4-31 朝軒22
雨音とは明らかに違う異音。
金属が擦れ合い、ぶつかって軋む音が鳴り響き、男の意識が外へと向けられる。
「――はッ。期待薄だッたが、本当に来るもんだなァ」
意図的に向けられた男の加虐的な笑みに、廻は背中に氷を滑り込ませられた様な悪寒を覚え、ぶるりと身震いした。
その様子に満足したように男は粗野な笑みを浮かべ、獲物を前にした獣の様な声音を響かせて廻に背を向ける。
「ちィッと待ッてな。あッちのガキもつれてきてやるからよォ」
そう宣言して表へと歩いてゆく男の背を見据え、廻は猿轡を外されているにも拘わらず言葉を発することができずにいた。
無論、恐怖による硬直もあった。
だがそれ以上に、黄泉路が助けに来てくれたのだという確信にも似た直感に対する内からこみ上げてくる安堵と、この様な危険な場所に黄泉路を招きこんでしまった罪悪感とが鬩ぎ合い、言葉にならない空気が吐息となって吐き出される。
助けに来て欲しい。そう願って書置きを残したものの、こうして男の恐怖の片鱗を味わってしまえばそれは後悔となって廻の胸中をかき乱す。
男の姿が見えなくなったのを確認した廻は、自身の焦りに任せるままに、どうにかして外の黄泉路に対して危機を伝えられないかと身じろぎを始めた。
当然その音は廃工場の外に響くほどではないにしろ、外へと一歩出たばかりの男の耳にはしっかりと届いていた。
だが、男はあえてその音を無視する。男にとって廻とはすでに捕獲し終わった、何もできない力ない子供でしかない。
それに比べ、これから目の前に相対するであろう対象の方が聊か骨がある。そう判断した男にとって、廻が立てる音などもはや蚊ほども気にはならないのだった。
「さァて。どこにいやがる……?」
ざぁざぁと降り続く雨が白い水煙を立てながら視界をさえぎる中、男は楽しげに視線をめぐらせて目を細め――
「えいっ!」
「――ぐッ!?」
不意に、男の頭上から降って来たのは少年の声。
それと同時に襲ってきた衝撃に男は目の前に火花が散ったような錯覚を覚える。
「て、めッ」
どうにか踏みとどまろうとした男は少年の狙い澄ました足払いによってひっくり返され、今度こそ受身を取ることもできずに強かにコンクリートに頭を打ちつける。
頭を打ちつけた衝撃から、生理的な現象として目を瞑ってしまった男へ向け、少年は手に持った鉄の塊をさながらスイカ割りのように振り下ろす。
ビクリと痙攣して動かなくなった男を一瞥し、小さく息を吐いた少年――迎坂黄泉路は重い音の残響が雨音に飲まれる時間も惜しいとばかりに、手にした鉄パイプを肩に担いで工場の中へと早足で駆けていった。
◆◇◆
時間は少しばかり遡る。
フェンスを軽やかに飛び越えた黄泉路であったが、いくつも立ち並んだ工場の残骸を前にして冷静な思考が急速に回転をはじめた事で足を止めざるを得なくなっていた。
ここまで全速力で走ってきた事に間違いはない。が、ここから先も考えなしに突っ込む事は、どう考えても正解とは程遠いのだ。
ならば何が正解か、黄泉路は考えなければならなかった。
「(……どうする? まず、廻君が捕まっている場所がわからない。犯人は一人か複数か? 痕跡は一人分でもアジトなら仲間がいるかもしれないし、僕にそれを相手取るだけの力量は――ない)」
自身の非力さ、凡庸さを、黄泉路はよく理解している。
超能力者とはいえ、たった数ヶ月の間の俄仕込みの護身術を身につけただけの、元一般人、元実験動物であるという自覚は、訓練をすればするほど技術や経験の差を見せ付けられ、如実な体感として黄泉路の中に根付いていたのだ。
黄泉路にもし、カガリの様な1対多を狙える能力があれば。黄泉路にもし、誠の様な、1対1での確かな格闘技術があれば。
そんな高望みをした所で現状が変わり様がない。無い物ねだりをする暇も惜しいとばかりにそれらの思考を片隅へと追いやり、この場における自身の取れる最善を模索して建物の影に身を隠す。
極力物音を立てないように建物の壁へと背を預け、じっと建物を観察して回る。
やがて、何個か並んだ建物のうち、ひとつだけ扉が真新しく壊された形跡を発見することができた。
「(中の様子、確認できればいいんだけど……)」
きょろきょろと視線を彷徨わせていた黄泉路の視界に、その建物の2階の窓が目に入る。
丁度よくむき出しの雨樋や配管が壁を這っているのを確認した黄泉路は慎重にパイプを伝って壁面をよじ登り中を覗く。
「――っ」
碌に掃除もされなくなって久しい汚れた窓ガラスの奥。
支柱に縛られた廻の姿を見つけ、黄泉路は思わず唾を飲み込んだ。
声を出さないよう、気配を悟られぬよう、押し殺すように小さく息を吐き出して、工場内を見回す。
実行犯らしい大柄な男の姿を認め、さらにそれ以外の人影が居ない事まで確認した黄泉路は一旦パイプを伝って地面へと降りる。
「(犯人は一人。なら、注意を引けば……)」
黄泉路は入れそうな別の建物か、手近なモノで使えるものはないかと視線を巡らせ、おそらく使用される事もなく閉鎖時に処分するだけの費用も惜しんで放置されたらしい鉄パイプの山を見つける事ができた。
それらを2本ほど拝借した黄泉路は再び配管を伝い、男と廻の居る廃工場の屋根へと登れば、出入り口の近くのフェンスへと向けて、鉄パイプを1本投げつける。
辺りに響き渡った硬質な音。程なくして現れた男の注意がフェンスのほうへと向いている間に、黄泉路は深く深呼吸をする。
すぅっと、心が静かになる感覚。
研ぎ澄まされた意識の中で、男の頭へと鉄パイプを振り下ろす姿をイメージし、一撃で駄目ならさらにと、幾通りかの所作を脳内へと描き、力強く屋根を蹴って男へと飛び掛った。
「――ッ」
打撃の瞬間、まるで岩でも殴りつけたかのような痺れが手を襲う。
他人へ暴力を振るう事に慣れているわけではない。しかし、その逆であるならば黄泉路は誰よりも詳しいのだ。
どの程度のダメージで人は死ぬのか。そこから考えれば、悪くて後遺症が残る程度であろうと、黄泉路は自身の手に残る感触から判断し、それでも倒れない男へとダメ押しをする事を決める。
事前に想定したとおりに男の意識を刈り取った黄泉路は、男の安否を無視して廻の救助へと向ったのだった。