4-40 廃工場の攻防-終
黄泉路の怒声を契機にしたように、鋼鉄の空が二人をひき潰した直後。
痛みを感じないはずの黄泉路の胸の奥、体の芯の部分がズキリと痛んだのも束の間、轟音と共に黄泉路の意識は一瞬途絶える。
「(……早く、起きなきゃ……目を、状況の確認を――)」
普段にもまして、すぐに直さなければ、起き上がらなければという黄泉路の意思に呼応するように、毀れ出た血液は塵のように霧散し、折れた骨や裂けた肉もたちどころに修復されてゆく。
身体が急速に再生される感覚とともに意識が鮮明になった黄泉路はすぐさま状況の把握に努めようと体を起こしかけるも、上半身ごと鉄骨の下敷きになったらしく、身じろぎをするものの、ミシリ、と、身体が軋むような音が響くのみであった。
「う、く……これじゃ、身動きが……」
髪を伝い、顔にかかる水がひどく鬱陶しくて、幾度も瞬きをしながら体に力を込める。
どうやら廃工場はしっかりと崩落したようで、冷たい雨が髪を濡らし、重く湿ったジャージが更に水分を集めていた。
まずはどのように体が挟まってしまっているのかを把握しなければと、一瞬身動きを止めた時だった。
「――ゥ、ぐ……」
黄泉路の耳に、獣の唸り声のようなうめきが聞こえた。
「……ぐ、ぎッ!!」
忘れもしない声に、まだあの男が生きている事を確信した黄泉路が力任せに自身の上にのしかかった瓦礫の山を忘れたように、音源の方へと体を這わせようとし、衝撃で再び鉄骨が重く黄泉路に覆いかぶさる。
圧迫されて空気が、肋骨がどこかへ刺さったような痛みと、目の前が朦朧とする酸欠感に見舞われながらも、黄泉路は自身の瓦礫よりも先に、目の前の廃材を除けようと、唯一無事かつ、ある程度自由に動かせる右腕を伸ばす。
「う……ああぁぁッ!」
力任せに動かした右腕が悲鳴をあげ、人差し指と中指の爪がはげるのもお構いなしに、悲鳴じみたうなりとともに瓦礫が脇へとどけられ、腕一本分が通るだけの隙間が出来上がる。
僅かな隙間から覗くその先に、黄泉路の予想通り、男の顔が有った。
黄泉路同様体は完全に瓦礫に埋まっているものの、顔には大きな痣がある程度で、今にも意識を取り戻してしまいそうな様子に黄泉路の額に嫌な汗が流れる。
「く、そ……ッ」
予想は出来ていた事だった。
黄泉路が廻を救出するために男をおびき寄せて奇襲を仕掛けた際、頭上からの一撃で意識を奪う事すらできなかった男の頑丈さを考えれば、建物一つを自由崩落させた程度で殺せるほど、簡単だとはとてもではないが言えない。
だからこそ、黄泉路は早急に、男が立ち直る前にけりをつける必要があったのだ。
穴を広げ、視界を確保し、男へと手を伸ばす。
先ほどの戦闘で更に分った事だ。
あの男の頑丈さ、屈強さはいうまでもない。だがそれは、筋肉に守られている所のみの話であり、薄い皮一枚で守られた、目という急所だけは、強化できないという事実。
手を伸ばせば、黄泉路の指は男の眼に届く。目をえぐって、脳を壊せば、黄泉路の知る人間の定義で、生きていられる者は居ない。
鉄骨に押しつぶされた状態で再生した自らの体を、必死に動かす。
「あ、と……少しなのに……ッ!」
あと少し。
伸ばされた右腕の先、拳二つ分ほど離れた位置に見える男の顔が、今の黄泉路にはとても遠いように思えてしまう。
「(何か、何か手は――)」
焦燥を煽るように雨粒が顔に掛かる。滲んだ視界が状況の把握を困難にさせ、男がいつ目覚めるかという恐怖が黄泉路の心に絡みつく。
「く、ぅ……!!」
ほんの数十センチもない物理的な距離が酷く遠く感じ、時間は瞬く間に過ぎていく様だった。
空洞の先、男の目蓋がピクリと動く。
「(マズい……っ!)」
「ぐ、ァ……クッソ……どうなッてやが――」
男が目を覚ました。
その事実が、黄泉路の目の前に重く、暗く覆いかぶさるようであった。
「くっ……!」
「その声、クソガキか!! どうなってやがるチクショウ!!!」
男の周りで、廃材がギシギシと軋む音が響く。
その音はまるで、廃材たちが必死に男を押し止めようとしているかのようで、その時間も、あとわずかである事を黄泉路に伝えているような錯覚に、黄泉路の焦燥は加速してゆく。
「(何か……アイツにとどめをさせる、武器が――ッ!!)」
――こぉぉん……。
伸ばされた黄泉路の指先に触れて、軽く、空洞に響くような硬質な音が転がる。
筒状の金属の塊が、黄泉路の指にはじかれて瓦礫の上を泳ぐ。
それは、黄泉路が始めて男に有効打を与えた物と同じものだった。
黄泉路はすぐさま、鉄パイプへ向けて指を伸ばす。
「ぐ、ううううっ」
「なんだ、何しようとしてやがる、くそッ、みえねェ、ガァアアァ!!!」
ギ、ギィ、ギイィイィ!!
半ば勘のような危機感を覚えた男が暴れ、つぶれた廃材が、折れた梁が、崩れた天井が悲鳴を上げる。
徐々に持ち上がりつつあるそれらに黄泉路は恐怖を感じるも、ふと、胸の圧迫が薄らぐのを感じて僅かに手が止まる。
「こ、れは――」
黄泉路が自身の体へと目を向ければ、男の抵抗によって持ち上がった瓦礫が連動して黄泉路の体を押しつぶしていた部分までをも引き上げ始めていた。
これならいける、そう確信した黄泉路は残る下半身を引きちぎるように両腕を這わせて前進し、鉄骨の刺さった足の皮膚や筋肉が裂ける痛みに耐えながら鉄パイプへと手を伸ばす。
「「――ッ!」」
黄泉路の手が鉄パイプの冷たく丸い感触をつかんだのと、雨粒が入り込んだ事で汚れが落ち、男の眼が再び開かれたのは、同時のことであった。
「う、ぁあああああああああぁぁぁぁあ!!!!!!」
「うおおおおおッ!?」
目が合うよりも早く、黄泉路は腕を振るう。
黄泉路が反射的に放った力任せの、何の技術も宿っていない純粋な暴力としての突きが、咄嗟に回避しようにも首から下を生き埋めにされていた男の右眼をえぐった。
「ウアガアァァアアァアァァアァァアッ!!!!!」
「はぁ、はぁはぁ……ッ、こ、れで……終わりだ!!!!」
「ごひュ……ッ……ッ――」
男の眼を突き刺した鉄パイプ、その握った手をぐるりと回すと、まるで電源を切ったかのように、男の頭がびくりと痙攣して、力を失って地面へと転がる。
「やっ――か、はっ……」
安堵の声を上げようとした黄泉路の体を、再び重力に従ってひき潰そうとする瓦礫が圧迫し、口から血が溢れる。
男の強靭な肉体によって支えられていた分の瓦礫までもが、男にトドメを刺した事でその支えを失って、男の亡骸を諸共に黄泉路を押しつぶしたのだ。
「(……でも、これで……)」
ようやく、男に止めを刺した安堵から、黄泉路の意識は闇へと沈んでいった。