13-62 嵐雷賛歌
何故戻ってきた、そう問われた青年は長く伸ばされひとつに括られた金髪を風に弄ばせながら結晶に覆われた足場へとふわりと降り立つと、赤のカラーコンタクトが入った吊り気味の瞳を我部と黄泉路、双方へと一瞥させる。
青年――瀬河裕理は街中を歩いていても違和感のない着崩したシャツに濃紺のスキニーといったラフな格好で当然の様にその場に立っていた。
飛行機の航空高度よりもはるか上空にあり、今や星海の方が近いのではないかと思うほどに暗闇に散りばめられた光点が近く見えるこの場所で。
物理現象を超越したような光の屈折を帯びた結晶が上下四方全てを覆い尽くし、それら結晶の空間と食い合う様に広がった暗闇の水底が囲いもなく当然の様に揺蕩う非現実的な光景が広がるこの場所で。
何の変哲もないように、ただ、すぐ傍の駅から降りて来たばかりとでも言わんばかりの態度で結晶の主と幽世の支配者の間に降り立っていることそのものが、裕理という青年がそこに並び立つに相応しい異常性の証明でもある様に映っていた。
壁に大穴が空いたことでごうごうという大気が荒れ狂う凶暴な音と、気圧の変化を伴った底冷えする様な冷気が空間に広がった戦闘の残滓を押し流す様に吹き抜ける中、裕理は我部に顔を向けて口を開いた。
「このタイミングってーのは知らねぇけど。先生が世界中に宣戦布告したの聴いて飛んできただけだぜ」
我部の問い、そして今しがたの裕理の返答から、黄泉路は瀬河裕理が階下や結晶迷宮に配置されていた人員の様に我部に恭順している訳ではないと推察し、両者の会話に口を挟むことなく成り行きを見守る。
味方であるという楽観はしていないが、だとして、我部と裕理が手を組むかは半々といった所だろうと黄泉路は考えていた。
どうやら我部も、元より純粋な援軍として期待していたわけではないらしく、黄泉路へと向けた意識はそのままに裕理の言葉に重ねる様に問いを向ける。
「ならば余計に、今更何をしに来たんだい?」
その問いに含まれた意図に気づけたのは、言葉を向けられた裕理のみだ。黄泉路は彼らの事情など、触り程度にしか知らないのだから当然だが、裕理は特段不快になるでもなく首を傾げ、
「ん、あー。そうだなー……」
どこから話すべきかとでもいう様に。ちらりと再び黄泉路へと視線を向ける。
「そーいやさ、お前あの時いただろ?」
「あ、うん」
急に水を向けられ、黄泉路が当惑しつつも頷くと、裕理はじっくりと周囲を見回す様に――壁の外の、別の何かへと目を向ける様にしながら語りだす。
「悠斗が言うからさ。自由にしろって。だから一旦、世界を見て回ってた」
裕理は語る。
研究所の中しか知らなかった自分に、外の世界を教えてくれた悠斗。
いつか一緒に外の世界を旅するのが夢だったと。
悠斗が隣にいることが当たり前で、何処に行こうと絶対についてきてくれると、無意識の部分ですらそう確信していたにも関わらず、もはや、裕理の隣に悠斗はいない。
だから最後に悠斗が残した遺言だけは、叶えて見ようと思ったのだと。裕理は普段の調子とは打って変わった静かな声音でふたりへと語って見せる。
はじめは日本国内を。大雑把に観光地の上空を飛んで、田舎の道を適当に歩き。その後は海外――世界中の人が多い所、人がいない所、気の向くままに大空を飛び回るその能力を活かして文字通り縦横無尽に。
瀬河裕理は旅をした。
「その旅で何か見つかったのかい?」
さほど長くもない。元より悠斗に比べて言葉に拙く精神的にも幼い面も多かったこともあって長い会話が苦手でもあった裕理のこれまでの経緯に、我部はゆったりと合の手を入れる。
その言い方はまるで教師であるかのようで。
本来のふたりの関係性を示すような言葉に、黄泉路は我部が何かを準備している、その予感が頭から剥がれないにもかかわらず、両者の間に割って入ることを躊躇ってしまう。
「何か。か……」
我部の問いの含意は幅広く、受け手によって何を主眼に置いたものが変わるものだが、裕理にとってはそれは自明であるかのように小さく呟き、やがてゆっくりと。
――ゾッとするほど感情の抜け落ちた瞳で我部を見据えた。
「何も」
静かな、しかしその声音の奥底には確かな激情が渦巻いていると感じさせる――さながら密封された高圧縮の気体のような、一度封が開いてしまえば爆発する様に中身を吐き出してしまいかねないような、そんな危うさのある静かな言葉が、暴風が吹き荒れる空間においても当然の様にスッと耳に届いた。
「何処行ってもさー……。隣に悠斗がいねーんだよ」
我部を見据えたまま、我部の、結晶の更に奥に見えないナニカを探し出そうとするような鋭い視線を向けたまま、裕理は独白の様に言葉を並べる。
「悠斗が居なくなってからずっと、俺の世界は停まったまんまなんだ。何処に行っても、何をしてても、悠斗の声が聞こえねー。悠斗の匂いを感じねー。悠斗が居たら何言ったかなーとか。悠斗だったらこの場所のことも知ってたのかなーとか。ずっとだ。世界を見れば見るほど、この世界にもう悠斗がいねーって突き付けられる」
結局、何よりも悠斗に依存していたのは自分だったのだと。
それを愛おしく感じていたのは自分だったのだと。当たり前に横着して、悠斗が追い詰められているのも知らずにのうのうと過ごしていた自分なのだと。
「だからさー。俺、こんな世界好きじゃねーし、滅ぶとか言うなら勝手に消えちまえって思ってる」
「裕理くん……」
血を吐く様な裕理の言葉に呼応するように、室内に凪が広がってゆく。外壁に開いた穴から無限に吹き込み、内部を荒らすような暴風がぴたりと止まって耳が痛いほどの静寂が支配する空間に落ちた、裕理の悲痛な告白に黄泉路は思わず同情してしまう。
誰かが隣にいない。その苦しさを、黄泉路はよく知っていたから。
「私に協力してくれるのかい?」
だからこそ、もし裕理が敵に――悠斗の直接の仇である自分と敵対することに――なったとしても、黄泉路は受け入れるべきだと覚悟を決める。
我部の誘う様な問いかけの返答に耳を澄ませ、この瞬間に戦闘を再開しても問題がない様に領域の中の砂を、枝葉を、昆虫達を意識する黄泉路の耳に、
「やなこった」
裕理の声だけが、ただただ強く響いた。
「グッ!?」
ぶわりと風が吹き荒れる。それは外壁の穴から吹き込み、内側の大気を吸い上げようとする自然摂理のものとは違う、明確に裕理という支配者の意思に呼応した激情の暴風が裕理の周囲を包み込み、鎧の様に見えないはずの大気が可視化する程の組成の変化、密度による光の屈折を帯びて渦を巻く、その余波としてのものだ。
「もーこの世界に悠斗はいねー! だけどな! 最期にひとつだけやり残したことがあんだよ!!」
ごうっ、と。
空気そのものが爆発したような音を残して跳躍する様に一瞬で距離を詰めた裕理が、巨大な結晶から生えた我部の上半身、その顔面に向けて拳を振りかぶる。
「先生を一発ぶん殴る、ってなぁ!!!」
「それが、返答というわけかい?」
ゴガッ、と。気体と固体がぶつかったとは思えないほどの激しい音と衝撃が大気を伝播して黄泉路の髪を揺らす。
同時に飛び出した黄泉路が裕理の足元から滑り込む様に駆けよって黒の穂先を切り上げれば、今まさに裕理へと反撃しようと構えた左腕を引き付けて火花を散らし、右の杭剣に阻まれた裕理はその隙にふわりと宙を舞って剣の射程から離脱する。
「やれやれ。私は君達を利用はしたが、それでも欲求は叶えて上げてきたつもりだったんだがね。何が不満なんだい?」
「あー?」
至極、当然の様に疑問を口にする我部に、裕理は呆れる様な、まさかそんなことも分からないのかと言わんばかりの声音で見下ろしながら、嵐の鎧を纏った靴裏で踏みつぶす様に足を振り下ろす。
「俺が悠斗を間違えるわけねーだろうがそこに居んのは分かってんだよぶっ殺す!!!」
もはや言葉の接続すら投げ出した激情のまま、踏み降ろした足の動きをそのままに強烈な局所的下降気流が空間そのものを押しつぶす様に吹き荒れる。
黄泉路は咄嗟に、裕理が間合いから離脱するのと同時に身を引いて床に槍を突き刺して堪える体勢に入っていたお陰でその暴風の余波を受け流すが、
「っ」
真上から、まともな防御もなく受け止めた我部の結晶で模られた顔が強張り、咄嗟に上半身を庇おうとした杭剣の腕がバキリと関節部から砕けて落ちる。
「はぁ、はぁ。――チッ」
一瞬のできごとだった。局所的な下降気流による大気の圧縮、暴風の大槌は所詮は大気。常にその出力を維持するよりは一点に集中させた一瞬の暴力として運用するのが最も適しているが故に、暴威は一撃で過ぎ去り、その余波のみが強く空間をかき回すに留まる。
そんな余波すらまとめ上げて自身の周囲に凪を作り出す裕理が小さく舌を打つ。
一撃入れたにも関わらずその傷すら当たり前の様に生えてきた新たな腕と、転がった結晶が溶ける様に大本の結晶に吸収されるという光景を見せつけられれば裕理としてはダメージを与えた、これで一発殴ったとはとてもではないが言えたものではない。
「……とりあえず、利害は一致してるって見ても良い?」
「ああ。お前にも色々言いたいことはあるけど我慢する」
「ありがとう」
横に並び立った黄泉路が声を掛ければ、裕理は意外にも大人な対応で自らの横に立つことを許し、自身の動きと連動する風の鎧の拳の調子を確かめる様に拳を握り我部を睨みつける。
「我部は能力を吸収するあの結晶に直接触れるのは危ないから気を付けて」
「知ってる。さっきも風が少し吸われた」
仲間と呼ぶにはぎこちなく、敵の敵にしては互いに理解のあるやり取りを遮る様に影が蠢き迫ると、黄泉路と裕理は弾かれた様に左右に散開する。
「おやおや、暢気な話し合いはもう終わりかい?」
我部の煽る様な言葉と共に戦闘が本格的に再開され、大穴の開いたアメノミハシラ最上階に閃光が迸った。