4-38 廃工場の攻防4
見る見るうちに狭まってゆく梁という名の選択肢を、文字通りの綱渡りで黄泉路は駆ける。
「オラオラァ!! どんどん足場が無くなってくぜェおい!?」
床に据え置かれていたはずの機材が、資材が、次々と宙を舞う。
梁を貫き、なおも勢いの衰えないプレス機の一部が天井を突き抜けて外へと投げ出される。
屋外に落下した音を聞く間もなく続けざまに投擲された、何の部品ともつかない鋼鉄の塊を避けながら黄泉路は視線を目まぐるしく工場内へと走らせていた。
その間にも次々に投擲される機材を前に、重力が逆を向いているのではと錯覚してしまう。
背に冷たい汗が伝うのを感じながらも、黄泉路は短い時間の中で判断と直感によって足場を跳びまわる。
しかし、それも長くは続かない事を、他ならぬ黄泉路自身がよく理解できてしまっていた。
何せ、始めは見渡す限り走り回るに困らないほどの足場であったはずの梁は今や見る影もなく、男のなした猛攻の爪痕として突き開かれた天井からは明け始めた曇天から降り注ぐ大粒の雨が去来している。
黄泉路の目視できる範囲において、自身の身体能力で一息に飛び移れる足場は残す所6、7といった具合。
男もそれに気づいているのだろう。下では男が残りの資材を物色しつつ、明らかに、足場を失い、下へと戻らざるを得なくなった黄泉路を狙うに相応しい得物を探していた。
王手の見えた詰め将棋。黄泉路は知らずの内に喉を鳴らしながら、残された梁と男の挙動を観察するように視線を行き来させ、男の意識が資材の方へと向けられた一瞬を見計らって足に力をこめる。
「――はァ! 掛かッたな!!!」
「ッ!?」
得物を掴もうと、黄泉路から僅かに向きを逸らしていた男。
その逆の手に握られていた自動加工用のアームが、身体の向きを戻す遠心力と、男の驚異的な膂力を乗せて、飛び移る最中、宙に浮いた黄泉路へと飛来する。
「ぅ、ぎっ……!」
プロの野球選手でもそこまでの速度を出すのは至難であろうとまで思えるような速度で不規則な回転を加えられて飛来する、自身の上半身ほどの長さもあるような金属の塊を、寄る辺の無い空中で往なすだけの技量は――黄泉路にはない。
辛うじて無防備に受けることだけは避けられた物の、咄嗟に庇ってしまった両腕の骨が砕け、殺しきれなかった衝撃が肋骨を抉った。
如何に損傷に強くとも、肺を強打されれば空気は抜け、息苦しさから身体の動きは鈍る。
加えて、決して太くも無い梁へと狙い澄まして飛び移ろうとした最中の衝撃は、黄泉路の体勢を崩すには十分すぎた。
「はッはァ! クリーンヒットだッ!」
血が滴る口元を引き絞り、得意気な顔をして、落下地点を狙い澄まして拳を構える男を睨む。
「そ、うは……いくかっ!!!」
腕を粉砕し、胸を押しつぶしたアームを、黄泉路は再生途中の手で掴んで振りかぶる。
逃げ場の無い中空、如何に足場がなく踏ん張りようもないとはいえ、着地を考えないのであれば、下へと向けて物を投げる位の事は黄泉路の運動神経であっても問題はない。
それを証明するように、落下による重力と、黄泉路の膂力によって男の予想を超える速度で意趣返しのように投擲されたアームに、男は咄嗟に黄泉路を打ち据えるために構えていた拳で迎撃せざるを得なかった。
「ちィッ!! しャらくせェ!!」
飛来するアームを砕くこと自体、男にとっては容易い行為であった。しかし、振りぬいて伸びきってしまっていた腕を戻すには、この短い攻防においては圧倒的に時間が足りない。
男が腕を引き絞るよりも早く、上半身から落ちてくる黄泉路の腕が男の腕を掴み、指先が男の腕に食い込む。
「ッ、て、めェ!」
際限なく発揮される握力によって、黄泉路自身の指が砕けた。
砕ける最中であっても最善の状態へと修復される指先が、鋼鉄の塊と遜色のない筋肉の塊ともいえる男の腕に血を滲ませる。
しかし、黄泉路の狙いはそれではない。
「ッ!?」
曲芸の様に、しかし、曲芸士の様に洗練された動きではなく、ただの身体能力に物を言わせた無理筋の身体運びでもって、痛みと驚きによって僅かに硬直した男の腕の上で逆立ちの姿勢のまま身体を捻る。
「――くらえっ!」
捻った勢いを乗せた下肢、遠心力を伴った爪先が、男の顔面――眼を貫く。
「ぐ、ガアアアアアアアアァァアアッ!?」
予想外の痛みに眼を瞑り、力任せに腕を振り回して黄泉路を引き剥がそうと男が咆哮する。
「いくら強くなったとしても、さすがに生き物の急所まではカバーできなかったみたいですね」
振り回された腕から指を離し、男の肩を蹴って距離をとった黄泉路が、爪の間に挟まった男の血肉を血振りする様に手を振って、挑発する様に薄く嗤う。
「て、めェッ!!!! 殺す、絶対に殺すゥ!!!!!」
「何を今更。最初から殺すつもりじゃなかったんですか?」
「ガアアアアアアアアアッ!!!!!!!!!」
眼を潰された男が、黄泉路の挑発するような言葉を、音を頼りに力任せに腕を振り回して追いすがる。
命を懸けた目隠し鬼をかわしながら2歩、3歩と後ろへ、横へと跳び退る。
「そろそろ、終わりにしましょう」
廃工場の中央、一際大きな一本の支柱に背を預けた黄泉路が小さく深呼吸をして、男へと告げる。
「舐めるなよクソガキィ!!!!」
挑発とも取れる黄泉路の発言に、男は先ほどまでと同様に視界を奪われた激情のままに、先ほどまでと同じように声がする方へと走り出す。
男は気づかなかった。止め処なく動き回り、誘うように音を発していた黄泉路の音が、一箇所に留まっている事に。
振りかぶられた拳を見据え、黄泉路は口元を緩ませる。
正確に突き出された男の拳が黄泉路を――背を預けた、建物を支えていた最後の支柱ごと圧し折った。