パンはパンでも物思うパン
路傍にひときれの食パンが落ちていた。歩道の曲がり角、丁字路の股ぐらに。
半分ほどかじられている食パンの、そのアスファルトの舗装路に荒々しく飛び散ったアプリコット・ジャムは乾いた動物の血糊にも見えて、それを見た者になにやらここで事故が起きたのだというような印象を想像させる。
食パンが路傍に落ちる少し前、すなわち食パンがまだ商品としてビニールの袋におさまっていたころ、其れはその家の女主人の分厚い手に取られて銀色のトースターに入れられた。
食パンはこの家に買われた食パン中最後の一枚であったから、これまでに袋から取り出されてこの鉄のトースターに焼かれた五枚の食パンたちよりも長く考えを巡らせることができた。
食パンは、製パン工場で一斤のパンから六枚に切り分けられた時から食パンとしての生が始まる。およそほとんどの食パンが「人間に食べられる」という使命をもって焼かれ、なにかを塗られ、そしてなにかを乗せられ、または挟まれる。そうして最後には誰かの空腹を満たす。それが食パンが求めうる幸福であるといえよう。
至近から高温で熱され身を焦がしながら、この食パンもまた、其れがそうあるべき形へと変化してゆく。
ところでこの食パン、女主人が食べるものではなかった。亭主は朝早くから家を立ち、この家の一人娘、小学校高学年ながらまだ幼気のある少女が一向に起きてこない。
トースターがチンと鳴って食パンを排出して、其れの上面にアプリコット・ジャムがたっぷり塗られて、ようやく母親は早く出てきなさいと少女を急き立てた。
ほどなくして少女は食卓へ降りてきた。まぶたを重たそうにして、部屋の照明が眩しいのか時折手の甲でこすりながら目をぱちぱちさせている。食パンの横に置かれた花柄のコップに牛乳が注がれた。
テレビの方を向きながら、少女はその口よりも幅の大きな食パンに真ん中からかじりついた。食パンの生地が焼けた香ばしいにおいと、アプリコット・ジャムの甘酸っぱい味が混ざり合う。少女は幾度と無く経験済みの普遍的な日常の味だが、これが食パンにとっては「食べられる」初体験である。
トースターに焼かれ、ジャムを塗られ、そうして飾られた一枚の食パンとして少女の空腹を満たす。同じ一斤のパンから分かたれた食パンどうし、これよりも先に食べられた五枚の食パンたちも思うところは同じ。この後は少女の胃で溶かされ、腸あたりで養分として吸収されていくのだろうか。たいていの食パンはそんなことを思いながら意識を散らしていくところだった。
だが今日は、どうしたことか少女の咀嚼するスピードが遅い。これは食パンが知る限り、前例の無い異常な状況であった。
もそ、もそ、と食パンをかじり、ちびちびと牛乳を口に含む。テレビは今日のニュースを流していて、決して年端もいかない少女が見ていて面白い内容ではない。倦怠感、そうなにかそのような気の抜けた思考が少女を支配していることを、かじられながら食パンは感じていた。
異常を察知した母親は、少女に警告する。
「はやく食べなさい」
「うん」
やはり気のない返事をして、少女はまたもそ、もそと食パンを食べる。
「早くしないと学校遅れるよ」
「うん」
もそ、もそ。警告されつつも、少女は食を進める気配がない。わざとそうしていることはもはや明白であった。少女は遅滞作戦で学校には行きたくないという意志を暗に示している。寝坊して、徒歩で向かう時間がないから車に乗せてくれという要求とは明らかに行動が異なるからだ。
「学校でなにか嫌なことでもあったの?」
少女は小さく首を振った。
「勉強がイヤ?」
それにも首を振った。それではいったい、何が不満なのか。母親は嘆息した。
「あのさ……」
「もう、ほっといて!」
と、いきなり少女は食パンを口に咥えたまま勢い良く食卓を飛び出した。それまでの少女のゆっくりとした動きに気を許していた母親があっと驚く間もなく少女は玄関まで駆け出し、玄関の扉を開けて家から脱走した。突然の出来事に面食らったのは、食パンもまた同じであった。
食パンは、まったく思わぬ形で外の世界を目にした。其れらは基本的に工場の中か、人間の家の一室以外に世界を見ることがない。実体験として外の世界を目の当たりにすることのなかった食パンにとって、それは何もかもが異質の空間であった。
食パンは空気の流れが風となることを知らなかったし、毎朝外から聞こえてくる音の正体を知らなかった。それらはすなわち小鳥の鳴き声であったり、車の走行音であったりするのだが、実物を理解してはいなかった。今や自棄を起こして喉に詰まりそうなほど勢い良く食パンにかじりつく少女がこれほどの驚きに満ちた世界を駆け抜けていることに、食パンはおだやかならぬ興奮を覚えていた。
食パンは、人間を活動させるエネルギー源にはなれるかもしれないが、人間にはなれない。その当たり前のような事実が、改めて食パンに、おのれが食べ物であることの誇りを思い出させた。まだ完全に消化されたわけではないから今歩道をひた走る少女の栄養分になれたわけではない。しかしこの少女は、確かに今までに食べた食パンのエネルギー、食パンに塗られたバターやジャム、食パンに挟まったハムやタマゴの栄養素で走っている。もしも食パンに耳だけでなく目があったなら、其れは猛烈な感動に涙していたところだっただろう。
少女は推定速度で時速五~六キロ、脇目もふらず全速力で丁字路を左横に抜けた。
「わっ」
そこで少女と、向かい側からほぼ同じ速度で走っていた少年とが正面衝突したのである。
「ぐっ」
少女は衝撃で口に咥えていた食パンを噛みちぎり、すでに半分ほどかじられていた食パンは歯による支えを失って中空を舞った。
落下する食パンは「落としたトースト」の法則に従い、アプリコット・ジャムの塗られた面を下にしてアスファルトの歩道に着地する。食パンの可食性が著しく損なわれた。
「た、タカノ? 大丈夫か」
先に起き上がった少年が少女ことタカノを引き起こした。
「は? あんた、何しに来たのよ」引き起こされながら、タカノは自分のことを棚に上げて言った。「学校はどうしたのよ」
「おまえ、遅いから」胸の高鳴りを抑えようと荒々しく息をつきながら、少年は小さく言った。「おれのことで、気分悪くしたなら、謝る」頭を下げた。
「うぅ……ああ、もう。ばか」
タカノは自分の思い描いていたシナリオをかき乱された気持ちで頭をかきむしると、いきなり少年の手首を掴んで引っ張った。今度は少年が驚く。
「おい……!」
「忘れ物、したから」それから今思い出したように顔を赤くして、「……まだ着替えてないし」ジャージのままだった。
有無を言わさず、タカノは少年の手を引いて自宅へと戻っていく。
地に落ちた食パンは、その一部始終を見ていた。着替えたタカノと少年が、ともに手をとりあって学校へと行く様を。これまでの食パンが見ることの叶わなかった、人間の食べる喜び以外でする笑顔を見たのだ。
あの笑顔を作るのは、彼女に食べられた側の其の食パンであり、これからも彼女の家の食卓に並ぶ食パンたちのエネルギーが生み出してゆくものだ、と。
そして今や地に落ちた物思う食パンは、まったく不幸ではなかった。食パンを食べるのは、なにも人間だけではないからである。
まず黒蟻が先陣を切った。