたのだ。
知っている、知っていた。半年もすれば、どんなことでも諦めがついて、前に進む覚悟が出来ていた。
なのにどうして、どうして今回は。毎日毎日毎日、どうしようもないほど、彼のことを思い出してしまうんだろう。元気でいるだろうか、ご飯は食べているだろうか。生きていてくれさえいれば、それでいいと――思っているはずなのに。どうして、諦められないんだろう。
ねえ、ねぇばあちゃん。
ばあちゃんは、どうしたの。どうやって、踏ん切りをつけたの。どうやって、世界を渡って来れたの。あんな大きな、箪笥を担いで。
「お父さん、お母さん、じいちゃん、ばあちゃん」
こんな日に、祖母の安らかな眠りを願えない馬鹿娘でごめんなさいと、嗚咽を殺しながら。
「私、諦め、られないよ」
全然、大丈夫じゃない。
日常になんて、戻れるはずが、なかった。
***
夕暮れの道を歩く。
行きがけは持っていた花束ない。奈枝の細く長い影だけが、そっと連れ添うように傍にいた。
これからきっと、奈枝は学校を卒業し、社会に出て、恋をして、結婚するだろう。二度失った家族を、新しくまた築いていくことだろう。
けれど奈枝は、彼がよかった。
心の内に秘めた想いとは、違う形であっても、家族でいるのは彼がいい。彼をずっと、見守る。そう自分と約束したじゃないか――
茜色の空に、明るい雲がかかっている。目を細めるほどに眩い光に向かって、奈枝は走った。
玄関を開け、階段を駆け上る。一日動き回ったせいで、喪服はしわくちゃ。髪はぼさぼさだった。化粧も汗で流れてしまっている。ご飯もお菓子も、用意していない。それでも奈枝は、一目散に納戸へと向かった。
納戸の扉を開ける。微かに差し込む夕日にきらめいて、埃が舞った。彼を諦めると決めてから―― 一度も、一度も。この部屋に入ることが出来なかった。
転がっている緑色の包装を引っ手繰ると、観音開きの扉を開けた。固い木の引き出しを引っ張ると、そこにはすでに見慣れた、木目の底板があった。奈枝はそこに触れた。底は、しっかりと奈枝の手を押し戻す。奈枝は負けじと、底を力を込めて底を押した。
「もう一回、もう一回。連れてって、お願い、諦められないの――!」
じいちゃん、ばあちゃん! 奈枝は初めて、涙を流しながら二人を呼んだ。力を貸して、と願いながら。
その刹那、奈枝の体がぐらりと傾く。
「え、あっやっ、ちょっ――」
バランスを崩した奈枝は――慣れた浮遊感を感じながら、和箪笥の引き出しの中に吸い込まれていった――




