13-67 想念因子世界
結晶に飲み込まれた黄泉路の意識が不意に浮上する。
閉じられた瞼を透過して薄ぼんやりと明かりに包まれているのを理解した黄泉路はゆるゆると瞼を開け、周囲を確認する様に瞳を左右へ動かした。
まず、黄泉路が認識したのは白。
何もない。
ただ、ぽっかりと世界に開いた空白の中に浮かんでいる様な錯覚に、黄泉路はすぐにこれが肉体による視覚ではないと気が付き、意識を切り替える。
次いで視界に映ったのは、眩いまでに四方が果てまで輝きに満ちた結晶の世界。
はるか下界、足元に広がる沈黙した並木道。人気のない街。停止した川。
自身が浮かぶ空白の空の上に存在する揺らめくことなくただあるばかりの太陽と月。
あらゆるもの、感覚が捉える全ての存在が想念因子結晶で構成された世界――否、世界そのもの。
「――」
体は、動く。
首を動かし、身体を見下ろす。
身体の感覚が魂のそれに近い事から黄泉路は自身が結晶の中を漂う魂、能力の核そのものなのだと理解する。
同時に、この視界は世界を呑み込んだ想念因子の内側から見ているものなのだと察するに至った黄泉路は呆然と世界を見つめていた。
「(本当に世界がひとつになってるんだ。誰もいない。ただ、あるだけの、世界)」
音はない。音を立てる存在がそもそもここには居らず、風はおろか大気すらも存在しない以上、結晶で模られた樹木が葉を擦らせるようなこともない。
見渡す限りの地平全てが想念因子結晶特有の輝きに彩られた、どこまでも続く様に見える世界に、ぽつんと漂う様に浮いた黄泉路は今の自身に内側が存在せず、ただ、その身がそのままあるだけという空虚感に内側が寂しいような凪いだ感傷を抱くが、すぐに、目の前に広がる代り映えのない世界を見つめてハッとなる。
「(待って、変わり映えしない世界……? どうしてこの世界は止まったままなんだ?)」
我部は言っていた。世界を新しく作り直すと。
であれば、この光景こそが我部の求めた世界なのかもしれないと黄泉路は考えるも、すぐに自分の存在がここにあるという理由でその結末を否定する。
「(誰もいない、ただ街並みだけが保存された世界を我部が求めているのだとしたら、僕の存在だって必要ないはず。だとしたら――まだ終わってない!)」
剥き身の身体、そしてすべてが単一の想念因子結晶によって覆われた世界の中だからこそ、その主たる存在の位置は感じ取ろうとすれば即座に把握できた。
ならばすべきことは決まっていると、黄泉路は宙を蹴って勢いよく飛び出した。
眼下で街並みがぐんぐんと溶ける様に後方へ置き去られてゆく。
魂の状態、結晶の中に閉じ込められた概念としての世界の中では距離などあって無いようなものなのだろう。
黄泉路の身体が天高く、太陽と月が並んだ空白の天蓋にまで昇り詰めると、静止した世界の中で佇む様に下界を見下ろしていた我部が驚愕の顔で黄泉路を迎えた。
「やっぱり、僕がまだ存在していたことは想定外だったんだね」
「……まだ動けるとは」
黄泉路の指摘に、結晶を模った顔ではない、青年としての顔をそのまま人間の肉体に移し替えたような容貌に若返った我部は静かに呟いた。
肯定と取れる呟きに黄泉路は自身の推論が間違っていなかったことを確信し、我部はしかし、そんな黄泉路を見据えて大きく首を振る。
「しかし分からない。世界のすべては結晶に包まれ、あらゆる生命はおろか概念すらもこの世界へと集約され、元の地球という物質世界からは失われている」
我部の宣告とも問いかけともつかない言葉だけが無地の空間に染みわたり、黄泉路の鼓膜ならぬ知覚に言語を認識させる。
「君の目的はもはや達せられない。その上でまだ戦おうというのかい? 抵抗するだけの意味など、もうどこにも残ってはいないというのに」
もはや全てが終わっているのだと、自身の勝利を揺るがないものとして述べる我部の言葉は勝利宣言の様でも、降伏勧告のようでもあった。
その声音に棘がないのは、恐らく黄泉路に対して、世界の為に生まれた器としての少年に対しての、我部なりの憐憫であったのかもしれない。
けれど、黄泉路はその言葉を聞いた上でなお、
「意味ならあるよ」
拳を握りしめ、慣れた手つきで長物を扱う様に構えを取る。
黄泉路の身体の内からあふれ出した銀の奔流が腕を伝い、手から、構えに欠けたものを補う様に1本の馴染みのある槍が形成され、その黒と銀の穂先を我部に向け、黄泉路は一足跳びに我部へと刃を振りかかった。
「君ひとりで世界を救おうと?」
呼応するように世界を満たす結晶の一部が形を変え、我部の手に二振りの剣が落ちる。
だらんとした、構えすらない状態で黄泉路と対峙した我部がその隙だらけの所作に似合わない、光速にも近しい振りの速さで黄泉路の黒の刃を受け止めると、返す様にもう片方の剣を黄泉路の胴を薙ぐように振るう。
「グッ……!」
咄嗟に打ち合った槍先を軸に身体を捻り、宙返りする様に横薙ぎの上を取った黄泉路。
だが、その動作すらも見てから対応が間に合うらしい我部は冷静に剣の腹に新たに分岐させた刃を生み出して黄泉路の二の腕を浅く切り裂く。
「分かっているとも。今の君には誰もいない。よって勝負にすらならないのだと、君も理解しているんじゃないかい?」
ぶわっ、と。幻聴を感じてしまうほどに圧倒的な、能力の放射が至近距離で黄泉路を襲う。
剣先から発せられたそれは炎の弾、氷の礫、風の刃、土の杭。その他にも混ざり合って識別することすら無意味と思えるような暴力的な能力の数々が空間を染め上げる様に吹き上がる。
黄泉路が我部と戦い始めてすぐのころから我部が黄泉路に対して仕掛けてきていた圧倒的な物量による飽和攻撃。それを、
「ふっ、くっ……!」
黄泉路は空中でステップを刻み、我部から距離を取りながら――取らされながら、というほうが正確だろうが、今の黄泉路には少しでも距離を空けるほかなく――僅かに出来た隙間に身体をねじ込み、槍で受け止め、打ち払いながら止む様子のない弾幕を耐える。
「今の私は世界そのもの。であれば、こういうことだって出来る訳だ」
「ガ、ッ!?」
突如発生した横殴りの乱気流に飛ばされた黄泉路を待ち構える様な光の柱に飲まれて全身が灼ける様な熱に侵される。
槍を握りしめる感触だけを頼りに飛び出した先、視界が戻った瞬間に頭上から降りかかった豪雨が全身を叩いてその身を穿つ。
「(世界そのものが敵……っ、それ自体は2度目だけど――!)」
纏っていた黒の学生服は身体に纏わりついた襤褸切れと言われても納得してしまいそうなほどに損傷し、その内側にある身体も至る所から赤黒い粒子を零しながら。
黄泉路は高高度から叩き伏せられるように地面に押し付けられたまま、ぎりぎりの所で意識を保っていた。
その背に銀に輝く巨腕は生えない。身体機能の上限を超える様な膂力も失われ、自身の内側から力を借りることも叶わない。
それらすべては黄泉路の内から消え失せ、世界に溶けてしまったが故に、黄泉路はひとり、自らに同化した銀の槍だけを頼りに身を起こす。
「……何故、そうまでして立ちふさがろうとするんだい?」
辛うじて立ち上がった黄泉路を見下ろし、我部は心底分からないと怪訝な顔を浮かべたまま黄泉路へと問いかける。
我部の目に映る黄泉路は既に満身創痍――身体こそ少しずつ修復はされていても、それは内側から能力の根源とも呼べる魂そのものを使って補修した、取り繕った姿でしかなく、その損傷が進めば進むほど疲弊していくのは自明――であり、唯一残された武器である黒銀の槍も、数多の能力を受けた事でその構成要素たる想念因子結晶は欠け落ち、刃は半ばから抉れるように削れていた。
万に一つも勝ち目のない戦い。その上、黄泉路は他者の願いを背負って戦うと言うが、今この世界に他者は存在しない。
戦う理由など何一つなく、今この瞬間に投げ出してしまっても誰も文句を言わないだろう状況なのに、何故。
「僕がまだ。ここにいるから」
「まさかとは思うが、居なくなった人たちの為にとでもいうつもりかい?」
我部は黄泉路の諦めの悪さに呆れる様な声音を響かせる。
「それは理由になっていないと、理解しているかい? 私はこの力を使って新たな世界を作り出し、そこに君の能力を用いて命を流し込む。君が私の力になりさえすれば世界は新たな一歩を踏み出すことができるというのに、君はいつまでも終わった世界、終るべき世界に拘泥してその妨げをするんだい?」
諦めの悪さを諭す様に我部が降伏勧告を告げるが、杖の様に地面に突き刺して身体を支えていた槍を、ふらふらと構えながら黄泉路は薄く笑う。
「なんだ。やっぱり、僕が諦めなきゃ、お前は先には進めないんだ」
状況にそぐわない、挑発する様な笑みに我部は苛立ったように吼える。
「いいや、今ここで君を叩き伏せ、すり潰してしまえばそれで事足りる! その自我を折り無垢な能力そのものを私の世界に溶かしてしまえばそれで終わりだ!」
黄泉路を存在ごとねじ伏せる。そう宣言するや否や、我部が剣先を天に向けると同時に星が――太陽が降り落ちる。
それはいつかみた魔女の再演。もしくは、世界そのものの終焉にも似た光景が眼前に広がる。
立ち上がったばかりで折れた穂先の銀の槍では受け切れない。そう確信してしまっても、黄泉路はただその場から動くことなく迎え撃とうと槍を構え――
黄泉路の眼前を遮るように。
眩い恒星を阻む様に。
見知った少女の影が黄泉路の前に滑り込んだ。
『やっと追いついた』
直接意識に響くような幼い声に、黄泉路はハッと目を見開く。
黄泉路が反応するよりも早く、降り落ちてきた太陽が炸裂し、熱が黄泉路を焼かんと迫る中、半透明に透けた白髪がふわりと広がり、
『死なない人は死なないよ』
腕そのものが刃に代わる様に変化し、その刃自体が発熱する様に光を帯びて一閃が迸る。
迫っていた太陽が縦に割れて黄泉路の横をすり抜け、結晶の街並みを薙ぎ払いながら彼方へと消えてゆく中、
『歩深は出来る子なので』
我部が揮う簒奪の能力。その根底になった、成長を司る想念因子の生みの親。
成長性――それだけに特化した、黄泉路とはまた別種の生存性能の化身たる少女、水端歩深が振り返りながら自信満々にそう告げた。