13-21 一寸先の闇へ
突如頭に鳴り響いた甲高い少女の声に、逢坂愛の思考がぐしゃりと歪む。
「ぐっ、な、んなの――!?」
それは影という非物質に質量を付与して立体化させ、物質のように振舞わせるという破格の能力を精密に制御しなければならないという戦闘時において致命的ともいえる思考の混線。
『さぁさぁお聞きくださいなー、本日のホットチューンは雑踏の思考! 自我が振り落とされないよーにご注意くださーい!』
頭痛にも似た、自身の思考には存在しなかった声が突然脳内に響き渡る様に意識に差し込まれる不快感に頭を押さえる逢坂だったが、直後、爆音で――意識の上でのことなので厳密にいうならば音はないのだが――流れ込んできた無数の思考に悲鳴を上げる。
「あ、ぎっ、な、あぁ……!!」
もはや影を操る処ではなく、うずくまり、頭の中で鳴り響く老若男女入り乱れた声の濁流の中で自身の意識が流されないようにするのに必死とった有様で、逢坂は目を瞑り耳を塞ぐ。
『帰った■洗濯しなきゃ――あ、買■物忘れてた■日卵の特■日……』
『この■件が終わったら先輩が■ち込んだ案件■ヘルプ、それから部長が明■使う会■資料■作■――』
『■■さんと同じ電車だラッキー! いつ■ても可愛■よなぁ、あー、■き合■てー』
『――■■■、■■■■、■■……』
他愛ない日常の思考。
ひとつひとつしっかりと聞き分けてみれば、それらは何という事もない、今も表の世界でそれぞれの日常のいちページを歩む人々の、断片的な思考に過ぎない。
しかし、その量が10を超え100を超え、もはや巨大な音の塊、雑音の集合体と化してしまえばそれらは個々の言葉として判別することなど出来るはずもない。
「やめ、て……わたし、の、なか、で、さわがないで……!!!」
『■■……■■■■、■■■――』
『■、■■■■■■■、■■■■■。■■■■……■■■……』
「や――」
『■■』
『■■■■■■■■』
「やめ」
『■■■■■■■■■■■■■――』
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――』
都会の雑踏であっても方々から聞こえる喧騒を煩わしく思う逢坂が、そうしたものをより直接的に、指向性を持った人々の思考を頭に流し込まれてしまえば――
「ああぁぁああぁあぁああぁああっ!!!!」
絶叫。
幻聴の濁流に自我が押し流され、自分が何を考えているのか、自分は何をしているのか。今自分は何処にいるのかすらもわからなくなった逢坂の身体が、喉をかき鳴らして精神の悲鳴を出力する音が室内に響き、遙が見せる偽りの祭囃子をかき消して空気を震わせた。
「ぁ――」
びくんっ、と。最後に大きく身体を痙攣させた逢坂の頭が、身体が、ぐにゃりと支えを失ったように床へと投げ出され、その長い髪がばさりと広がる。
「どうなってんだ、いったい……」
広がった黒髪を投げ出して暗がりに倒れる逢坂の姿はホラー映画そのものといった恐ろしさがあり、思わず引き攣った声で遙が様子を窺っていれば、その頭に緩い空気感で標の声が響いた。
『作戦通り、陽動ありがとうございましたー! お陰でうまーく近寄れましたよぅ!』
見れば、遙の幻影によって透明の様に景色に上書きされている標が遙の方へと歩み寄ってきており、その挙げた手の意図を察して遙も手を上げて応えれば、ぱしっ、と乾いた小さな音が鳴る。
「いや、それは良いんだけどよ……いったい何したんだよ……」
標的には割と気合の入ったハイタッチだったらしいそれを軽々と受け止めながらも、遙の視線は未だ倒れ伏した逢坂に注がれていた。
どうやって倒したのかという疑問と同時に、いつ復活するのか分からない脅威から目が離せないといった事情が相まって、小さく呻く様な問いかけになってしまう。
『んー。それはーですねー。私の能力ってぇ、私が直接触った相手か、その触られた相手が接触した相手を軸に思考を盗み聞いたり送受信したりする能力なんですけどー。……例えば、水が満杯に溜まったプールがあるとして、その水をコップ一杯分の器にむりやり注ぎ込もうとしたらどーなると思います?』
「どう、って、普通零れる、んだろうけど、そういうコトじゃねーんだろ?」
『はい。ここで言うコップは人、プールの水は無数の人間の思考とか思念ですけど、これをむりやりコップに流し込み続け、溢れる先が無いとなったら……』
「コップが割れる」
『正ー解ー。正解したはるはるには特別賞として1万オペ子ちゃんポイントを進呈しまーす』
コップとはすなわち自我であり、数多思念の集合体たる水面にとって一滴に過ぎない個人の自意識など、意識の濁流の中に無防備に晒されれば溶けて混ざって失われるが如く。
自我を壊された人間がどうなるか。それは目の前の光景が良く示していた。
再び意識を取り戻したとして、果たして、なんの影響もないと言い切れるだろうか。
「……」
普段と変わりない、気安い調子の冗談交じりの雑談にも似た言葉で告げられる、あまりにも恐ろしい能力の運用法に遙は思わずゾッとして、標の顔をまじまじと見た。
仮面越し、お互いに表情などわかるはずもないのだが、仮面越しの標の眼に見つめられているのを自覚し、いまもこうした思考が標には筒抜けなのだろうと察した遙は途端に気まずくなって視線を逸らしてしまう。
『いーですよ。怖い、って思うのも当然ですしぃ』
「あ、いや……悪い」
言葉だけの否定など、思念を通して本音が筒抜けになっているだろう標に対しては無駄であるとわかっているが故に、遙はただただ言葉を短く謝罪する。
だが、標はそんな遙にゆるりと首を振り、
『はるはるが怖いと思った上で、それでも私を仲間だからって信じてくれようとしてるのも分かるから。良いんですよ。それで』
「……」
『実戦経験もない私の提案を、作戦を。聞いて、怪我してまで私が成功するように動いてくれたはるはるが、悪いわけないじゃないですかぁ』
念話だからこそ伝わる、お互いの本心。標の伝える思念が本音を語っていると直接理解できるからこそ、遙は仮面の内で僅かに苦い顔をする。
フォローされるべきは自分ではない。そう思ってしまう。
だが、それを繰り返したところで押し問答だろう。遙はあえて話題を切り上げるように、標の狙いについて問いかける。
「そういや、成果はあったのか?」
『んー。あるといえばある、ないといえばない、ですかねぇー……』
遙の言う成果――遙に隠蔽を施してもらってまで、標があえて戦場に残った理由の返答は曖昧なものだ。
思わず、緊張がほどけた事で痛みが気になりだした腕を止血しながら遙は微妙な顔になってしまう。
『私が念話を直接結びつけて、思念を読み取れば対策局の人間が知らされている機密情報が分かりますし、この場に配置されてる人間ってことは我部と近しい人ってことでもあるのでぇ、我部の計画についても何か知ってるかもしれないから、その辺を探るために直接触る必要があったんですよぅ』
「それで部屋入る前にオレにとどまるから隠し続けて気を引いてくれなんて言ったのか」
『ですです。……ただ、この逢坂愛って人、心酔してる分だけ我部の扱いも駒というか、使いやすい部下止まりだったというか、あまり詳しい話はされてないみたいなんですよねぇー』
「なんつー哀しい事実。やめてやれよ……」
『しょーがないじゃないですかぁ。ともあれ、分かった事もありますよぅ。我部は今回の計画をめちゃくちゃ大事にしてるらしい、とか』
「ふぅん?」
聞くに、我部とやらはこれまで何度も黄泉路に関わる事件や暗躍をしていたらしく、政府にも強く働きかけるだけの権力を持つ、遙にしてみればフィクションの悪の親玉とでもイメージすべき相手だ。
その我部の肝入りの計画とくれば、大層大事なのだろうとは考えられるものの、具体的に何をしようとしているのか、何がどうなるのかはさっぱり見当がつかない遙である。
「とにかく、ここに用がないならさっさと進むか。人手は多い方がいいだろ?」
『ですねーっと……』
話を切り上げ、動き出すことを提案した遙に同意した標だが、不意に顔を遙たちが入ってきた入口の方へと向けた。
「あら。ここは真居也君だけなのかしら」
『私もいますよーぅ』
「ああ、そういう……」
「とりあえず、敵は倒したところっすね。先に進もうかって話してたところなんで」
「そうね。情報の共有は進みながらしましょう」
各々が歩き出し、黄泉路達を進ませた扉から先へと向かう。
やはりといえばやはり、扉の先は壁沿いに緩く螺旋を描く通路で構成された吹き抜けがあり、前回や前々回ほどではない短い通路から接続された部屋へと慎重に足を踏み入れた3人は、踏み入れたその場で足を止めた。
「……誰もいない?」
遙の小さな呟きすら明瞭に聞き取れる程、静けさに満ちた先ほどまでの部屋とは打って変わった明るい小部屋が3人を迎える。
照明によって光量が担保された室内は一見すると誰かの私室のようですらあり、運び込まれた使い始めて間もないだろう家具の様子からこの場を利用していたのはひとりだと彩華はあたりを付ける。
だが、それ以上に遙や標の目を引いたのは、それらの内装を台無しにする戦闘の痕だった。
『銃の痕ーですねーこれ。薬莢もそこらに転がってますしぃ、戦闘があったのは間違いないですねぇ』
「だったら、ここにいた奴はどうなったんだ? 黄泉路が倒したにしても影も形もない理由になんねぇし……」
「とにかく、素通りできるなら先に進みましょう。もしかすると迎坂君はもう水端さんの下までたどり着いているかもしれないわ」
慎重に、しかし人気がない事もあって大股で歩き出す彩華を先頭に、遙と標も後を追うように部屋を通り過ぎて通路の先へと進む。
何もない部屋、それはまるでそこにいた存在すらなかったものであるように、沈黙のまま彼らを見送っていた。