13-8 それぞれの正義2
通路の端、曲がり角へと消えてゆく何かを追って歩き出した黄泉路達が角を曲がる。
「……いた」
常群が遠方の地面付近を照らす様に向けたライトの輪郭の外、丸い光がぼんやりと闇に溶けるような薄暗い境界の中に浮かび上がった一対の金色の瞳は、その位置の高さや大きさからおそらく猫のものだと、目を凝らす黄泉路達は結論付けると共に、ある希望的観測が思考に浮かび上がる。
「シェルターは最近できたものってのを踏まえても猫が運良く出入りできるようなものじゃなかった、つまりだ」
「別口で地上と繋がってる道があるかもしれないということか」
「とにかく、見失わない様に追いかけよう」
ライトに照らされるのを嫌ったからか、身軽な足取りで通路の奥へと歩いて行ってしまう猫を追って一行は暗闇の中を進む。
角を曲がり、先へ進む。遠く離れていく猫の背を、その名残として揺れる尻尾を見逃さぬように追いかけながら、永冶世は内心で自問自答していた。
「(彼は彼なりの答えを持って生きている。そう決断させた俺達が何を言っても彼には響かないし揺るがない)」
それは良い。それ自体、永冶世が何を言おうと詮無き事であるし、別段、永冶世は黄泉路に罪を認めさせたいわけではないのだから。
「(俺は法律を基準に正義を求めてきた。それはこの社会に生きる上で、大多数の人間にとってそれが正しいからだ。だが――)」
そうした正義すら、一部の上位者によって容易く歪められてしまう事を、永冶世はここに至るまでに身を持って知らされてきた。
そんな、自分自身ですら疑義を抱いてしまうような正義を押し付けることなど、もはや永冶世には出来なかった。
「(なら俺は、彼と何を話したかったのだろう)」
会わなければ。その一心で探していた時には漠然としか考えていなかった事だ。
自身の掲げる法治国家としての、人類社会としての正義。その恣意的な運用によって生み出された被害者に対して、同じく正しい事を成そうとしているならば自らが不当に貶められた正義の回復に協力してくれるだろうと、心のどこかで信じ切っていた。
「(いや、考える事を避けていただけだな……。もはや公的な正義など、彼にとって優先されるべき評価基準になっていないということに、もっと早く気付くべきだった)」
永冶世はもはや気力だけで足を動かす中で、足音とどこかから響く小さな水滴の音だけが支配する静寂が思考を纏める一助になっている事を実感する。
「……俺の方が先に折れるべきだったな」
ぽつりと、こぼれた言葉がやけに大きく響く。
実際には囁くような掠れた声量であっても、それ以外に碌に音のない地下空間では殊更大きくなったようで、視覚が制限されたことで他の感覚が研ぎ澄まされていた黄泉路と常群の耳には明瞭に届いていた。
「あん?」
「道敷出雲君……いや、迎坂黄泉路君というべきか」
「なんですか?」
不審気に眉根を寄せる常群を他所に、永冶世が前を歩く黄泉路へと声をかける。
その改まったような声音に黄泉路は足を止めて振り返れば、常群は一瞬黄泉路の奥に続く闇の中へと視線を投げかけて、静かに流れを見守るべく開きかけた口を噤んだ。
「――すまなかった」
永冶世の口から零れた短い一言。聞き違い様もない言葉に、黄泉路は僅かに目を大きく開く。
「何に、対してですか」
「初めからだ。私は君を追い詰めてしまった。無実の君に罪があるとして、本当に傷害を起こさせ、果ては殺人にまで手を染めさせてしまった。これは私が知らなかったからなどとは関係ない。ただ、事実として君につらい目に合わせてしまった」
「……」
歩くのも辛そうな、体力も限界に近いだろう永冶世の謝罪を受け、黄泉路は沈黙する。
今更謝られたところでどうしようもない事ばかりであり、黄泉路としても、出雲としても、もはや戻ることのできない場所まで来てしまっている以上、許すも許さないもないというのが実情だ。
それは永冶世とて理解している事だろうと思っていただけに、黄泉路は謝罪を求めたこともないし、相手にどうしてほしいと要求することもなかった。
ただ、常群と長年協力して、常群を自分の元へと引き合わせてくれたこと。その義理立てと、立場を得た永冶世が未だに自分に拘っているという点で会ってみてもいいと思った。それだけだ。
永冶世は息を整える様に呼吸を深くし、改めて闇に溶けるような黄泉路の瞳を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「私は今でも、正式な手続きの下で解決を図りたいと思っている。君を陥れた陰謀を明かし、君が陥った状況も鑑みた上で、君がこれまでしてきた行為を法の下に照らす。そうすることで初めて、君がこの社会に、世界に戻ってこられると思っている」
かつて、東都テロの幕引きの際に交わした短い応酬となんら変わりない永冶世の主張に、黄泉路は内心で落胆する。
その主張が社会通念上正しいものだとしても、そこに当人が価値を見出していなければ絵空事と変わりない。
黄泉路が話を打ち切って先へ向かうかと僅かに足を浮かしかけたタイミングで永冶世は言葉を被せる。
「――だが、それはあくまで法が正しく機能していると、君の信用を得る事が先だった」
「それで、どう信用を得ると?」
浮かしかけた足、その重心を再び降ろし、常群に支えられる形の永冶世を真正面に見つめながら問いかける黄泉路に、永冶世は揺ぎ無く見つめ返した。
「糺す。我部がしてきたことも、国が関わった事も、俺が清算する。その過程を見ていて欲しい。君が、俺に任せて良いと思える。その時まで」
言いたいことはそれが全てだと、合わせていた目線を下げることで目礼と共に視線を外し、永冶世が話を区切る。
本当ならば頭も下げたかったところだが、現在の永冶世は気力で意識を保っているに等しく、ここで不用意に頭を下げてしまえばそのまま意識が持っていかれそうだと思ったが故であった。
黄泉路はそんな永冶世の様子に沈黙を保っていたが、やがて静かに踵を返す。
「……頑張ってください。僕だけの為でなく、皆の為にも」
「――! ああ、勿論だ」
背中越しの黄泉路の声からは感情が読み取れないが、その言葉が意味している感情は永冶世にも容易に理解できた。
確固とした返事をする永冶世の身体が傾ぎそうになるのを改めて力を入れて支えた常群はふと、黄泉路の肩の向こう側、通路の奥へと再び視線を投げかける。
「っつか。猫大丈夫か? 出雲、追えるんだよな?」
ここまで立ち話になってしまっていたが、口を挟むのも野暮だろうと我慢していた常群は話に区切りがついたことを皮切りに黄泉路へと問いかける。
とはいえ、何も常群も自分の命運をかけてまで永冶世の問答に付き合うつもりはない。これまで黙って問答に付き合っていたのは偏に黄泉路の能力に期待を寄せていたからだ。
黄泉路は周囲の魂を知覚できる、それはここへ到る経緯からも聞き及んでおり、常群がそのことに疑義を挟むことはない。
例え抗能力素材によって探知精度が落ちているのだとしても、現在歩いている地下道は抗能力素材が開発されるよりも以前から東都の地下にある廃道である。地上ならばいざ知らず、地下であれば探知も阻害されないだろうという期待と信頼を基に黄泉路達の問答を見守っていた常群がそう問えば、黄泉路は少し困惑した様に、しかし不安を払拭する様に通路の先を指差した。
「何かね。僕らを待ってるみたいなんだ」
「はぁ?」
暗闇へと差された指先を追って通路の先、闇に慣れた視界でもなお捉えることのできない暗がりへと目を凝らし、ライトを慎重に動かした常群が怪訝な声を上げる。
だが、ライトの輪郭が再び猫特有の闇の中に光る瞳を見つければ、黄泉路の言葉が信憑性を帯びてますますその事実に疑問が沸き上がる。
「そんなに賢いことあるか?」
「さぁ? ……ともかく、彼女を待たせちゃ悪いし、行こう」
「何でもいいけどさ」
事実、猫がそこにいて、自分たちは詰んでいない。それだけでも十分なのは確かであるため、一行はそれ以上留まることもなく歩き出せば、猫はその視線をふいっと黄泉路達から外して再び曲がり角の奥へと消えて行ってしまう。
「……? (なんで僕、あの猫が女の子だって分かったんだろう)」
ふと口をついた言葉に、黄泉路は内心で首を傾げる。
だが、いつまでも地下にいるわけにもいかない。
疑問を呑み込んだ黄泉路が歩き続けること暫し。閉鎖空間の中で時間間隔が麻痺し始めた頃。
――タン、タン。――タン、ガタン。――ガタンガタンガタン。
規則的に繰り返される、耳なじみのある音の反響音に一行の顔つきが変わる。
「常群、この地下道が改修された地下鉄網の一部だって話だけど」
「おう。今でも使われてる地下鉄の整備用通路とは地続きのはずだ」
見れば、通路の先で壁際に座ったままこちらを見つめていた猫がたんと駆けて行く。
その後ろ姿を追いかけた黄泉路は、古く老朽化した地下道の壁が比較的新しく作られたものに変わっていることに気づくと、後ろから遅れてやってくるふたりへと声をかける。
「地下鉄に出られそうだよ」
「はぁー……良かったー……っと、もう少し辛抱してくれよ。さすがにここで倒れられても困るし」
「ああ、これ以上手間はかけない」
安堵の息を漏らす常群と、その肩に体重を預けながらも力なく笑う永冶世を非常用の緑色の明かりの下で見た黄泉路もまた、そっと息を吐いた。
帰路への目処が立った一行が気を緩める光景を見た猫は静かにその場を離れて行く。
黄泉路の視界の端、蛍光灯に照らされた茶トラの尻尾がするりと影に溶ける様に見切れていた。