13-35 陽は高く、されど遠く
三肢鴉の人員が忙しなく動き始めた光景を尻目に、黄泉路は唯陽を伴って公園の外縁を囲う雑木林を抜け、近くのビルの軒先で足を止める。
「何か飲む?」
「あ、はい……。では、コーヒーを」
自販機を指し、問いかける黄泉路に唯陽は緊張しているのを悟られている事を自覚しつつ、それを解そうとしてくれている心配りまで理解した上で黄泉路の言葉に甘える。
ガタン、と。自販機の受け取り口にふたつの缶が転げる音が響く。
屈んで取り出した黄泉路が片方を手渡せば、唯陽は躊躇うことなく蓋を開けてちびちびと中の黒々とした液体を口に運んだ。
「こうしたものは、なかなか飲む機会が無くて新鮮ですね」
「やっぱり缶飲料とかは普段飲む機会ない?」
「ええ。ものは知っていても、実際にこうして缶を開けて飲むとなると……」
ちらり、と。視線を先ほどまでいた公園の方へと移せば、敷地のギリギリ端、目が届きはしても声は聞こえないだろうというほどの距離から唯陽を見守る白峰の姿があり、唯陽の視線の意味に気づいた黄泉路は小さく苦笑する。
「唯陽さんが大事にされているのは相変わらずみたいだね」
「ええ」
会話が途切れる。
とはいえ黄泉路の側からこれ以上別の話題を振ることもない。唯陽にとって大事な、切り出すのに勇気のいる話なのだろうと察しているからこそ、横道に逸れた会話を続けて切り出すきっかけを潰してしまわないとも限らない。
若干の気まずさはあれど、互いに飲み物に口を付けるなどして間を埋めて唯陽が話を切り出すのを待っていれば、ややあって唯陽は両手で缶を握り――それはまるで祈るような所作にも似て――黄泉路を真正面から見据えて口を開く。
「こうして改めてふたりきりでお話しするのは、いつぶりでしょうか」
唯陽と黄泉路が出会ってから、そこまで時間がたったわけでも、機会が多かったわけでもない。
だが、唯陽にとって、黄泉路との出会いは何よりも代え難いもの。
僅かな間を置き、小さく息を吸って決意を固めた唯陽は、
「……私、黄泉路さんが好きです」
そう、告白した。
「……」
黄泉路は黙したまま、真剣な唯陽の顔を見つめ続けていた。
唯陽の好意、告白が意味することを違うことなく理解した黄泉路だからこそ、その言葉の返しは重い。
安易に返すことは憚られる空気の中で黄泉路はようやっと口を開く。
「その気持ちは嬉しいよ」
黄泉路の口から零れたその言葉が遠回しに意味しているものを察した唯陽は僅かに瞳を揺らす。
だが、その上で全てを出しきってしまおうと、初めからこうなることも分かっていたことだからと、締め付ける胸の苦しさを噛みしめながら淡く微笑んで、
「お父様に大事に育てて頂いた自覚はありますわ。それが世間一般でいう過保護の部類であったことも。私のこれまでの人生は確かに暖かなものでした。けれど、それは室内から窓の外の景色を見て外を知った気になるような、どこか閉じたものだったことは否定しようがありません。……黄泉路さんは、そんな私を外に連れだしてくれた。それが例え打算だったとしても。一時の事故のようなものだったとしても。私にとっては、世界が変わるほどの衝撃でした」
滔々と語る唯陽は思い出を抱きしめる様な優しい、当時の喜びを思い起こすような表情で、その姿に、黄泉路は断ったにも関わらず申し訳なさを感じてしまう。
「気に病む必要はございませんわ。私が勝手に懸想しただけのこと。私にとっては生まれて初めて命を懸けてこの身を守ってくれた憧れの人でも、黄泉路さんから見れば、救ってきた多くの内のひとりである自覚はありますもの」
「そんなことは……」
「出来る事なら、一緒に終夜を盛り立てて欲しかった」
叶わぬ希望、自身でもそう断じているからこそ、本心を最後の最後で打算に覆い隠す様に寂しげに息を吐いた。
慰めるわけにはいかない。手を差し伸べるのは不義理であると黙り込んで、ただ聞くに徹する黄泉路に唯陽は数秒かけて内心に折り合いをつけたのか、表情を改めて世間話の様な調子で問いかける。
「参考までに、どうして私はお眼鏡に適わなかったのかお聞きしても?」
冗談めかした言葉だが、そこには一抹の本心が混じっていると感じた黄泉路は出来る限り誠実な、自分がずっと感じていた心の内を語ることにした。
「唯陽さんに不満があるわけじゃない。それだけは確か。どちらかと言えば、僕自身の問題なんだ」
まだ夏の残滓が感じられる温い風が吹く。
缶の冷たさがじわりと指を伝うのを膜一枚隔てた感覚で理解しながら言葉を紡ぐ。
「僕は……調べてると思うから分かってるかもしれないけど、この見た目でもう23になる。唯陽さんが年齢通りに外見が成長して行っても、僕は、ずっとこのままだ」
黄泉路の幼さを残す少年の顔立ちは成人しているとはとてもではないが言えず、ともすれば唯陽よりも年下にすら見えるほどに若々しい。
――若々しい、というよりは、事実、若い。魂が刻んだ最後に生きていた時間を再現しているに過ぎない黄泉路の肉体は、永遠に15歳を超えることがない。
それは黄泉路がいくら望んでも拡張されなかった能力の限界であった。
意味するところを理解している黄泉路は、しかし、その本質には触れず、
「僕は皆と生きる時間が違う。皆が最期まで生きて、寿命で亡くなったとしても、魂が向かう先で僕は今のままそこに居る。だから、僕は唯陽さんと一緒にはなれない」
「……そう。ですか」
「とはいっても、今はもうちょっと違う理由にもなるのかな。我部がやろうとしている事が完遂されたらさすがに僕でもどうなるかわからないし、それに、もしかすると、僕も戻ってこれないかもしれない。それくらい、今回の危険度は違うから」
だから唯陽も勇気を出して告白したのだろう。
そう言外に問うような言葉に、唯陽は僅かに呼吸を止め、遠景に見える、ビルの間からでもその威圧的な大質量でもって存在を主張する浮遊島へと視線を向けた。
「これから先、唯陽さんが相応しいと思える人ときっと出会える。僕はその未来も守るために、あそこに行く」
「ズルい言い方ですわね」
「ごめんね」
そんな言い方をされてしまえば、心の片隅にあった引き留めたいと、縋る様な気持ちさえも掬い上げられてしまったようで。
唯陽は力のない笑みを浮かべて黄泉路を見つめた。
「でしたら。私は笑顔で送り出さねばなりませんね」
「ありがとう」
「後方は私が。終夜財閥が全力を以て支えます。どうか、世界の未来をお願いします」
「うん。任されたよ」
はっきりと胸を張るように応えた黄泉路が踵を返す。
その先には、既に準備を終えて黄泉路を待っていたのだろう夜鷹の面々が佇んでいた。
黄泉路は彼らに合流すると、会話もそこそこに市街地の方へと駆けだしてゆく。
その背中を、唯陽は淑女教育が行き届いた綺麗な礼で送り出す。
黄泉路達の姿が完全に見えなくなった後、唯陽はゆっくりと顔を上げる。
既に公園のほうでは前線に出る人員は出払っており、三肢鴉の中でも後方支援を担当する人員や、漸く第一陣として駆けつけて来たらしい終夜の支援部隊などが合流して活気に溢れている喧騒が聞こえてきていた。
「お嬢様」
「すこし、冷えますわね」
そっと寄り添うように傍らに控えた白峰の声に、黄泉路の前では抑え込んでいた声音が小さく震えた。
やがて、ぽつりと、口元を抑える様に缶を持った両手を持ち上げた唯陽が顔を俯けて呟く様に声を滲ませる。
「分かっていた、はずなのですけど」
「……」
「振られるというのは、苦しいものですのね」
従者は応えない。
ただ、傍に控え若き主が感情を飲み下すまでの時間を提供する様に、傍らで佇んでいた。
暫くの間、僅かな風にすら攫われてしまうほどにか細い、息遣いにも似た嗚咽が続いた後、唯陽が静かに顔を上げる。
「こちらを」
差し出されたハンカチを受け取った唯陽は静かに目元に宛て、そこにあった痕跡を優しく拭い、静かに息を吐きだした。
「ありがとう。気持ちの整理はまだ掛かりそうだけど、私も、私の出来ることをしなくては。状況は?」
「はい。既に第一陣が合流して簡易避難所と救護室の設置が完了しております。それから、三肢鴉の先遣部隊からは逃げ遅れた民間人の救助も並行して行われていると報告が」
「わかりました。避難民の輸送はこちらで請け負うと三肢鴉に話を通しておきます。白峰はピストン輸送にかかる人員の手配を繰り上げて」
「畏まりました」
意識を切り替えた唯陽が、終夜の次期当主としての風格を帯びた所作で指示を出す。
「……」
「お嬢様?」
「行きましょう。時間は待ってはくれませんから」
一瞬、足を止めて市街の方へ――黄泉路達が走り去っていった方角へと顔を向けた唯陽に白峰が問いかける。
問いに答えず、唯陽は今度こそ公園へ。三肢鴉の後方支援所へと歩き出す。
そこには恋に焦がれ、大人にならんと駆け足で成長しようとしていた少女の姿はなく、ただ、為すべきことを成すために立つ、凛とした強い女性の姿があった。