4-27 朝軒18
絶え間なく雫を落とし続けていた雲が途切れ、雲間からうっすらと輝く月が姿を見せる。
夜、深夜の3時を過ぎた頃。
民家の屋根の上からすっかり明かりの消えた朝軒家を眺める影があった。
月光に照らし出されたその姿はボディビルダーかと疑う程に発達した筋肉に、雨によってぴたりと張り付くシャツ姿の男だった。
「……うし、いくかァ」
ガラガラと錆び付いたような、タバコによって掠れた声が野卑に吊り上げられた口元からこぼれる。
今日この日、男が行動に移すと決めた切っ掛けは、ここ数日、決まって訪れていた少年が帰宅した様子がなかったことだ。
お誂え向きに少女を引き連れてやってきた少年もまだ家に居る。であるならば、奪える者が多くなると、男は至極単純にそう考えていた。
月が再び重たい雨雲に隠されようとしている事に気づき、男は雨が上がっている今が機であると足に力をこめる。
ダン、と。瓦を踏みつけた音が響く。
外見に似合わず着地の衝撃を見事に殺しきったその挙動は手馴れたもので、一足飛びに朝軒家の庭へと降り立てば、さてどこから入ろうかと視線を巡らせる。
その時だった。
朝軒家の一部屋で、パッと明かりがついた。
男は怪訝な顔をするものの、機会を改めるつもりはない。
やがて明かりはキッチン、リビングへと至り、庭を一望できる窓に老人の姿が浮かぶ。
それは、外の音で目を覚ました巌夫であった。
「よォ。受け取りにきたぜ」
男はそれだけ言うと、野卑な笑みをそのままに慌てて廊下へと踵を返す巌夫を追いかける。
それと同時に、先ほどまでの凪が嵐の前の静けさであったかのように終わり、再び降り始めた雨が大粒の雫を地面へと叩きつけ始めていた。
◆◇◆
天から滝が降り落ちる様な豪雨の音が意識の表層に纏わり付き、黄泉路の意識が浮上する。
外は雨という事を差し引いても暗く、時計へと目を向ければ普段の起床時間よりも数時間ほど早い。
研究所で監禁されていた頃に見についてしまった規則正しい生活リズムにより、特別な用事でもない限り起床時間がこうも大幅にずれ込む事はなくなっていた黄泉路は小さく首をかしげた。
何故このような時間に目が覚めてしまったのだろうかと思い、壁一枚を隔てて鳴り響く外の景色をすべて押し流すような豪雨の音の所為かとも思ったものの、どうにもその程度で自身の生活リズムが変わるものだろうかという疑問が勝る。
窓に叩きつけては流れ落ちてゆく透明な壁とも言える様な強い雨脚をぼんやりと眺めていると、部屋の外、廊下を慌てた様子の足音が近づいてくる。
「――?」
足音の軽さから姫更だろうとあたりをつけるものの、早朝と呼ぶよりはまだまだ深夜と呼んだほうが正しいと思えるような時間に姫更が起きているという事実がまた不自然に思えて扉のほうへと視線を向けた。
「よみにい!」
バタン、と。勢いよく開かれた扉の先には、やはり姫更が寝巻きのままの姿で、つい先ほどおきたのだとわかる調子で寝癖もそのままに飛び込んでくる。
その尋常ではない様子に、漸く頭が回りだした黄泉路は布団から抜け出して問いかける。
「……何かあったの?」
胸の奥から湧き上がってくる言い知れない不安。
黄泉路はその悪い胸騒ぎが杞憂であれと祈ったが、しかし、その祈りは既に遅い事を知る。
「マーキング、壊れた」
「っ!?」
姫更の端的な言葉に込められた意味を悟り、黄泉路は跳ね起きるように身を起こし、靴だけを手早く履いて、着の身着のままで笹井駄菓子店の裏口から駆け出す。
その後ろで黄泉路を呼び止める姫更の声が聞こえていたものの、直接打ちつけ、刺すような豪雨の中を駆ける黄泉路の耳にはすぐに聞こえなくなってしまう。
「――ハァ、はぁ、はッ」
通いなれた道を人目がない事を良いことに、自身の筋繊維が引きちぎれるほどの速度で駆ける。
「(そんな……ッ、何で――)」
すぐ先すらも見通せないほどの豪雨を浴びて駆ける間に黄泉路の頭は完全に冷え切り、寝ぼけた思考が普段以上に研ぎ澄まされて透明度が増す。
頭の中で反芻されるのは夕方の廻とのやり取り。
何も見えないという事は、喫緊では何もないという事ではなかったのか。
廻があえて知った事を黙っていた可能性が真っ先に頭をよぎったが、廻自身が危機を察知して黄泉路に黙っている理由が思い当たらない。
次いで浮かんだ疑問は、廻自身も見えていなかった事が事実だったとして、何故今回に限って見えなかったのかという事であったが、いくら考えても黄泉路の最悪の予想が覆る事はない。
やがて雨に煙る朝軒邸が見え始め、黄泉路は迷うことなく柵を飛び越えて敷地の中へと足を踏み入れる。
「――そ、んな……」
大きく破られたガラス戸からは大粒の雨が容赦なく吹き込む。
明かりが灯ったままになっている事で暗い景色の中に異常さが浮かび上がるような朝軒邸を前に、黄泉路の呆然とした声が雨音に紛れて消えた。