4-33 廃工場の攻防1
「離し――やがれッ!!!!」
男を行動不能にする事を主眼に置いたものではない拘束であった事が仇となり、男の両腕によって乱雑に投げ飛ばされる。
「ガ――ぁ!?」
奥に長く伸びた工場内の湿気と埃を孕んだ空気をかき混ぜ、黄泉路の体はカバーを掛けられた機材に叩き付けられた事で漸く止まり、人体が拉げる鈍い音と、錆びた金属が軋み合い歪む音が響く。
それらに混じって黄泉路の口元から嗚咽が吐き出され、衝突によって折れた肋骨が臓器に突き刺さった事で肺から押し出された空気と共に口元から少なくない量の鮮血があふれ出す。
「……ぅ、ぐっ」
「ッたく、ガキ1匹逃がしちまッたじャねェか。どうしてくれんだァ?」
黄泉路の内側が急速に変質し、折れた骨が、穴の開いた臓器が、打ち据えられた体は見る間に癒えて行く。
ほんの数秒と経たず、怪我自体は異常としか言いようのない速度によって跡形もなく消え去る。
「どうもこうも、僕の目的なんだから当然でしょう」
あえて機材を激しく叩きながら、自身が健在であることをアピールする様に立ち上がった黄泉路が悠然と告げる。
その内心は目まぐるしく、さきの奇襲の一撃で倒しきれなかったことに対する自身の詰めの甘さを後悔するのも束の間。すぐさま、男の注意を自身へとひきつけ廻を追わせない為にはどう立ち振る舞うべきかという思考へと切り替わる。
「ハッ。随分と余裕そうじャねェか」
「……しぶとさだけは自信があるよ」
「へェ」
ニィッ、と。男の口の端が釣り上がる。
その笑みと対峙し、黄泉路は悟る。目の前の男は、暴力を振るう事を、自身の持つ力のままに振舞うという行為を、心の底から楽しんでいるのだと。
「(この、人は――)」
男を収めた黄泉路の視界に、男の笑みと、朝軒の家で起された惨劇の光景が重なってフラッシュバックする。
朝軒夫妻が命を奪われなければならない謂れはない。
目の前の男の一時の自己耽溺の戯れの為に殺されたのだと悟った黄泉路の眼に、強い光が宿る。
――ころさなきゃ。
それは殺意。
黄泉路が初めて抱いた、被害者としてではなく、加害者としての明確な認識であった。
その身に受けた辛苦を凝縮した様な濃密な死の気配を孕ませた黄泉路の視線を真っ向から受けて尚、男は口の端を裂けんばかりに吊り上げ、凶暴に笑う。
「良いじャねェか……ゾクゾクするぜ。――アイツの言う通り、楽しめそうだ」
男の口から発せられた、楽しめそう、という言葉に、黄泉路は弾かれた様に床を蹴って男へと肉薄する。
「――もう、喋るなッ!」
内側がざわめく様な身体を突き動かす衝動に任せるまま、黄泉路は男にぶつかる数歩前までの数メートルを数歩で詰め、見上げるほどの巨躯へと跳躍する。
「ヒュゥ! いいじャねェか!!! やッぱりバトルッてのはこうじャねェとなァ!!!!!!」
宙で拳を握り締めた黄泉路を見上げ、嬉々とした咆哮を上げた男へ、黄泉路は自身の筋肉が軋む音を無視して拳を突き出す。
骨が砕け、肉が千切れる音が響き、黄泉路の腕に痺れが奔るが、男が反応を示すより早く、黄泉路は殴りつけた右拳を開いて男の頬へと添え、同じく握り締められていた左拳を振りぬいた。
「――かッ、あ?」
「ふっ!!!!」
側頭部を正確に狙い撃ち、なおかつ衝撃を逃さないようにあわせられた殴打。
いかに化け物染みた耐久度と筋力を誇っていようと脳を揺らされれば昏倒するという事実は、先の奇襲にて証明されていた事だ。
男がどんな能力を持っていても関係ない。
何かをされる前に昏倒させてしまう事が、黄泉路にできる最善手であった。
しかし――
「なんだァ?そりャ。遊んでんのか?」
「――ッ!?」
「パンチッてのはなァ……」
黄泉路の身体は未だ宙にあった。
重力に従い足が着くまでの数秒と無い無防備な鳩尾へと狙いを定め、男が拳を振り上げる。
「こうやんだよッ!!!!!!!!!」
「ぐ、ッ」
男の拳が深々と突き刺さり、黄泉路の身体は重力に逆らって宙を浮かぶ。
衝撃と共にこみ上げてくる嘔吐感に思わず男の頭から手を離した黄泉路の脇腹を、続けざまに放たれた拳が抉る。
「――かひゅッ!?」
勢いのままに吹き飛ばされると覚悟していた黄泉路の身体が強引に引き留められる。
男の手に掴まれた黄泉路の右腕は骨が折れ、筋も皮も引き千切れて破れながらも、繋がっただけの状態まで引き伸ばされたにも拘らず黄泉路の身体を宙へ繋ぎ止めてしまう。
宙を漂うような黄泉路の身体を、右腕を握りつぶしながら男は地面へと振り下ろす。
肉の塊がコンクリートに叩きつけられる鈍い音が響く。
くたりと倒れ伏した黄泉路の潰れた右腕を放しながら、男が吼えた。
「どうしたァ? 俺を殺すんじャなかッたのかァ!? あァ゛!!!」
「う、るさい……うるさい、うるさいっ!!!!!!」
男の啖呵に呼応するように、黄泉路は跳ね起きるように立ち上がる。
すかさず繰り出された男の左腕を身体を右にずらして受け流し、その勢いを利用するように男の腕へと自らの腕を絡めようと手を伸ばす。
ジャージの上からでも判るほどに原形をとどめなくなった腕が変容し、人の、少年の腕へと、定点観測を数倍速にしたような異様な再生速度でもって回復した腕が男の左腕に組み付き、そこを支点に身体を浮かせて飛び乗るように腕ひしぎ十字固めを敢行する。
無論、黄泉路に格闘技の知識はない。
あるのは人体はどう扱われれば破壊されるのかという実体験。ただその一点のみで、黄泉路は男に関節技を決める事を選んでいた。
「甘ェんだよ!!!!」
「――なっ!?」
ぎし、ぎし。みち……。
男の骨が軋む音が止まる。
代わり聞こえてくるのは、拘束を果たしているはずの黄泉路の膂力を上回って己が思うままに動こうとする男の腕の筋肉が隆起する音であった。
そのありえざる状況に黄泉路は思わず絶句してしまう。しかし、ここで拘束を解くという選択肢は存在しない。
力では抗しえない事は、これまでのわずかな時間の間でさえも十二分に理解できていた。
だからこその関節技であったはずが、それすらも上回る膂力を前に、黄泉路はできる限り時間をかけて膠着状態を維持する事が精一杯という有様に、黄泉路の意識は研ぎ澄まされてゆく。
無策で突撃した所で黄泉路が死ぬことはない。しかし、それではダメなのだ。
この化け物染みた男を仕留める為の策が要る。
直接打撃は言うに及ばず、関節技や脳を揺らす様な攻撃でさえも、その頑強な肉体ひとつで突破してくるこの男を斃す。
まるで出口の見えない迷宮の様な問いの中で、黄泉路自身も気づかぬうちに、冷たい思考が内側を徐々に満たし始めていた。