3-23 夜鷹の蛇8
標が食べ終わった後の食器を洗い、黄泉路は自室へと戻っていた。
自室、といっても、特に何があるわけではない。
欲しいといえば大抵の物――それこそゲーム機などの嗜好品であっても――を買い与えてくれるとの事ではあった。
しかし、ただ居候して保護されているだけでは心苦しいと思って進んで旅館の手伝いなどの雑事を行う黄泉路である。
そんな小心者の黄泉路がしっかりと貢献しているわけでもないのに何かを強請るという行為を自身の中で容認できるわけもなく、結果として黄泉路の部屋はあの実験施設と比べれば幾分かはマシ、といった程度の家具しか置かれていない状態となっていた。
六畳ほどの室内にかろうじて生活感を漂わせるいくつかの家具でさえ、当初は必要最小限でかまわないという態度をとっていた黄泉路に見かねたカガリが無理やり搬入して据え置いた為、使わなければ逆に申し訳ないという状況を作られて初めて使用し始めたという代物である。
簡素なベッドと何も載せられていないシステムデスク、間に合わせにと渡された衣類を収納した2段重ねのプラスチック製の収納箱。
見慣れた室内。ベッドへと身を投げ出せば、コンクリートの無機質な天井と、中心に取り付けられた蛍光灯の明かりが眩しく感じ、リモコンで明かりを落としてじっと眼を閉じる。
「(……)」
標の言葉を思い返し、黄泉路は静かに自身の能力について思考を巡らせる。
「(僕の能力は、僕の望んだもの……じゃあ、僕の望みは?)」
思い返すのは、能力をはじめて発現させたあの瞬間。
意識が遠のいて、自分は死ぬのだろうと自覚したあの時。
自身は確かに“死にたくない”と思った。
だが、その死にたくないと思った理由は、果たして何であったか。
生への執着か。はたまた、未練か。
だが、黄泉路は緩やかに首を振って自ら提示した選択肢を否定する。
「(違う。確かに、僕は死にたくなかった。でも、生きたい理由も、未練も、後悔も、なにか、しっくりこない……僕は……何を……)」
暗い室内で瞳を閉じたまま、黄泉路の思考はぐるぐると渦を巻く。
いつの間にやら、黄泉路の意識は深く深く沈んでいった。
皮膚に纏わりつく水底の様な感触に、黄泉路の意識はふと覚醒する。
「ここは――」
ごぽり。と。口を開いた瞬間に浮き上がる気泡。
しかし、まるで感じられない息苦しさに、やはりここは夢なのだろうかと納得する。
それもそのはず、その光景を黄泉路が見るのはこれで3度目。
初めて能力に覚醒したあの夜と、自身が生まれ変わったのだと、夜鷹支部の面々に認めてもらうのだと。そう決心して自ら引き金を引いた時。
どちらも暗く澄み渡った水底に漂い、または立っていた。
死後の世界、直感でそう思った世界はどこまでも静かで、足元の流砂はさらさらと蒼銀に煌いていた。
2度目に降り立った時よりも心地よく感じる水底、綺麗だとすら思える自らの心持ちに内心で驚愕しながらも、黄泉路はここが自らの能力の源泉、原風景なのだと本能で理解していた。
以前は差し込んでいたはずの天からの光は今はなく、ただただ暗く、澄み渡った静寂の世界の中、黄泉路は自身の格好に視線を落とす。
「……あれ?」
すでに3度目になるこの場所での自らの状態の、ある点に気づき、黄泉路は思わず声を上げる。
こぽこぽと開かれた口からあふれた気泡が再び上方へと上がっていった。
初めて降り立った際、それは道敷出雲という少年が死の間際であった時。
その格好が直前に身に付けていた学生服であったことには何の疑問をさしはさむ余地はなく、また、そのような些細な事に気を配るだけの余裕はなかった。
2度目に降り立った、自らの頭部を撃ち抜いた時には、現実の黄泉路は確かに【夜鷹の止まり木】にて貸し出される浴衣を着用していたはずであったにも拘らず初めて死んだ時と同様の学生服を身につけており、その事を不思議に思っていた。
そして3回目となる今回も前回同様に学生服の姿であった。しかし、前回と違いゆっくりと観察、考察する時間のある今、黄泉路は制服のとある一点に目を向ける。
「これ……」
黄泉路の身を包んでいる学生服、それ自体は黄泉路が良く知る学校指定の学ランであり、校章も含めてその点はまず間違いがない。
しかし、黄泉路が気になったのは、その学生服についた傷跡。
右袖がまるで“獣が掴んだ様に引き裂かれた”様にざっくりと裂けており、中の白地のシャツまで引き裂いたそれに、黄泉路は強烈な既視感を覚えていた。
そう、それは、黄泉路がここへいたる、最初のきっかけとなった狼男。その爪から逃れる際に傷つけられた箇所であった。
「あの時の傷……でも、何で……」
疑問が気泡となって上がってゆくのを気にもせず、黄泉路はなぜ自分がこの場所にいるのか、何故この格好なのかを考える。
死後の世界とも思えるような暗く静かな空間。
死にたくないという一心で、得た能力の後、まるで死ぬ前の状態で固定化されたような自身の姿。
体力作りとしてトレーニングに励んでも一切疲労する事も、逞しくなったと言う実感もない自身。
「……もしかして、僕の能力は――ッ!?」
ゾワリと。黄泉路の背筋を何かが駆け抜けた。
悪寒。そう呼ぶべき感覚に黄泉路は思わず身を震わせる。
自身のいたろうとしていた結論はいまだみえず、もう少しで手が届きそうであった所に突き刺さった怖気。
それが、自身の本能が発する無意識の警告である事を察した黄泉路は震える身体を叱咤して首を振った。
「それよりも、今は、この能力をどうしたらきちんと使えるのかだ……」
横道にそれるな、そう自身を言い聞かせる事で悪寒の原因から思考を遠ざければ、身を包んでいた凍るような悪寒はどこかへと消え、再び周囲は温度を感じない澄んだ水へと変わる。
再び神経を集中させた黄泉路は、現状の自分に何ができるのかに思考を落とし込んでゆくのであった。