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4-35 兎と子猫

 なおも降り止む気配のない雨の中。

 寝巻き姿を雨に濡らし、素足で駆ける少年の姿があった。

 足の裏が擦りむけ、痛みに歯を食いしばりながら走る少年の姿を見れば、誰であっても何事かと意識を向けざるを得ないだけの鬼気迫ったものであった。

 しかし、時刻は未だ早朝にさしかかる手前である。加えて豪雨の中とあっては、起床したばかりの人間の目にも留まる事はない。

 息は上がり、度々足がもつれそうになる身体を気力と焦燥によってねじ伏せて駆けるその瞳には、目的を達さなければという強い意志が感じられた。


 「――はぁ、はぁ、はぁっ」


 荒く息を吐き出す為に開かれた口に大粒の雨が入り込むのを鬱陶しいと感じる余裕もなく、少年――朝軒廻は早朝の住宅街を走っていた。

 捕らわれていた廃工場からは遠く、既に黄泉路の声も、戦闘の音も聞こえなくなって久しい。

 それでも足を止めずに走り続けているのは、黄泉路に頼まれた自らの役目を果たす為だ。

 廻は、黄泉路があの男を打倒できるとは思っていない。

 だからこそ廻は走る。

 今まさに命を張って時間を稼いでくれている黄泉路を助ける為に。

 しかし、所詮は中学にも上がらない子供の身体。工場から住宅街へとノンストップで走ってくるだけで、既に体力に衰えが見え始めていた。

 道を曲がろうとした瞬間、直線を走るだけならばまだなんとかなっていた足がもつれ、盛大にバランスが崩れる。


 「はぁ、はぁ……ぁ、うっ!?」


 ついにといった具合に前のめりに転び、すんでのところで腕で顔を庇った廻は、擦りむいた腕の痛みに思わず声を上げてしまう。

 それでも、倒れこんでいる暇も惜しいという風に立ち上がり、廻は再びよろよろと走り出す。

 走りながら、廻は痛みをごまかす為に思考を別へと向ける。


 「(――この町にきてから……こんな風に外をいっぱい走ったのって初めてかもしれない)」


 慣れたと思っていた町並みが、こうも広く、複雑であった事。

 その事実に驚きを感じるとともに、目的地に着実に近づいているという実感に、あと少しだと自身に活を入れて足を前へ、前へと向ける。

 幾度目かの通りを曲がった後、住宅街の中にぽつんと佇む住居と店舗が合体したような、廻からすれば一週回って目新しい佇まいの古めかしい商店が見えた。

 さすがにまだ店を開けている時間でもなく、シャッターが閉まったままの店舗の前へとたどり着いた廻は、肩で息をしながら看板を見上げる。


 【駄菓子屋笹井】


 記されている看板の文字に安堵を抱き、目に入り込む雨粒で滲む視界を晴らそうと何度か瞬きをする。

 しかし、すぐにそれどころではないとシャッター前に張り付き、何度も何度も硬くつめたい金属の帳に手を打ち付けて呼びかけた。


 「すみません! だれか、誰かいませんか!!!」


 これだけの大声を張り上げる事も久しく、走ってきた事もあって喉が張り裂けそうだと廻は思った。

 その間もシャッターを強く叩き、その度にビリビリと手が痺れる様な感覚に苛まれる。

 長い事雨に打たれ体温が奪われていたおかげで痛覚が鈍っていた事が幸いであったかどうかは判断が分かれる所ではあろうが、この時ばかりは気力さえ持てば戸を叩いて助けを乞える事に廻は感謝していただろう。

 やがて、何度目かのノックと呼びかけの後。降り注いでいた雨がふいに止んだ。


 「――?」


 それと同時に降りてきた影に、廻は首だけを向けて何事かと後ろを確認する。

 真っ先に視界に映りこんだのは、ピンクを基調に、デフォルメされた白いウサギがプリントされたファンシーな傘。

 傘の骨をたどるように下へと視線を降ろしてゆけば、長く艶やかな黒髪。同色の藍色めいた瞳が廻を覗き込んでいた。


 「……よみにい、は?」

 「あ――なたは」


 その少女に廻は見覚えがあった。

 それは黄泉路と共に朝軒邸を訪れた少女であった。


 「よみにい、は?」


 人形めいた容姿をした、廻よりは年上だろう口下手な少女――神室城姫更の再びの問いに、廻はハッとなったように口を開く。


 「よ、黄泉路さんの助けを呼んでください!!」

 「……とりあえず、はいる」

 「え、あの――っ!?」


 困惑する廻を余所に、姫更は廻の手を握る。

 普段であればまた別のリアクションもあっただろうが、ここまで走り続けてきた疲労と唐突に現れた姫更に対する驚き、その両方によって廻の反応がワンテンポ遅れた。

 廻が握られたと思った瞬間には、視界がぐわんと歪み、気がつけば廻は見知らぬ部屋の中に立っていた。


 「あ、え……え?」

 「からだ。ふく。風邪ひく、から」

 「あ、ありがとうございます……」


 呆然としている廻の隣、いつの間にやらタオルを手にした姫更が頭からタオルを被せて来るのを、姫更が現れてから何度目になるだろう驚きと共に受け入れるままに、廻はたどたどしく礼を口にする。

 からりと戸が開く音が聞こえ、廻はそちらへと視線を移してタオルの間から顔を覗かせると、そこにいたのは見知らぬ老人。

 老人、といっても、廻の祖父母よりは若いだろうが、廻からすればどちらも老齢と言って差し支えない程度には年を取っているように思えた。


 「――迎坂君が一緒じゃない、という事は、何かあったんだね?」


 祖父の巌夫とは違う、物腰からして柔らかな調子で、男性が問いかける。

 廻はハッとなって老人の元まで駆け寄ろうと、黄泉路に何があったのかを伝えようとして、思い切り足をもつれさせて転びかけてしまう。


 「ぁ――れ?」


 転んだ、という自覚をした時点で、衝撃に備えて目を瞑っていた廻。

 しかしいつまで経っても転んだ衝撃も痛みもない事に、恐る恐る眼を開けた。


 「だい、じょうぶ?」


 どうやら廻を迎えてくれた少女が咄嗟に支えてくれたらしく、年上の少女らしく、妙にお姉さんぶったような調子で頭をなでてくる姫更に、廻は困惑してしまう。

 困惑しながらも、廻は伝えなければと目の前の男性に意識が向けてたどたどしく口を開く。


 「あ、の、黄泉路さんが、工場で、それで、あの――」

 「大丈夫だよ、朝軒君。疲れただろう。よく頑張ったね。後は僕達に任せて、今はお休み」


 それは子供らしい、年の割りに成熟している廻にしては珍しく、纏まりのない言葉であった。

 しかし、それ故、差し迫った危機感に突き動かされている事を如実に表す廻の言葉に、老人――笹井は優しく廻を抱きとめて、あやすように言葉を重ねた。

 それほど時間が流れた訳でもないにも関わらず、暫く触れ合っていなかった様にすら思える心地よい温もりを感じてしまい、緊張がふっと和らぐ。

 子供である廻の身体は緊張の糸が途切れた瞬間、的確に休養を要求してくる。


 「姫更ちゃん、一度夜鷹に戻って皆見さんに連絡してくれるかい?」


 うつらうつらとしはじめた廻の意識の中、笹井の声がどこか遠くに聞こえ、包み込むような安心感に抗う事が出来ず、廻の意識は緩やかにまどろみの中へと落ちていった。

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