4-36 化け猫の逡巡
九州地方某所。
日本の本土の南端に位置する、およそ人の手が入っているか疑わしくなるほどに生い茂った森林の中。
祭日の出店で見るような子供向けの愛らしいデフォルメがなされた猫の面をかぶった女性が、夜も深まっていると言うのに、なんの躊躇いもなく木々の枝葉の上を軽やかな足取りで跳び、伝ってゆく。
葉の擦れ合う音だけが足跡の様に揺らめいて溶ける。
やがて、自然の中にぽつんと存在するには不自然極まる白塗りの壁が遠く、十二分に距離が離れたという所で猫面の女性――狩野美花は太い枝にぴたりと音もなく着地した。
白塗りの壁――政府の非公開研究施設の方を一瞥し、施設が良く見える位置へと向かう為、再び高さへと木の枝を伝って移動する最中、ポケットの膨らみが小刻みに振動し始める。
一際背の高い樹の先端まで上り詰めると、器用に先端に足を置きながらポケットから携帯を取り出し、通話相手を確認もせずに指の動作だけで通話に応じる。
「ミケ姐さん。そろそろ良いか?」
「……問題ない」
「そんじゃ、仕上げと行きますかぁ!」
電話をかけてきた相手は、美花と良くペアを組む青年――カガリであった。
電話越しに陽気な声を響かせるカガリに端的に応え、通話が切れる音と共に美花は視線を施設の方へと向ける。
その直後、静まり返った森に似つかわしくない特大の火柱が立ち上り、一拍あけて悲鳴が響き渡った。
遠目からでもわかるほどの高さに立ち上った火の粉がパチパチと未明の空に爆ぜるのを、夜に慣れた目を眩しげに細め、地上から吹き上がる花火めいた光景に息を吐く。
「……相変わらず。派手ね」
警備員に支給される銃火器の保管庫辺りにでも火をつけたのだろうとあたりをつけるながら、美花は呆れ混じりに呟いた。
やがて炎も落ち着き、それと同時に怒声や悲鳴、銃声なども聞こえなくなった頃だった。
手に握ったままの携帯を操作して通話履歴からカガリへと通話をかけ、1コール、2コールと耳元に当てた携帯から流れる音を待ち、コール音が途切れたのを確認して口を開く。
「終わった?」
「おうよ。今からそっちに合流するんで、もうちょい待ってくれな」
簡単な確認作業が終われば、通話はどちらからともなく切られる。
沈黙した携帯電話をポケットへと戻しながら、美花は猫を思わせるしなやかな動作で高い樹から飛び降り、軽やかに地面に着地してカガリを待った。
暫しの時間が流れ、茂みを掻き分ける音が近づいてくるのを感知した美花は欠伸をかみ殺して音源の方へと歩き出す。
「うっす。お疲れ様」
「カガリもおつかれ」
カガリが片手を上げながらやれやれといった調子でやってくるのにあわせ、美花も片手をあげて応える。
互いのあげた手が宙で軽く打ち合い、乾いた音が響けば、依頼の終了を告げるように、二人を取り巻く空気が弛緩するのを認識していた。
カガリも美花も、どっぷりと裏社会に浸った人間ではあるが、だからこそ、オンオフはしっかりと区別をつけるべきだと考える人種である。
森を抜けるべく歩き出した美花の隣を、なれた調子でカガリが歩く。
暫しの無言の後、煙草を取り出したカガリを咎める様な目で一瞥する美花に、カガリは息を吐いて首を振る。
「あー。……そういや、あれから黄泉路とは会話してないのか?」
「……」
律儀に煙草を箱へと戻してポケットへ仕舞いながらも、未練がましく煙草の箱を持った自らの手を見ていたカガリは視線をはずしながら、自らの望みがかなえられなかったささやかな意趣返しとして問いかける。
「黄泉路のヤツ、悪い事したって落ち込んでたぞ」
「……分ってる」
「トラウマなのも判る。俺だって……未だに自分の起こす火以外にゃ近づけねぇしな」
能力者とは、世間のはぐれ者である。
身に宿す能力が日常から逸脱していればいるほど、そうした排斥の波は大波となって彼らへと押し寄せるのだ。
それ故美花は、人前で能力を使う事を嫌う。
それは美花が24年という自らの歳月をかけて学んだ処世術であった。
「まだ、黄泉路は仲間じゃないか?」
「――そんなこと、ない」
「ならどうしてだ?」
「それは……」
責める様な調子ではない物の、お互いにとって居心地のいい話ではない。
だが、こういう時でもなければ腹を割って話し合う時間などないと理解しているからこそ、はじめは意趣返しであったものの、カガリに追及を止めるつもりはなかった。
今は黄泉路とて夜鷹の一員なのだ。カガリにとってそれは家族でもあり、友人でもある。その間柄がギクシャクするのは、カガリとしては面白くない。
答えあぐねているというよりは、自身の内側を整理している様子の美花を、カガリは黙って待つ。
その間、頭をよぎるのは話に上った、この場に居ない少年の事。
外見からして、まだ15、6といった具合の、大人と呼ぶには程遠い、吹けば消えてしまいそうな儚い印象を与える少年。
その少年が、4年にも渡って監禁され、その身を数多の苦痛と悲劇が蹂躙したにも拘らず、黄泉路という少年は、笑うのだ。
それがどれだけ強く、勇敢な事か。その笑顔を、少しでも支えてやりたいと、カガリは素直にそう思う。
夜鷹が自身の居場所足りえたように。黄泉路にとっても、夜鷹が、自然に笑える場所であってほしい。
そう思うからこそ、カガリは努めて黄泉路を依頼に関わらせないようにしてきたし、戦い方を教えるのも、万が一にも黄泉路に政府の手が伸びた場合、独力で身を守る術があればと思うからこそであった。
「……私は」
やがて、ぽつりと口を開いた美花の声に呼応して、カガリは思考を目の前に引き戻す。
「誰かに能力を見られるのが怖い。仲良くなりたいと思う人であればあるほど、拒絶されたらどうしようって、足が竦む」
「……」
「黄泉路が悪い訳じゃない。私の問題。謝らなきゃって思ってた。けど、どう言おうかって、迷って、そのまま」
静かに息を吐き出しながら、白状する美花に、カガリは小さく苦笑する。
「んじゃ、帰ったら謝ってやれ。なんなら俺も立ち会うか?」
茶化すような言い回しだが、それも空気を軽くする為に言ってくれているのだと理解している美花も、ゆるゆると首を振って苦笑を返す。
「いい。私と黄泉路の問題だから。帰ったらちゃんと謝る」
お互いにベストな着地点へと会話が落ち着いたところで、カガリの携帯が小刻みに震えだす。
カガリは着信を確認して美花のほうへと視線を向ける。
「皆見さんからだ」
無言で出るように促す美花に、カガリは小さく頷いて通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。
「こっちは今終わった所です。どうしたんすか? こんな明け方に」
「カガリさん、狩野さんもそこにいるのよね!?」
「あ、ああ。えらく焦ってる様子だけど、何かあった?」
稀に見る剣幕でまくし立てる皆見に、カガリは戸惑いながらも先を促す。
「黄泉路君が依頼先で襲われてるの! 救援を出したいけど、今すぐ動ける人がいなくて――」
皆見の口から吐き出された言葉を聴いた途端、カガリの表情は一変する。
カガリが隣を見れば、その鋭い聴覚でもって電話の音声を聞き取っていた美花も、既に表情を硬くして、弛緩した空気が引き絞るように鋭くなっていた。
「すぐ戻ります」
それだけ口にして、美花とカガリは未だ暗い森の中を駆け出した。