4-21 朝軒12
翌朝、黄泉路は普段通りの起床であったにも拘らず瞼の外の世界が仄暗い事に違和感を抱き、しかしそれが窓の外で聞こえる連続した音によって雨が降っているからなのだと理解すれば、緩やかに瞼を開ける。
昨日の午後から降り始めた雨はどうやら今日も降っているらしく、窓には大粒の水滴が当たっては流れていた。
外から聞こえてくる自然の音楽とも呼べるものに耳を傾け、黄泉路は普段よりも聊か重く感じる空気を吸い込んで吐き出す。
良くも悪くも、雨という現象は黄泉路の中では“普段とは違う”ものであった。
雨は嫌いではない。それ所か、流れ落ちる雨を眺めている事は好きですらあった黄泉路であるが、前日に発生した問題の直後というタイミングの問題もあり、とてもではないがそんな気分には浸れそうにない。
起床明けのぼんやりした思考を助長するような、ある種の催眠性を帯びた雨音を意識から追い出すように首を振り、黄泉路は布団から起き上がる。
枕に近い位置におかれた目覚まし時計を一瞥してタイマーが作動する前に止め、黄泉路はゆるゆると布団を畳んで宛がわれた客間の隅へと片付けて階下へと降りる。
1階へと顔を出せば、すでに家主でもあり、1階の一部を利用して個人商店を営んでいる笹井が店舗スペースの掃除を行っているところであった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。どうやら今日は一日雨のようですよ」
「そうですか……品出し、手伝いましょうか?」
黄泉路の本拠点である旅館【夜鷹の止まり木】に居た頃の習慣として、ついつい何か手伝わねばという義務感から声をかける。
「いえいえ、今日はこの通り雨ですからねぇ。元々人もあまり来ませんからね。雨の日は店は開けるだけにしているんですよ」
苦笑気味にそう答えながら居間へと戻ってくる笹井に、黄泉路はそんなものなのかと妙に感心してしまう。
旅館の手伝いをしていた時もそうであったが、場所が変われば作法が変わるもので、その場その場に合った行動にはそれ相応の意味があるのだなと至極納得したものであった。
その後、朝食を摂り終えた黄泉路は支度を済ませて店舗の方へと足を運ぶ。
普段よりもやや早い時間ではあるが雨で移動が遅れることも考えれば丁度よいと考え、貸してもらった傘を片手に外へと出た黄泉路を迎えたのは、小さな子供用の傘。
「……よみにい。おはよう」
「あ、ああ、うん。おはよう姫ちゃん」
転移して現れてきたのだろう。
唐突に出現した傘に一瞬驚かされた黄泉路は相も変わらぬ姫更の挨拶にややうろたえながら応える。
「え、っと。……こんなに早くからくるなんて珍しいね。どうしたの?」
「きょうは、ついてく」
「ついていくって……僕に?」
驚いて問い返す黄泉路に、姫更は事も無げに頷く。
襲撃があった昨日の今日で、まさかいきなり襲われる事はないだろうが、少しでも危険のあるだろう場所に小さな子供を連れて行く事とは別問題である。
思わず渋面を作る黄泉路を見上げた姫更の瞳がじっと無言の主張として黄泉路の視線と交錯する。
「危ない場所に姫ちゃんを連れて行きたくはないな」
「ついてく」
「ダメって言っても?」
「うん」
どうやら意志は固く、黄泉路はどうにか翻意させる為の言葉を捜そうと頭を捻る。
あまり上手い手を考え付くこともできず、この手の発言は子供には逆効果だと判っていながらもつい口に出してしまう。
「……遊びじゃないんだよ?」
「あそびじゃない」
口に出してからしまったと後悔するも、ほぼノータイムで返された事で黄泉路は再び言葉を捜す様に黙り込んでしまう。
幸い、意固地になった様子での反論ではない姫更の様子に内心で安堵した黄泉路は、ふと、今までマイペースではあったが聞き分けは悪くなかった姫更が何故こうまでしてついて来たがっているのかという疑問が湧き上がる。
「……ねぇ、姫ちゃん。どうして姫ちゃんは一緒に行きたいの?」
「マーキング」
「マーキング……?」
「スキルに、マーキングがひつよう。だから」
言われて初めて、黄泉路は姫更の能力について、詳しい事は何も知らなかった事に思い至ると共に、姫更の転移能力があればどんな状況になっても即座に移動が行えるという利点に気づく。
「えっと、姫ちゃん。聞いても大丈夫なら、姫ちゃんの能力について教えてくれないかな?」
「……わかった」
――神室城姫更の能力【そこに居ない子猫】は【座標交換】、“指定した座標にある存在”と、“自身の周囲の存在”を“入れ替える”能力である。
今まで空間転移を行っていたように見えていたのは、“手元”――手を握った黄泉路――と、転移先座標の“大気”を入れ替えていた為であった。
ただしこの座標交換能力にも制限があり、姫更が判り易い――座標をイメージしやすくする為のマーキングが不可欠であるらしく、また、手元の存在と遠方の存在を入れ替える際には、必ず片方は自身で触れていなくてはならないらしい。
たどたどしい説明ながらも、姫更の能力について理解する事ができた黄泉路は大いに納得すると共に、連れて行かざるを得ない事実に内心でため息を吐いた。
「……そういう事なら仕方ないか」
「ん」
黄泉路は傘を左手に持ち、右手を姫更へと差し出す。
意図を察した姫更が自身の差していた傘を畳むと、雨にぬれる前に黄泉路の傘の下へと入り込み、2人は並んで歩き出した。
――なお、黄泉路は知る由もない事であるが。
マーキングは姫更にとってわかりやすい目印がその場にあるかどうかが重要である為、それ自体を別に姫更本人が行う必要はなかったりする。
黄泉路を心配したが故に、どうにかしてくっついていく口実を得ようと敢えて伏せていた辺り、姫更の方が一枚上手なのであった。