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01 : 一寸先は異世界

 舞踏会の招待状は届かなかった。三匹の子豚も近所にはいなかったし、赤い頭巾は防災用だった。

 サンタクロースへ書いた手紙の行き先が外国じゃないことも知っていたし、ローブと鍋、そして蛙を用意して待っていたのに、魔法学校から入学届が届くことも、ついぞなかった。


 夢も希望もないが、愛に満ちた平凡な人生を歩んできた片峰かたみね 奈枝なえは本日、天涯孤独の身となった。




【 聖女の、遺産 】




 幼いころに両親に先立たれた奈枝は、育ての親である祖父母も、自然の摂理として自分より先に死出の旅に出ることを知っていた。

 16の時に祖父が、そして奈枝が20歳になるのを待つようにして、祖母も亡くなった。


 祖母は自身の死後、まだ若いただ一人の孫が全てを取り仕切らねばならないことを危惧していた。その祖母の教えにより、死後の手続きについて、奈枝はしっかりと把握していた。

 また、幸いにして近所の者はみな好意的で、若い身空で一人きりになった奈枝を放ったりしなかった。祖母がまとめていた資料を手に、隣組の世話焼きおばさんが運転する車に乗って、市役所や斎場、銀行へと動き回った。


 喪主として奈枝が葬儀の場に立てたのは、そういった手助けがあったからこそだ。

 きちんと祖母を祖父の元まで送り、ご近所の方々への挨拶も終え、一息ついたころ。両手に紙袋を抱え、誰もいない我が家に戻った奈枝は、夕暮れの(カラス)の音を聞きながら、唐突に突き動かされそうになった。


 このまま、梁で首をくくってしまおうか。


 そんな愚かなことが、わずか一瞬だけ、奈枝の頭によぎったのだ。

 それだけは、例え何があってもやってはいけない。苦労して育ててくれた祖父母のためにも、これから精一杯頑張っていかねばならない――わかっているのに、奈枝はどうしても、前向きな気分になれそうになかった。


 馬鹿な考えを払拭すべく、奈枝は二階を目指した。古い家屋の階段の幅は狭く、激しくきしむ。ぎしぎしと音を立てながら、少し埃が溜まった階段をゆっくりと上った。

 一人では持て余すほど広い二階。奈枝自身はあまり入ることがなかった納戸を開けると、樟脳の匂いがした。


 じんわりと、涙が滲む。


 物心ついてから今まで、奈枝は一度だって泣いたことはなかった。

 祖父が死んだ時も、これからは祖母を私が支えていかなきゃと、気を張るばかりで。

 大丈夫だからね、ばあちゃん――そう言う自分が泣いていたら説得力がないと、いつだって笑っていた。祖母を支えるため、自分を支えるため、奈枝は笑った。


 けれど、本当はわかっていた。

 祖父が亡くなった時、奈枝が祖母を支える必要など無かったことを。幼い奈枝は、まだ祖母の膝で泣き崩れても、許されたことを。祖母のために泣かない、だなんて嘘だった。

 泣かなかったのは……泣けなかったのは。泣いてしまえばきっと、


 ――もう立ち上がれないと。


 そう思ってしまうだろう弱い自分を、知っていたから。


 感傷のままに、奈枝は祖母の嫁入り道具の和箪笥を開く。


 祖母はこの和箪笥を一等大切にしていた。


 祖父が死んでからは、洋服の方が簡単だからと祖母は着物に袖を通すことがなくなっていた。しかし、いつか奈枝が着るかもしれないから――そう言って祖母は、何着もある着物を、面倒くさがらず都度、虫干ししていた。庭一面にはためく着物の波の中を、駆け回るのが幼い頃から好きだった。


 風にひらめく着物の影から、祖母を「わぁ!」と、大きな声で驚かすのが――


「ばあちゃん……っ」


 綺麗に折りたたまれた着物を夢中で腕に抱え、奈枝はわんわんと泣いた。

 平たい着物に顔を埋め、肺一杯まで樟脳の匂いを染みわたらせる。おかあさん、おとうさん、ばあちゃん、じいちゃん。

 世の中の不条理さには、慣れたつもりでいた。けれども、どうしてこんなに早く……。




 ようやく鼻をすする音が落ち着いたころには、すっかり日も落ちていた。

 納戸には窓がない。開け放っていたドアから差し込む、わずかばかりの廊下のあかりでは、心許なく感じる。

 奈枝はしわくちゃになった着物をひとまず床に置き、開きっぱなしだった和箪笥を閉めようと立ち上がる。真っ暗な中では己の感覚だけが頼りだった。


 観音開きの扉の中にある引き出しを閉め、違和感を感じる。この棚、これほど軽かっただろうか。

 古い引き出しは、得てして開閉しにくい。開けた時の半分程度の力で閉まった引き出しを、奈枝はもう一度開いた。やはり軽い。

 中身、全部出しちゃったっけ?

 不思議に思った奈枝が引き出しの中に手をやった。すると、あると思っていた底がなく、ガクンと体が傾く。


「え、え、え!?」


 バランスを崩した奈枝は、そのまま和箪笥の引き出しの中に吸い込まれていった――




***




 腹が空いた。

 セイクリッドは地に伏したまま、そう思った。


 貧困街にはままあることだが、セイクリッドは、母と子二人きりで育った。

 母が連れ込む男は週ごとに変わったが、それでおまんまを食わせてもらっていることは、セイクリッドも幼いながらに理解していた。

 「セイクリッド」などと言う大業な名前を持つことは、彼を酷く恥ずかしい思いにさせたが、その名を歌いながら呼ぶ母の声が好きだったので、一度もそれを伝えたことはなかった。


 ――セリー、セリッド、セイクリッド。私の大事な、可愛い坊や。


 その歌声を思い出せなくなって、もうどのくらいたっただろうか。たった6つしか生きていない小さな体でそう思った。

 その内に、おそらく母の声も、顔も、思い出せなくなっていくのだろう。


 セイクリッドの母は死んだ。幼いセイクリッドにはわからなかったが、男相手を仕事にする女には、ありふれた末路だと、看取ってくれた隣の家に住む足の悪い婆が言った。


 セイクリッドの母の死を何処で聞きつけたのかは知らないが、その十日後、およそ貧困街に相応しくない格好の男が、その身なりに相応しい馬車で現れた。

 セイクリッドによく似た面差しの彼は、母の連れ込んだ男が気まぐれに名乗る「父」という名称を持つ、セイクリッドの知らない男だった。


 生きる術を無くしたセイクリッドは、枯れ木のように細い婆の手で馬車に押し込められた。憎しみも戸惑いも、今一時、必死に生きたお母ちゃんのために忘れなさい。歯の抜けた婆が杖を突きながら、そう言って幼いセイクリッドを保護者に託した。


 しかし、セイクリッドの連れていかれた場所は、婆が想像した楽園とは程遠かった。


 「父」と名乗った男は、郊外に建てられたカントリーハウスに留まることがほとんどない。彼が連れてきた、窓がたくさんある四角い建物の中には、セイクリッドを虐げることに執念を燃やした残酷な兄と継母だけが残っていた。


 貧困街にいた時よりも、ずっと痩せ細った体で、セイクリッドはこの広い館の庭に打ち捨てられていた。先ほどまで、セイクリッドを麦俵と勘違いした兄が、彼に非道な暴力を与えていたのだ。

 下賤の者が持つに相応しくないと「セイクリッド」という名を嫌った兄は、彼を「セイ」と呼んだ。


 腐るほどの金と食べ物があるこの屋敷には、セイクリッドを支え続けた「愛」だけが届かなかった。


 温かい膝も、大好きな歌声も、枯れ木のような愛もない。

 白髪のように艶を無くしたセイクリッドの銀色の髪は、泥で汚れてくすんでいた。上質な葡萄のように深みのある美しい色の瞳も、今は濁り切っている。


 もう、1ミリだって体を動かす気になれない。このままここで、朽ち果ててしまえばいい。


 セイクリッドは投げやりにそう思った。

 もう、立ち上がる気力も、理由も、セイクリッドには残されていなかった。


 この家が代々守り続けてきたという、聖域――神々が宿る木の下で、聖なる加護セイクリッドの名を持つ少年は、そんなものないのだと笑いながら死んでやる。そう思いながら瞳を閉じた。


「わぎゃっ」


 そんな時だった。

 セイクリッドが、小さな悲鳴を聞いたのは。


 随分と間抜けな声だった。

 そそっかしいメイドが迷い込んだのだろうと気にも留めなかった。兄と奥方様の命令に逆らえない使用人たちは、セイクリッドに手を差し伸べることは無い。彼を目にしたとしても、見てみぬふりをするだろう。セイクリッドはそのまま、微塵も動かずに地に突っ伏していた。


「ったぁ……なにこれ……寒っ! っていうか明るい……? なんで? それに……ここどこ……ん、え。子ども!?」


 予想外の声に、セイクリッドは固まった。動かないと思っていた指がピクリと動く。


「……外国人? 言葉通じるかな……僕、どうしたの? なんでこんな森に一人で……ねえ……意識ある?」

 僕、と呼びかけられたのが自分だと、セイクリッドが理解するまで少しの時間を要した。こんな風に、普通の子どものように接してくれる人間が、まだこの世にいたことに、震えるほどの衝撃を受ける。


「森じゃ、ねえ……」

「あ、通じた。大丈夫?」

 小走りで近づいてきたのが、足音でわかった。聞き慣れない声の持ち主は、セイクリッドの隣に膝をついてしゃがむ。

「どこか痛い? お父さんとお母さんは? 近くにいる?」

「誰も呼ぶな」

「呼ぶなって言われても……。具合が悪いんじゃないの?」


 館では顔を顰められる汚い言葉遣いにも、女は頓着しないようだった。しかし、セイクリッドの顔を覗き込んだ女はハッと息をのんだ。セイクリッドがあまりにも痩せていて、そして顔中に傷を作っていたからだろう。

 兄は周到で、父が帰宅する時にまで残るような傷は作らなかった。

 しかし、初対面の人間が言葉を無くす程度には、セイクリッドのお綺麗な顔を傷だらけにすることに余念がなかったからだ。


「とりあえず、座れる? どこが痛いの?」

 痛ましいセイクリッドの姿に、女は憐憫の光りを瞳に載せる。そして、小さな体を支えようと身を乗り出した。

 セイクリッドは舌打ちしたい気分だった。

 初対面の女にこんなことを伝えるのは、幼いセイクリッドが持つ、不釣り合いなほどの高い矜持が許したくなかったのだ。


「……腹が減ってただけだ」


 その言葉に、女がセイクリッドに触れようとしていた手を引っ込める。

 セイクリッドは、その事に思いのほかショックを感じた。


 セイクリッドの心を打ち付けた事など、露程も知らない女は、慌てて自らの体をさすり始めた。セイクリッドは潰れた目を少しだけ開く。見慣れぬ女は、黒い服を着ていた。上から下まで、全身真っ黒だ。驚くことに、靴も履いておらず、足は透けた黒い布で覆われているだけだった。


 不思議な格好をしている女だ。セイクリッドは女を観察し続けた。女は自らの尻のあたりを撫でたかと思うと、ほっと息をつく。

 黒い服に手を沈め、引き出す。女の手は、何かを握っていた。


「斎場で飴、貰っておいてよかった――。はい、これあげる。こんなんじゃ腹の足しにもならないだろうけど……」

 そう言って女は、太陽の光にキラキラと輝く銀色の塊を差し出してきた。


 驚いて目を見張るセイクリッドを抱きかかえ、座らせると、女は銀色の塊を破いた。どうやら包みだったようだ。

 さらに驚いているセイクリッドに気付かないのか、女は包みの中から、コロンとオレンジ色の宝石を取り出した。


 あれは、宝石を包むものだったのか。

 屋敷に引き取られたとはいえ、高価なものに触れ慣れていないセイクリッドはそう結論付けた。貧困街ではもちろん、この屋敷の何処をみても、あんな包み紙は見たことがなかったためだ。

 透明なオレンジ色の宝石は、陽に輝いていた。女がそれを、セイクリッドの口元へ寄せる。


「ほら、食べて」

 宝石を? そんな高価なものを、見ず知らずの行き倒れの少年に恵む、いき過ぎた慈愛に不信感を抱く。

 更に、金に換えてパンを買うのならともかく……食えときた。セイクリッドはどれだけ空腹でも、幻想に縋って石を噛むような趣味はない。


「大丈夫だよ、ゆっくり舐めるだけなら、傷も痛まないだろうから」

 そう告げると、女はセイクリッドの口に宝石をねじ込んだ。慌てて吐き出そうとしたセイクリッドは、驚きに三度体の動きを止めた。


 甘い、そして爽やかな、芳醇な香りがセイクリッドの口に広がった。

 それは決して、肉に齧り付いたような満足感ではない。セイクリッドの小さくなった胃でさえ、満たすことはできないほどの僅かな食べ応え。


 けれど、美味しかった。


 この屋敷に来てから、振る舞われたどんなご馳走よりも、口の中の甘やかさは、格別だった。

 屋敷でどんな食事を出されても、胃がひっくり返るほどの不快感を持った。屋敷の者の軽蔑の視線はもちろん、純粋な憐憫だって、払い除けたいほど不愉快でしかないはずだった。なのに。


 大地を潤す雨のように慈悲を与えたこの人は、きっとセイクリッドの素性を知らないのだろう。

 だが、そんなことはどちらでもよかった。知っていても、知らなくても、彼女は迷うことなく、倒れた子どもに救いの手を差し伸べた。昔話に出てくる、聖女のように。


 天上の露とはこのようなものなのか。信じたこともない女神を崇めたくなるような、至福の味だった。


「ふ……、くっ……」


 突然、嗚咽をかみ殺しながら、ぽとぽとと涙を溢し始めたセイクリッドを見て、女は大層慌てた。セイクリッドの頬に張り付いていた血が、涙で流れる。

「どうした、もしかして口の中も切ってたの? 痛かった?」

 女がセイクリッドを支えながら、その小さな頭をそっと撫でた。セイクリッドは、意地と恥を捨て、首を横に振った。


 生きる力の沸く、味だった。これほど幸せは、もう長い間ずっと、感じたことがなかった。

 ――セリー、セリッド、セイクリッド。私の大事な、可愛い坊や。

 あれほど思い出せなかった愛の歌が、自然と思い浮かぶ。母のとろけるような、愛に満ちた笑みも。


「よしよし。痛いの痛いの、飛んでいけー」

 女がセイクリッドの頭を撫でながら、呪文を唱える。セイクリッドのささくれていた心に溶け込むように染みた。


 こんなにも、簡単に。愛は手に届いたのだ。

 人から背を向け、好意を受け取らなかったのが自分だった。憐れみなんていらないと、馬鹿みたいな自尊心だけが大きくて。受け取ってしまえば、自分の中の母親が少しずつ切り刻まれるような気がして。


 なのに、人の好意を受け取った時、頭に思い浮かんだのは優しい母の笑みと歌声だった。


 母は何も、禁じてなどいなかったのに。

 向き合うことから逃げていたのは自分だと、セイクリッドは初めて気づいた。


「うめえ……」


 絞り出した声は、涙に濡れていた。その声を聞いた女が、ほっと力を抜いたのをセイクリッドは感じた。

 女はセイクリッドの頭を何度か撫でると、セイクリッドを木に寄りかからせた。薄目で見た女は、なぜかセイクリッドと同じほど目を腫らせていたことに気付く。


「よし、お姉ちゃんが食べ物持ってきたげる。ここで、いい子に待ってて」


 行かないでほしい、もう少し傍で頭を撫でていてほしい。と言うには、セイクリッドはやはり気位が高すぎた。意地で弱音を飲み込んだセイクリッドは、小さくこくんと頷く。


「人にはばれないほうがいいのね?」

 もう一度、こくんと頷く。


「わかった。じゃあ、ちょっと待っててね」


 そう言って女は、神聖な大木の方へと走って行った。


 そしてその後――セイクリッドがどれだけ待っても、女が訪れることはなかった。






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