13-70 REVIVE
陽射しがなくとも煌々とした輝きに溢れた結晶の大地に静寂が満ちる。
息づく生命はなく、あらゆる概念が想念因子の結晶へと代替されたような、煌びやかなれど静止した世界の中、もし仮に他に観測する存在がいたならば唯一存在している黒髪の少年の存在は異質で浮いて見えただろう。
「……」
とはいえ、この場には少年――迎坂黄泉路をおいて、他に人は存在しない。しなくなった。
我部幹人という、世界を作り替える為に世界を滅ぼした男は消滅した。
後に遺されたのは、作り替える前。
すなわち滅ぼされた世界がただあるだけだ。
黄泉路は確かに我部を討った。
世界の再編を阻止することは出来た。
だが、それがイコールで世界を救った、ということにはまだならない。
想念因子という、原初の構成粒子に還元された世界は命も時間もなく、ただあらゆる概念の卵が存在するだけの虚無の空白。
世界にただひとり取り残され、還ることもなくただ立ち尽くす黄泉路は静かに息を――酸素を必要としない肺に循環させる必要性もなければ、そもそもこの場には大気すら存在しないという事実はさておき心理的な切り替えの為にポーズとして――吐く。
ゆっくりと天を見上げ、概念の想念因子回帰が太陽すら呑み込み、太陽系すら納めてしまうほどの規模になっている事を示すようなどこまでも見通せる透き通りすぎた無色の空を見つめ、やがて、同色の大地、自身が足をついているという定義によって辛うじて大地と識別できる結晶を見下ろしてから。
黄泉路はゆっくりと、自身の手に握られた黒と銀、そして鈍色の槍を見つめる。
世界から全ての概念が溶け落ちて、黄泉路とそれ以外でしか区別できなくなった世界にあって、その槍だけは黄泉路の手の中で存在を主張していた。
「……僕の、やるべきこと」
握りしめた槍を決意するように見つめた黄泉路は小さく呟く。
くるりと槍を手の中で回し、穂先を下に、大地へと突き立てる様に振り下ろす。
――音は、ない。
本来であれば硬い物同士がぶつかり合う衝撃さえも黄泉路の手には届かず、ただ、溶け込む様に穂先が結晶の中に突き立っていた。
黄泉路の腕から柄、槍先へと伝わった力があふれ出し、想念因子結晶が蒼く瞬いた。
その輝きは留まるところを知らず、瞬く間に黄泉路の足元が硬質な一枚の結晶から数多の細かな粒子で形成された銀の砂へと変貌し、その範囲が見る見るうちに広がってゆく。
黄泉路が行っているのは、世界の冥界化。
我部という主が不在の想念因子の塊と化した世界を、自らの能力で制御権を書き換え、内包されている簒奪された概念全てを手中に収める作業。
それはまさしく神の所業。あるいは――
「(懐かしい。何でもできる、この感覚は)」
あらゆる全ての概念と接続された、万能の能力者としての懐かしい全能感。
それは黄泉路が久しく忘れて――切り捨てることで人間になる前の、生まれ落ちた時に持っていたものであった。
世界が蒼銀の水底へと沈んでゆく。
結晶の世界が、仄暗く何処までも果て無く続く揺蕩う水と蒼銀の砂丘に組み変わってゆく。
「(ああ。結晶化の範囲が広い。一度概念が回帰した所為で連鎖的に隣接している空間そのものに概念崩落と回帰現象が起きてるのか。もうちょっとスピードを上げないと)」
太陽系を飛び越えつつあった結晶化の波に追いつくべく、黄泉路は槍を両手で握り、強く力を放出する。
リソースは既に取り込んだ結晶達が、世界を呑み込めば呑み込むだけ力を増す全能の神としての出力が、やがて宇宙に果て無く広がり続けようとしていた概念の崩落を食い止めた。
冥界――死という特定の概念によって括られることでそれ以外の概念と接続しても崩落することがなくなり、それ以上の浸食が防がれた事で黄泉路は槍を握る手から力を抜く。
「さて、と」
冥界の主、新たな魂の支配者に過ぎなかった黄泉路が、正真正銘万能の神、万物の概念に通じる能力者へと回帰したことで、その能力はかつての比ではないほどに強大無比のものへと昇華していた。
今この時も、世界と繋がっている。思うだけで世界を自由に創ることすらできる。そう確信を抱くほどに。
とどのつまり、これから黄泉路がやろうとしている事は世界そのものの蘇りだ。
蘇りの力を持つものが、その効果対象を世界全てに適用する。それだけの話だが、そこに至るまでに一抹の躊躇があったことを、黄泉路は否定しない。
「さようなら、みんな」
突き立てたままの槍を引き抜き、黒く沈んだ水底から天に向けてかざす。
槍先からあふれ出した蒼銀の輝きに呼応するように、冥界全ての銀砂から蒼い光が立ち上りはじめ、それらは世界を作り直そうと、かつてあった世界の形へと再形成せんとする意志の下へと集まってゆく。
「(思った通り、この出力なら。今の僕なら――)」
できる。そう確信し、集約している力を使おうとした瞬間。
「ぐ、っ……!?」
黄泉路は全身に突き抜ける衝撃に思わず小さく呻き声を漏らす。
見えない壁にぶち当たり、それを突き破ったような感覚。世界と繋がっていて、世界全てを支配していると言っても過言ではない今の黄泉路をしてぶつかり得る壁を抜けた先で、
『ああ。来たんだね』
「――は……?」
黄泉路は、果てなく広がる銀の砂丘で、見知った顔と向き合っていた。
『僕と合流したということは、そうか。まぁ、それが一番良い締め括りになる、か……』
「え、あ……は……?」
夜空のような黒髪。髪と同色の黒い瞳。男にしては痩身で華奢な印象の色白の少年。
黄泉路と全く同じ姿かたちをした、鏡合わせのような存在がそこに居た。
少年と黄泉路に違いがあるとするならば、黄泉路は戦いを終えたばかりのボロボロの学ランに黒銀の槍を携えているのに対し、少年は長い襟足を後ろで纏め肩から前に流し、周囲の暗闇に滲む様な外套を肩にかけているという点。
それ以外は全くの同一、一寸の歪みもない鏡を前にしたような錯覚に混乱する黄泉路だが、魂の奥底で感じる確信が、より一層黄泉路を混乱に至らしめていた。
「ぼ……く……?」
『そうだよ。僕だ』
魂を認識する、その性能にかけて右に出るものの居ない黄泉路だからこそ、目の前の少年が自身と全く同じ魂を持っていることを理解できてしまう。
魂に同一の物はない。双子であろうと、その魂は差異があるもので、だからこそ、黄泉路はその識別が能う。
だが、目の前の少年からは黄泉路が自身を蘇らせるにあたり幾度となく知覚している自らの魂、その輪郭から内包するものまで、全てが全て全く同一のものを持っていると確信出来てしまっていた。
『まぁ、厳密にいうと、別の世界線の迎坂黄泉路なんだけどね』
「別世界の」
『そう。廻くんから聞いてない?』
さも当然の様に廻の名を出す少年に、黄泉路はますます目の前の少年が自分自身なのだという確信を強くしつつも、少年の言葉から廻が何を隠しているのかについての推測を広げて口を開く。
「廻くんが話さない以上、無理に聞くつもりもなかったから知らないよ。でも、今ならわかる。廻くんの能力は未来予知じゃなくて」
『精神を過去に飛ばす過去再編』
「――じゃないよね。精神を飛ばしているのは事実だけど、飛ばす先は恐らく別の世界線の過去に、だ」
黄泉路の結論に少年は小さく微笑んでパチパチと手を鳴らす。
『正解。ただし補足をするなら、廻くんの能力は確かに過去に精神を飛ばすけれど、飛ばされた精神が行動を開始した時点でその時間軸は分岐して別の世界線を辿る。だから、並行世界の過去への精神転送という結果が後付けで生まれるんだ』
タイムトラベルという概念がある。
未来、または現代に生きた存在が過去へと遡る事象を指し、物語などでは往々にして過去に遡った存在が行った行為によって、その過去から見て未来に当たる現在が変貌してしまうという考え方。
仮に現在交通事故に遭って病院に運び込まれた人間がいたとする。
もしその人物が過去――事故発生の5分前程度だとしても――へと遡ったならば。
当然の如く事故を予見し、事故に遭わない様に行動する。
その結果、その人物は事故には遭わず病院にも運ばれないという現在を手にするが、それは現在を書き換えたと言えるだろうか。
過去に現在を知り行動するという異分子が挿し込まれた時点で、その世界は事故に遭う世界とは既に別のもの――世界へと変貌しているのではないか。
それこそが廻の持つ能力の本質。
現在から未来に起きる事への可能性の集束、望む未来を確定させる穂憂の能力とは違う、過去に遡るという行為によって新たな支流を生み出す能力こそが、朝軒廻という少年が獲得してしまった概念の本質。
「じゃあ、そっちの僕は」
『どの世界線、というよりは、僕ならもうわかるだろ?』
「……どんな過程を辿ったかは知らないけど、僕と同じく万能の神になった僕」
先ほど突き抜けた様に感じた壁のようなもの、それはまさしく世界を隔てる壁だったのだろう。
世界そのものを掌握する存在が、その世界の内側にいたままで操作することなどできはしない。
箱庭は常に見下ろして管理する。そうでなければ、支配者にはなれないのだと確信した黄泉路が答えると、
『――』
少年は一瞬きょとんとした顔をして、やがて本当に面白い事があったとばかりに腹を抱えて笑いだす。
『ふ、あは、あははははは……! 万能の、神――ははははっ、すご、すごいな、そっちの僕……!』
「え? は?」
『総取りじゃんっ、廻くんすごいよ、そんな大穴引き当てるなんて……あははは、お腹苦しいー……』
「……」
突然笑い出した少年が、自分と同じ存在だからこそわかる。
あれはガチの大笑いだと。
自分はこんな風に本気のツボに入って笑った事は何度あっただろうかという程の大笑いの波が引くまで、黄泉路は困惑しながら眺める羽目になった。
それから暫くして笑いが落ち着いてきたのだろう、未だ脇腹を抑えながら頬を引き攣らせて少年が姿勢を正す。
『いや、笑った。自分にいうのもなんだけどごめんね』
「……それより理由が知りたいんだけど」
『ああうん。単純な話だ。僕は万能の神なんかじゃない』
「っ!?」
居住まいを正した少年の言葉に黄泉路は目を瞠る。
世界の外側、そこに先んじて座す自分と同じ顔の存在、それが万能の神ではないという発言は黄泉路の目論見を大きく外すものであったのだから当然だ。
少年は補足するように肩をすくめて控えめに笑う。
『僕は精々死の支配者、さしずめ死神だとか閻魔大王だとか、そのくらいだろうね』
「そっちは一体何があったの」
『ざっくりいえば、僕は世界を諦めた。生きている人間よりも、死んでしまった人たちの方が大事だった。その上で、世界全てを更地にして蘇らせて、全ての魂が僕の世界に紐づく様にした』
「――!」
世界全ての冥界化。そして全ての命を一度殺し取り込み、その後蘇らせることで世界全人口を自身の管理下に置いたという少年の言葉に黄泉路は絶句する。
『お陰で世界に死の概念は僕だけになった。僕の冥界こそが世界宗教における最新にして絶対の死後の世界。名実ともに世界全ての生死を司る概念そのものとなった僕は神になったんだよ』
「……そうまでした理由は、やっぱり?」
『あ、やっぱりそっちの僕も似たようなことは考えたんだ』
やっぱり根は一緒だね、と。呆れたように笑う少年に、黄泉路は背筋を凍らせるような思いで小さく喉を鳴らした。
あの時――死体を意のままに操る死体漁り、橋下條実近を殺し、支配して能力を絞り上げた後。
夥しい死体が転がるあの邸宅で独り呆然としていた、あの瞬間。
黄泉路は確かに考えていたのだ。
大切な人との別離が辛いなら、世界全ての人間を殺して蘇らせて――魂の支配によって死体に魂を再度吹き込むことで完全な蘇りを実現することで――全ての魂を自らの冥界に紐づけてしまえば、と。
幸い、それは駆けつけた廻たちによって阻止され、立ち直った事で新たな仲間と共に遺志を継ぎ、今ある世界を守るという決断にまでたどり着けたが、もしそうでなかったとしたら、黄泉路は、自分でもその判断をしていたと確信していたからこそ、目の前の少年が自分のIFであると確信してしまうのだった。
「幸い、廻くんたちのお陰でね」
『なるほどね。……それで、万能の僕は世界をどうするつもり?』
「勿論、蘇らせるよ。そっちの僕とは違う、正真正銘の元通りに」
少年もある意味では世界を作り直したのだろう。だが、それは黄泉路が目指す再生ではない。
そう黄泉路が告げれば、少年は納得した様に小さく頷いてから、ゆったりと歩み寄り目の前までやってくると右手を差し出した。
『なら、僕の手助けがいるはずだ。手を握れば、お互いのことがわかる』
「……わかった」
差し出された右手に、黄泉路は槍を持ち替えて応じる。
手と手が繋がり、むき出しの魂同士が接触することで、互いの魂を支配する能力が、同一の魂が接続されて黄泉路の中に少年の全てが。少年の中に黄泉路の全てが流れ込む。
『……』
「……」
互いに握手をしたまま無言、されど、その中では思考すら飛び越えた無限の会話が成り立っていた。
「いいの?」
やがて、身を引く様に手を離した少年に黄泉路が問いかける。
少年は淡く笑って、
『確認するまでもないよ。僕は君、君は僕。なら、新しく大成功した君の望みは僕の望みでもあるんだから。その為なら、既に役割を負っている僕がその席に座るのに何の躊躇もいらないだろ?』
それが結論だった様に、ふたりの間に言葉が途切れ、黄泉路が少年に背を向けて槍を自身の世界へと向けた。
たちまち、仄暗かった世界が槍先から色を描き出す。
蒼銀の光が黄金色に染まり、その光が世界を照らして全てを蘇らせてゆく。
銀砂に飲まれていた銀河が星の瞬きを取り戻し、太陽が煌々と燃え、地球が緑と青に色づいて。
青い空、豊かな山河、荒れた砂漠、未開の樹林。
立ち並ぶビル群、眩く照らす電灯、長閑な住宅街。
そして――
『迎坂黄泉路、君は――』
少年の声を背に聞きながら、黄泉路もまた、黄金色の光に溶けて行った。