4-29 朝軒20
切実な祈りを胸に、黄泉路は一際激しく扉が損壊した廻の部屋へと足を踏み入れる。
ゴロゴロと外で響く雷鳴が嫌に強く感じたのは勘違いではないらしく、室内の様子は普段と打って変わった乱雑としたものへと変貌していた。
普段は締め切られていたカーテンが大きく裂かれ、その先の窓ガラスが枠ごと完全に壊されていた事が、先ほど雷鳴が大きく感じた原因であった。
そこに窓があったのだと事前に知っていなければ、ただ壁に大きな穴が開いている様にしか見えなかっただろう。
大人がゆうに二人は通れるほどの大きな穴からは大粒の雨が現在進行形で吹き込んでおり、吸い切れなかった水分がカーペットの上に水溜りを作り床を濡らしている。
暗い部屋に電気はないが、先ほどまでの移動の間に目が慣れた事で黄泉路は室内の様子はある程度認識することが出来た。
「――廻君……」
パッと見る限りでは、室内に廻の姿はない。
同時に、“廻だったモノ”も存在しない事に、漸く小さな安堵と希望を見出して黄泉路は小さく息を吐く。
一通り室内を見回した後、廻の姿は見当たらない事に安堵から一転、様々な思考が不安となって黄泉路の脳内に去来する。
「(いったい、何処に――)」
そう思いかけた時、黄泉路はふと、ベッド脇のサイドチェストの引き戸から紙片がはみ出している事に気づいた。
「(あれ……? この紙だけ新しい?)」
黄泉路が気になったのは、その紙だけが、“まるで雨が吹き込むのを予想したかのように”、雨を避ける形で仕舞われていた事だ。
見れば、机の上のノートなどはすでに飛び跳ねた飛沫によって染みが出来ており、ベッドやカーペットなど言うまでも無い。
にもかかわらず、その紙片だけは、サイドチェストの引き出しの中に仕舞われていた。
その事に一度気づいてしまえば無視しようも無く、黄泉路は水に濡れないようにサイドチェストから紙片を引き抜く。
引き抜いてみれば、その紙はあえて一部だけがチェストからはみ出すようにおいたとしか思えない様なおかれ方をしていて、黄泉路は紙を調べようと裏返した。
「――ッ!!!」
荒く、乱雑に書かれた文字。
そこには短くひとつの単語だけが記されていた。
――“こうじょう”
その文字を見た瞬間。黄泉路は壁に開いた穴から外へと飛び出していた。
握り締めた紙がすぐさま雨に濡れて、手の中でぐしゃぐしゃになってしまうのも構わず黄泉路は走る。
「……(部屋に血の匂いがしなかった……あれだけの事をした奴が、廻君にだけ手を出さないなんて事はまずありえない)」
降り続く豪雨と未だ日の出にはやや時間がある事もあり、住宅街は人影のかけらも見当たらない。
それを幸いと、黄泉路は自らの肉体の限界を超える駆動で街中を疾駆し、塀を飛び越えて一直線に目的地まで走った。
走る最中、焦る気持ちとは裏腹に雨に打たれて冷え切ってゆくのは心のほうであるかのように、冷静な思考が勝手に推理を組み立ててゆく。
「(工場、あれは廻君からのメッセージのはず、ならまず間違いなく、廻君は無事のはずだ)」
この場にいない廻の無事を確信するように、黄泉路は更に駆ける足を速める。結果としてジャージの下で足の骨が軋む音が激しくなるが、負担より再生が勝っている事もあって黄泉路は自身の体の状態を意識の外へと押し遣って思考する。
廻の部屋は侵入路から最も離れた位置にあった。
しかも道中には巌夫や妙恵を殺害する時間があったはずであり、未来を知る事のできる廻ならばその間に安全な場所に身を隠す事は十分に可能のはずであった。
何らかの事情で階下にて遭遇してしまったらしい巌夫はともかく、寝ている状態の妙恵ですら容赦なく殺している犯人が、廻だけを見逃すとは考え辛い。
もし廻が既に殺害されているのならば、例に漏れずこの場で殺されていた可能性が高い。
しかし、廻の部屋は酷く荒されているものの、朝軒夫妻の殺害現場のような濃い血の匂いはなく、また、黄泉路が見る限りでは大きく争ったような形跡も無かった。
巌夫や妙恵の状況を見るに、犯人が襲撃してから黄泉路が駆けつけるまでの間はさほど長くない。あの場で廻を如何こうするにも時間は無かったと見てもいいだろう。
そして残されたこうじょう――工場という単語は、明らかに廻が黄泉路へと向けて書いたメッセージであり、犯人がわざわざ潜伏先の情報を書置きする理由は皆無である。
ならば何故、廻が犯人に連れ去られる先の場所を知っていたかといえば、これは単純に廻が直前、そう、連れ去られる直前に自身の未来を予知したからであろう。
廃工場の煙突が雨に紛れて見え始める頃、おおよその推理を終えた黄泉路の頭に、改めて疑問が浮上する。
「(――でも、なんであの時廻君は見えなかったんだろう……?)」
廻の予知能力にはこの事件は引っかからなかった。
少なくとも前日に黄泉路が予知を促した際には、当人は隠している様子もなく、見えないといっていた。
朝軒夫妻を守るべく引きこもっていた節のある廻が、果たして今回の事件だけを黙っている理由があるだろうか。
「(……本当にこの未来が見えてなかった、そうとしか……ッ!?)」
改めて、冷え切った思考が検分した状況の中で、ある可能性が黄泉路の頭の中でカチリとかみ合う。
その瞬間、黄泉路の顔色はサッと青ざめる。
泣きそうな――雨が降っていなければ、おそらく泣いているのがわかってしまうだろう程に悲痛な表情に打って変わった黄泉路は、握り締めた拳の爪が自身の手のひらに食い込んで血が滲むのも構わずに工場の敷地を囲うフェンスを飛び越えた。