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4-32 時軒23

 男が開け放ったままの扉から中へと踏み込んだ黄泉路は、淀んだ埃っぽい空気に肺が詰まる様な印象を覚えた。

 違和感を払拭するように大きく息を吸い込んでから吐き出し、工場の内部へと視線をめぐらせる。

 既に廃棄された工場である為、引き払われず放置されたままの機材が固定されたままである事を除けば内部は閑散としており、2階の窓から覗き込んだ際に見つけた姿勢のままで縛られた廻の姿がすぐに目に飛び込んでくる。

 早足で駆け寄る体に雨を吸ったことでじっとりと張り付いたジャージが心地悪いものの、それを気にするだけの余裕が生まれたのだと考えればまだましであると黄泉路は不満を飲み込む。


 「廻君!」

 「黄泉路さんっ」


 黄泉路の声に反応し、拘束から抜け出す事に集中していた廻がばっと顔を上げる。

 その表情は驚きと嬉しさが半々といった様子であった。

 雨にぬれた顔にもはっきりと残る涙の跡に、黄泉路は早足で駆け寄って後ろ手に縛られた廻の拘束を解いてゆく。


 「……遅くなって、ごめん」


 赤紫色をした縄状の痕になってしまった手首をさする廻に、黄泉路は声をかける。

 許される事はない。だが、謝るべき事は謝らねばならない。

 そう理解していたからこそ、黄泉路は次の瞬間にも廻に罵倒されるであろうと覚悟し、ここ暫くの中でも指折りに入るであろう痛みを堪えるような心持で廻の言葉を待った。


 「――あの、黄泉路さん」

 「……」

 「助けてくれて、ありがとう、ございます」

 「……な、んで、僕が……僕がもっとしっかりしてれば――」


 なおも言い募ろうとする黄泉路に、廻は小さく首を振る。


 「言いっこなしです」


 これではどちらが子供なのかわからない。

 覚悟が突き崩され、ぽっかりと空いた空白の中で自身への罰として罵倒してほしかったのだという内心に気づき、黄泉路は恥じ入る様に自身の両頬を平手で挟むように叩く。

 じんじんと頬と手の平、両方に伝わる痛みが奔り、思わず目を瞑った黄泉路が再び目を開くと、廻が何事かという顔で見上げているところであった。


 「あ、の、黄泉路さん?」


 大丈夫か、というニュアンスの問いかけに、黄泉路は今度こそしっかりと廻の顔を見つめて頷いた。


 「うん。もう大丈夫だから。とにかく、ここから出よう」


 先ほど倒した男のほかにも仲間がいるかも知れず、たまたま一人で見張りをしていた可能性だってあるのだ。

 どちらにせよ、長居する事に利点などないと、廻の手を取ろうとしたその時だった。


 「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!!!!!」


 いまだ降り続く雨音を引き裂き、獣を思わせる怒声が響く。

 その雄叫びが誰のものであるか、すぐに悟った黄泉路は姿勢を低くし、廻と目線を合わせて諭すように口を開く。


 「――廻君。ひとつ頼みたい事があるんだけど」

 「……ぇ、あ……は、はい」


 目の前の脅威に怯えを隠せずにいた廻であったが、黄泉路の声で我に返り、たどたどしく頷く。


 「アイツは僕が引き付ける。だから、廻君は助けを呼んできて欲しいんだ」

 「で、でも――」

 「大丈夫。僕は死なない。それだけが取り柄だからね」


 廻の頭を撫でる様に手を置き、黄泉路は足音が近づいてきているのを背後に感じながらも念を押す様にじっと廻を見つめる。


 「“場所はわかるね?”」

 「……はい」


 黄泉路の黒い瞳に見据えられ、廻は混乱する頭を必死に働かせながらも、しっかりと頷いて見せたのだった。

 立ち上がった黄泉路が、すでに足音がすぐそこまで聞こえる入り口の方へと視線を向ければ、ちょうど、黄泉路が侵入する際に頭を打ち据えたはずの男が肩を大きく上下させながら現れるところであった。


 「やッてくれたじャねェかァ……クソガキィ……ッ」


 青筋が立つ、というのはこういう事をいうのだと、理解させるに十分な形相で飛び込んできた男に、黄泉路はごくりと喉を鳴らす。


 「――お前の相手は僕だ」

 「あァ゛?」


 足の筋が負荷に耐えられずに軋む音を立てながら、その体躯からは想像もつかない速度で肉迫した黄泉路が、見上げるほどの大きさの男に体当たりを仕掛ける。

 しかし、元々の体格差や重量、膂力の前に軽々と受け止められてしまう。

 入り口での攻防は不意打ちだったからこそ、そう理解するだけの力量差を即座に感じ取りながらも、黄泉路はその場に踏みとどまって男の胴に手を回す。


 「廻君! 行って!!!」


 黄泉路の声にハッとなり、呆気にとられていた廻が転びかけながら駆け出すと、男は組み付いたままの黄泉路の頭を邪魔そうに、虫でも払うかのように掴み――


 ゴキンッ。


 廻の駆ける足音、外で降り続く雨音の他に。鈍く痛々しい音が響いた。


 「俺の相手をする、だァ? 笑えるジョークだッたぜ」


 黄泉路の首を半回転させた男は、確かに殺したという経験からくる確信を持って、おそらくは目の前で行われた呆気ない幕切れに呆然としただろう廻がどんな表情をしているのか確かめてやろうと張り付いたままの黄泉路から目を離す。

 しかし、廻は止まらない。男の脇をすり抜けようと、なおも近づいてくるところであった。

 捨て身か、はたまた他に策があるのか。どちらとも判断をつける事のできなかった男はひとまず、文字通り捻り潰した黄泉路を引き剥がそうとして、違和感に気づく。


 「――な、んだァ!?」


 男が驚きの声を上げる。

 確実に殺した手ごたえはあった。死んだはずの、捨て身で片方を逃がそうとした子供が、いまだ身動きを阻害しているという事実に、男は廻に向けようとしていた視線を再び黄泉路へと戻す。

 人間として生存している事が異常とも言えるその体から、再び力強い声が上がる。


 「廻君!」

 「絶対、絶対助けを呼んできますから!!!!」


 黄泉路へと注意を戻した隙を突いて廻の声が脇を通り過ぎ、外へと飛び出した足音が遠のいてゆく。

 この時、初めて決定的にしてやられたと悟った男は忌々しげに黄泉路を見下ろす。


 「こ、の――ガキィッ!?」

 「……言った、ろ。 僕が、相手だって……ッ!」


 歯軋りせんばかりの表情を浮かべて睨み付ける男に、黄泉路はあえて挑発的な口調で、捻じ曲がった首が戻るままに男を見上げて口の端を吊り上げた。

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