4-1 依頼1
むき出しの鉄筋コンクリートによって覆われた室内に断続的に打撃音が響く。
簡素なジャージ姿の黒い髪の少年が、その幼さを残した顔を苦悩に歪め、驟雨の如く打ち据えられる猛攻に防戦一方に立たされていた。
――防戦一方、といっても、少年が防御に徹しているわけではない。
むしろ少年、黄泉路は防御する素振りすら見せずに終始攻勢に出ている。
しかしながら相手の青年に掠る事すらなく、一撃繰り出す毎に2発攻撃を食らうという現実をして、防戦一方と呼ぶのはあながち間違っていないだろう。
「攻撃する先を決めてから行動に移すまでが遅いですよ。もっとタイムラグを減らして」
「はい!」
「行動が素直すぎます、視線で私にどこを攻撃するか宣言しているような物ですよ」
「――ッ!!」
激しい乱打の応酬の合間に掛けられる青年、誠の言葉に、黄泉路は口を噛み締めて蹴りを放つ。
些か様にはなっているその所作も、誠にすればまだまだ児戯の域を出ず、あっさりとあしらった上でカウンターとして足を掴んで関節技を決める。
関節技を決められ、黄泉路がコンクリートの床へと引き倒された所で、この場に似つかわしくない電子音が鳴り響いた。
「おや。もうこんな時間ですか」
「……みたい、ですね」
「では今日はここまでという事で」
「はい、ありがとうございました」
黄泉路の足をがっちりと固めた腕を放し、誠は埃を払うように手で服を叩きながら立ち上がる。
その額には汗が滲んでおり、心地良い疲労感を感じるような笑みを浮かべていた。
遅れて立ち上がった黄泉路はといえば、先ほどまでは汗どころか血飛沫を飛ばしていたはずであるが、立ち上がった時には出血や打撲痕など影も形もなく、汗ひとつ滲まない澄ました顔を精神的な要因からくる疲れによって僅かにゆがませている程度であった。
黄泉路が夜鷹支部の一員となり護身術講座を受け初め、痛覚という弱点を克服してから更に2ヶ月。
現在は苦痛に耐える訓練から、本格的に敵対者に対処する為の組み手が中心となっている。
「それでは私は汗を流してきますので、後片付けをお願いしますね」
いつものように言い残し、誠はタオルで額の汗を拭いながら訓練場を後にする。
その背中を見送り、黄泉路は訓練場の清掃を始める。
模擬戦とは言え、誠と黄泉路の手合わせは熾烈を極め、主に黄泉路の物ではあるが、血液が床を転々と汚していた。
脇によけてあったバケツにためられた水にデッキブラシを浸し、水気を含んだブラシで床をこする。
付着してから間もない血液はそれだけでコンクリートから剥がれ、決して狭いといえない訓練場を隅々まで清掃する間に1時間ほど経過し、時刻は午後6時を指す頃となっていた。
雑巾で水気をふき取り、黄泉路はほぅっと息を吐く。
連日の日課ではあるが、訓練終わりにこれだけの労働を課せられていても苦にならないのはやはり能力の恩恵であろう。
「(よし、今日のお仕事終わり。っと)」
多少汚れたバケツの水を捨てる為、訓練場脇に設置された水道へと向かい、清掃道具の後片付けを行った黄泉路が部屋を出ようとした際。
コンコン、と。訓練場と強化ガラス一枚で隔てられた控え室とも呼べるような小部屋からガラスをたたく音が響く。
訓練に清掃と、集中していた黄泉路はそこで初めて隣の部屋に誰かが居る事を知り、誰だろうかと首を向ける。
時折カガリや美花が担当でない日に進捗の見学にやってきたり、標が茶々を入れる為にやってくる事は以前からあった。
しかし、今日に限っていうならばカガリは1週間ほど前から長期の仕事だと言って出かけてしまっており、標はと言えば、前日にまたもや夜更かしをした様子で今日一日は篭りっきりであろうと果から聞かされていた。
美花に到っては1ヶ月前の訓練を最後に各地を転々としながら任務をしているらしく、黄泉路はとうとう今の今まで謝る機会を得る事ができていない。
黄泉路はその場にいる人物の心当たりが浮かばずに首をかしげ、ガラス越しに見つけた相手を見て思わず目を瞠る。
「あ、れ。リーダー?」
ガラス越しに映るのは、相も変わらずサングラスにスーツ姿といった、どこのマフィアかと思うような風体の灰色の髪の壮年の男性。
よく見れば隣にはテディベアを抱えた少女、姫更の姿もあり、どうやらリーダーは黄泉路が作業を終えるまで待っていた風であった。
黄泉路の意識が向いた事を確認したリーダーが黄泉路を手招く。
「(……? なんだろう)」
どうやら自身に用事があるらしいと察し、黄泉路は手早く片付けを済ませて隣の小部屋へと向かう。
「やぁ、久しいな。迎坂黄泉路」
「ご無沙汰してますリーダー」
「……ひ、久しぶり」
「――! ……久しぶりだね。姫更ちゃん」
部屋へと入った黄泉路へとかけられるリーダーの声に挨拶を返せば、続くか細い少女の声に黄泉路は僅かに驚いたように姫更を見た。
もじもじと自身の父親であるリーダーの背後に隠れて様子を伺うような姫更に、黄泉路は柔らかな笑みを浮かべて挨拶を返す。
黄泉路から挨拶を返された姫更は恥ずかしそうにテディベアで顔を隠してしまい、リーダーと黄泉路は思わずその仕草に苦笑をもらす。
「姫更は私と共に各地を転々としている物でな。その所為か人見知りの気が強いが、仲良くしてやってくれ」
「あ、はい」
「……さて、早速だが、今日はある提案をしにやってきた」
「提案、ですか……」
すっと雰囲気の引き締まるリーダーに、黄泉路は思わず身構えるように問い返した。