4-28 朝軒19
時間の感覚を失ってしまったような悄然とした心地の中、大粒の雨が見開いたままの瞳に入ったことで黄泉路は漸く我に返る。
「――ッ!」
3人を助けなければと、黄泉路は未だに脅迫状の送り主が中に居るかもしれないと言う恐怖をねじ伏せて動き出す。
玄関から入る手間をも惜しんで割れたガラス戸へと土足で上がり込めば、ザリザリとガラスがフローリングと靴の間で擦れ合う音が雨音に紛れた。
照明が明滅する室内に踏み込んだ黄泉路の鼻腔をツンと刺すような臭いが刺激する。
「……」
雨の日特有の水の匂いに混じるそれに、黄泉路の表情が険しくなる。
錆びた鉄の様な臭い。
黄泉路にとってはここ数年の間で嗅ぎ慣れてしまった、人間の命が失われていく臭いだった。
すん、と鼻を鳴らして空気を吸い込んで匂いの元を辿れば、どうやら廊下の方からしているらしいとわかり、黄泉路は明かりの消えた廊下の方へと足を向ける。
先ほどまでとはまた違った動悸が血流を早め、黄泉路の耳元で毛細血管がどくどくと脈打つ音を奏でる。
心地の悪いその音を噛み締める様にしながら向かった先で、暗がりに踏み入れた足がザリッ、とガラスの破片を踏みつけた。
天井の電球が割られていた所為で明かりが灯っていなかったのだろう。その事実を踏みしめた靴の下の電球の残骸で確かめ、暗い廊下の奥へと更に足を踏み出しながら、黄泉路は目が慣れて来るのを待つ。
そうして1歩、2歩と進むうち、再び足音が変わる。
――ぴちゃ。
足元から聞こえる水溜りを踏みしめた様な音に、黄泉路は思わず地面を見る。
漸く廊下の暗さに慣れてきた黄泉路の目が、フローリングの凹凸を伝って黄泉路の足元まで広がったモノを捉え、同時に、先ほどから感じていた鉄錆びた臭いを強く感じるそれに、黄泉路は思わず飛びのくように足を退いた。
窓の外で閃光が瞬き、遅れてゴロゴロと体内を震わせるような重低音が響く。外の雨脚がいっそう強さを増した様で、雷混じりの雨音はさらに激しくなる。
黄泉路は足元の水溜りの源流を辿る様に、視線を廊下の奥へと向けた。
「――ぅ、ぁ……あぁッ」
それと同時、断続的に響く雷鳴と雷光が廊下に差し込んで仄暗い廊下を照らす。
異様な程の鮮明さで雨音と雷鳴が響くような錯覚の中、黄泉路は自身の口からこぼれる嗚咽を止める事も出来ずにいた。
窓の外で白く光る明かりが床を伝う赤黒い液体を彩り、廊下の突き当たりでフローリングに粘性の水溜りを形成しているそれが黄泉路の視界と思考を占有する。
それは、いびつな突起の生えたナニカだった。
――より正確に言うなら、それは、ひしゃげた手足を自らの血溜りに投げ出して事切れている朝軒巌夫の姿であった。
「あ、ぁ……ッ」
目の前の物言わぬ骸が、つい先日まで会話を交わしていた相手であるという事実をどう処理すればいいのか。
黄泉路は自身の心中で渦を巻くどす黒い靄に思考を飲まれ、ゆるゆると骸へと近づいてゆく。
「い、わお……さん……」
黄泉路は血に汚れることを気にする余裕もなくしゃがみこみ、骸の手を取る。
ぎしり、と、歪に捻じ曲がった腕の骨がきしむ嫌な音を知覚し、思わずといった具合に手を離せば、皮一枚でつながっていたであろう腕が床へと転がって粘質な音を響かせた。
「――」
どう足掻いても完全に死んでいる。
誰よりも多くの死を体験してきた黄泉路だからこそ、生命として超えてはならないラインを大幅に超えている事が容易に判ってしまう。
その現実を受け止めきれずにいた黄泉路は、自身の口から乾いた笑い声が壊れた機械のように上がっている事に気づき、ぼんやりと思考する。
「(本当にどうしようもない状況だと笑ってしまうって、本当だったんだ……)」
めまぐるしく渦巻く黒々とした感情の渦に翻弄されながら、黄泉路は緩やかに立ち上がる。
妙恵と廻の安否を確認しなければ。
ただ、行わなければならない義務のように黄泉路はそう判断して血の池から足を退き、赤黒い靴跡を残してふらふらと階段を上った。
誰かがストレスの解消混じりに乱雑に殴りつけた跡が道標の様に荒らされた内装をぼんやりと眺め、変わり果てた朝軒邸の2階、すべての扉がひしゃげた光景に絶句しながらも、通り過ぎざまに部屋の中を確認してゆく。
中でも酷く荒らされた、元々は寝室だったのだろう一室の前で、黄泉路は足を止める。
虚ろな思考のままでもわかる、先ほども嗅いだばかりの濃い血の匂いを感じ、黄泉路はその部屋の中で起こった惨劇に表情を強張らせながら、ゆっくりと部屋を覗いた。
「――妙恵……さん……」
ベッドの上で、おそらくは寝ている間に殺されたのだろう。
巌夫の時よりは比較的穏やかな亡骸の状態に、黄泉路は震える声で呟いた。
眼を閉じたまま、首の骨が折れてしまっている事と、おそらくは首が折れた際に骨が頚動脈に刺さってしまった事による大出血の痕から、黄泉路はそっと目を離す。
朝軒夫妻の死を確認した黄泉路は、泣きそうな表情で、通いなれた部屋の方へと歩いてゆく。
せめて廻だけでも無事でいてほしい。
そう祈らずにはいられなかった。