4-19 朝軒10
「客人に散らかった部屋を見せておくわけにもいかない」
「あ、はい。わかりました。今日はこれでお暇させていただきますね。……この脅迫状、どうしましょう?」
「私のほうで預かろう」
「お願いします」
巌夫のやんわりとした、しかし有無を言わさぬ退去勧告に小さく頷く。
主張としては尤もであったし、ここまで触れ合った感触から、黄泉路はある程度本気で巌夫がこういった外面に対する体裁を大切にする人間だという事も理解していた。
ここで無理をする必要も感じられなかった為、黄泉路は素直に玄関へと向かう。
いつもであれば妙恵が玄関までの見送りを買って出るのであるが、本日に限っていえば妙恵は割れたガラスの掃除で忙しく、亭主関白のきらいの強い巌夫には自身が掃除の方をするという選択肢もないのだろう。
成り行き上、黄泉路は巌夫に見送られる形で玄関まで同行しようと踵を返す。
「それじゃあ、また明日来ます。今日のことも気になりますし」
「ああ」
「――それじゃあ、またね。廻君」
「……はい」
祖父の陰に隠れるように、しかし見送るつもりでついてきたらしい廻に小さく微笑みかけて、黄泉路は朝軒邸を後にするのだった。
黄泉路は支部へと帰る道すがら、標に先ほどの出来事を調べてもらうつもりで再度標へと声をかけた。
「(標ちゃん、今大丈夫?)」
『あー、はいはい! だいじょーぶですよぉー。それで、お話終わりましたぁ?』
「(うん、その事で緊急事態って言えばいいのかな……ちょっと困ったことになっちゃって)」
『ふむん?』
首を傾げたような調子の声音で相槌を打つ標に、黄泉路は先ほどの襲撃紛いの脅迫文の投擲についてを語って聞かせ、つい先ほど朝軒邸を辞した所である事と、これから笹井支部へと戻るつもりである事を告げる。
話を聞き終えた標が深くため息をついたような気がして、自分は何か失敗してしまったのだろうかと黄泉路は思わず不安になってしまう。
ややあって、標は仕方なし、と割り切ったような音を含ませた声音を黄泉路の脳内に響かせる。
『ぁー。タイミングが悪かったですねぇ……』
「(タイミング?)」
『いやぁ、先ほどの経過報告の時にですねぇ。噂話段階だったんで後回しでも良いかと思って、話の終わりにでもよみちんの小耳に入れておこうと思った情報があったりなかったりぃ……』
「(……ええっと、つまり?)」
妙に歯切れの悪い言い回しに、黄泉路は自身の不安も相まって少しばかり急かす様な問い方をしてしまう。
標にもその雰囲気が伝わってしまったようで、わずかな沈黙の後、堰を切ったように標の声が黄泉路の脳内に濁流のごとく押し込まれる。
『だ、だってだって、しょーがないじゃないですかぁ! 孤独同盟内でトレードされてる情報の中の“小さな子供のいる富裕層”を纏めたリストに朝軒さんの名前があって、しかもそれを最近誰かが買ったらしいって情報くらいじゃまだ使われるかも判らないし普通そんな唐突に直接的な手段に出るバカだと思わないじゃないですかぁ!!!』
あまりの勢いに、黄泉路は思わず手で耳を押さえるものの、しかし、響いているのは実際には頭の中であるため無意味であるという事に気づき、ハッとなって周囲を見回す。
幸い人通りも無く、黄泉路の傍目には不審とも取られかねない挙動を見ていたものは誰一人としていなかった。
その事実にホッとするのもつかの間、自身に一方的に過失があったわけではない事を理解すると同時に、標の方も自身に過失があるのだと思っていた事実に思い至り、黄泉路は宥める様に標へと声をかける。
「(ま、まぁ、確かに。あんな穴だらけの脅迫文を送りつけてくる人の考えなんて読めないよね……)」
『う、ううー。せっかくよみちんの初依頼だからしっかりきっぱりしゃっきり完璧にサポートしようと思ってたのにぃー』
「(助かってる事には変わりはないから、大丈夫だよ)」
『うう、慰めはいりません……こうなったら私はその情報を買ったバカについて調べてみますぅ』
どうやら何かしらが標の琴線に触れたらしいと察すれば、黄泉路はそれ以上この話題について言及する事を避け、話をそらすように今後の行動について問いかけることにした。
黄泉路にとっては初の依頼で、初の孤独同盟との接触である。
こういった際にどう動いて良いかなど、夜鷹支部ではまだ教わる必要すらなかったのだから黄泉路が独断で動くというのも憚られるという、切実な理由もあった。
「(僕は、どうしたらいいかな?)」
『そーですねぇ。まずはそこの地区担当の支部長である笹井さんに連絡、増援要請をしてもらってぇ、増援が来るまでは絶対に無茶せず、今まで以上の頻度で朝軒さんについていてあげてください』
「(……わかったよ。ありがとうね)」
笹井支部の軒先が見え始めた辺りで標との交信を終える。
午後。普段よりも早い時間に帰路についた筈であるにも拘わらず、景色はどんよりと暗い。
空を覆う曇天は今にも雨粒が零れ落ちそうな気配を醸し出していた。
黄泉路は暗い空を見上げて小さくため息を吐く。
まるで、この先を案じさせるような不吉な空模様だと思っていると、黄泉路の頬にぽたりと雫が落ちる。
その直後、堰を切ったように降り始めた大粒の雨に、黄泉路は服がぬれるのは好ましくないと、あわてて笹井支部の軒先へと駆け込むのであった。