13-6 揺らぐ正義
照明の確保された施設の通路からじめじめとした地下道に舞い戻った黄泉路達が歩く小さな音だけが不規則に反響する。
その足取りは永冶世に肩を貸す常群に合わせた非常に緩慢としたもので、地下施設に居た人員があれきりとも限らない事もあって黄泉路は暗闇に意識を研ぎ澄まし集中した様子で前を歩いていた。
「……」
そんな後ろ姿を、痛む節々や気怠い意識を脇に置いて見つめる永冶世は口を開きかけ、しかし、すぐに何を口にすればいいのかと喉元まで出かかった音を呑み込んだ。
これまでの経験上、何がきっかけで目の前を歩く少年がフッと掻き消える様に離れて行ってしまうかわからない永冶世は、この機会を逃してはならないと気負うが、それはそれとして、どう口火を切ったものかという考えが頭を離れない。
黄泉路と永冶世の関係は複雑だ。
お互い、好ましい間柄とはとても言えないだろう。
間を取り持った常群のお陰で成立している様な微妙な距離感、今まさに置かれている状況が端的に関係性を表しているようですらあった。
常群が足元に向けて照らすライトだけが唯一の光源として、数メートル先すらも闇が飲み込む閉塞感に満ちた通路は、どこからともなく反響する水滴の音が耳元で聞こえている様な錯覚すら抱きそうになるほどに静寂に満ちていた。
肩を貸して歩く常群は、永冶世が内心で抱いているであろう焦りや葛藤を何と無しに察しつつも、あえて助け舟を出すことなくただ無言で今にも闇に溶けてしまいそうな黄泉路の背を追うことに注力する。
常群からすれば、対面を果たした今となっては最低限の義理は果たせたことになる。その上で何と言葉を交わすかは永冶世次第であり、黄泉路がどう受け答えをするのかも、常群からすれば干渉すべき事柄ではないと言えた。
「止まって」
不意に、前方から囁く様な声が呼びかける制止の声がする。
足を止めた黄泉路が通路の曲がり角、壁に身を預ける様に密着している姿に俄かに緊張が走る。
「……追手か?」
「それと新手だね。後ろから追いかけてくる気配が少しと、進行方向から向かってくる気配がそれなりに」
答える黄泉路の声に淀みはなく、情報共有と警戒を促すための言葉であるとわかるそれに、常群はこれからの方針を問う。
「距離は?」
「ざっくりでいいなら。今のところ後ろからの方が近いけど、ほとんど誤差。このまま進むとどっちかと鉢合わせた時に挟み撃ちになるかも」
「先に後ろを潰してから進むか?」
とんとん拍子に進む会話に割り込む余地もなく、また、自分が出来る提言は常群が先んじて口に出している事もあって永冶世はただ聞きに徹するばかりだ。
「じゃあふたりはここで休んでいて。念の為明かりは落として、そこの分かれ道の方で」
「できるだけ早めに頼むぜ」
「うん。任せて」
方針が決まるなり、黄泉路は足早に来た道へと駆けて行き、その姿はほとんど一瞬で闇に包まれて見えなくなる。
ただ、遠くに向けて響く軽快な足音だけが小さくなってゆくのを見送った常群は永冶世を連れて通路の脇に伸びた細い枝道へと身を寄せると、休憩とばかりに永冶世を床へと座らせてその隣に腰掛けた。
「……なぁ」
「何すか?」
ぽつり、と。
終始無言だった永冶世の呼びかけに、常群は手元で明かりの消えたライトの具合を確かめながら返事をする。
「俺は、なんと声を掛けるのが正解だったんだろうか」
いつの言葉に対してだ、とは。常群は問わない。
ただ無言で、永冶世が言葉を吐き出すのを待つかのように沈黙だけが横たわる。
「言葉が、出てこなかったんだ」
掠れた声が普段よりも疲労を濃く映しているようで、闇の中に溶ける小さな声音は隣に腰かけた常群にぎりぎり届く程度。
だが、その言葉に込められた内面の葛藤は重く常群に縋るようにも聞こえ、常群は小さく鼻を鳴らす。
「分からねぇ訳じゃねぇっすけど」
常群とて、永冶世とは短くない付き合いである以上、人となりはそれなりに知っている。
永冶世が真に警察――国家の治安維持の要として民衆の安寧の為に働いていることは理解していた。
むしろ、そこらの不良警官や腐敗した政治家、私欲を貪る企業人などよりも清廉な人物だと掛け値なしに評価できるだけの好人物であるとすら認識していた。
「それは俺じゃなくて、出雲に言うべきことじゃねぇの?」
だが、だからといって常群は永冶世を慰めたりはしない。
黄泉路が失踪し、濡れ衣を着せられてから実際に手を汚すことになるまで追い詰めた、暗躍している者が居たとしてもその片棒を担いでいたことは事実だ。
今更迷っていたところで、その答えを提示してやれるほど常群は中立ではないし、そうして誘導した答えに永冶世が縋るのならば、それは我部が永冶世を使っていた頃となんら変わらないだろう。
だからこそ常群は端的に、話す相手が違うだろうと告げるに留めて目を閉じる。
「……そう、だな」
常群の内心がどこまで伝わったかは定かではないものの、永冶世も、自身が頼るべきでない相手に縋ってしまった事に気が付き口を噤む。
ふたりが黙り込めば、自然と周囲の環境音――遠くからほんの微かに聞こえる残響――が耳を掠め、程なくして、ひとりぶんの足音が近づいてくるのが聞き取れるようになった。
「お待たせ。先を急ごう」
やがて、闇の中で銀の槍を明かり代わりに携えた黄泉路が声を上げて自らの存在を示せば、常群は永冶世に再び肩を貸して立ち上がる。
「おう。お疲れ」
「そっちはどう? 何か変わりは?」
「いんや。特には」
脇道から歩み寄ってきた常群と軽く言葉を交わした黄泉路が槍をかき消して歩き出そうとした、その瞬間。
「――っ!」
銀の残光の端に捉えた予兆に、咄嗟に黄泉路が常群と永冶世を脇道へと突き飛ばしたと同時に、通路の奥から吹いた風切り音と共に突き飛ばした黄泉路の伸びた腕を宙に攫う。
「出雲!?」
目の前で親友の腕がちぎれ跳ぶ光景に常群が思わず声を張ってしまうが、黄泉路が一瞬でも遅れていれば跳んでいたのは自分たちの首だったかもしれないと考え至るには十分すぎるもので。
「チッ。勘のいい奴」
「――随分と、なりふり構わないんだね」
断面から零れる赤黒い塵を新たな腕へと再構築しながら、通路脇へと退避させたふたりを庇うように黄泉路は下手人へと向き直る。
「なりふりなんてのは見栄が張れる場所でこそだろ」
闇の中、うっすらと浮かび上がるシルエットは成人男性にしてはやや小柄、しかし、声の低さからどうにも大人の様にも思える人影に対し、黄泉路は即座に飛び掛かるようにコンクリートの床を踏みしめ、クモの巣状のひびを入れながら、壁面や天井までをも足場に立体的な軌道で飛び掛かる。
「それは――同感!!」
「チッ、閉所でも強いのは聞いてねぇぞ」
悪態を吐きながらも身を屈めて黄泉路の拳を寸でのところで躱した男が反撃とばかりに闇の中でも揺らめく様に光沢を帯びる銀の指輪を嵌めた人差し指を振るう。
「ッ」
指先から鞭のように撓るナニカが空間に撓み、空気を裂いて肩から先、拳を突き出した腕ごと黄泉路を切り飛ばす。
叩きつけられた衝撃と腕を失った重心の変化から軌道が想定とズレて男のすぐ傍へと着地せざるを得なくなった黄泉路は即座に軸足だけを残して男の足元を払う様に回し蹴りを繰り出すが、その時には既に男は黄泉路の手足よりも広く距離を空ける様に飛び下がっている最中であった。
接近戦を好まない堅実な立ち回りに、身体を修復しながら黄泉路は思わず眉を顰める。
とはいえ、黄泉路が表情を歪めているのは男の立ち回りだけが理由ではない。
「その能力、あの影使いの」
以前にも見た事のある質量を伴った影。規模は違えど、闇の中、影の多い場所でこそ真価を発揮するそれを身に付けた敵が送り込まれた現状に警戒度を跳ね上げた黄泉路の呟きに、男は静かに影の鞭を振るうことで応じた。
「ッ」
ヒュン、と。短い風切り音が響く。
黄泉路は距離を詰めるより先に飛び下がり、鞭に追いすがる様に通路を跳ねながら自身の胸元に当てた右手で引き抜く様に銀の槍を紡ぎ出す。
「ふっ!!」
暗闇の中、銀の粒子が影の鞭を打ち払った槍の穂先から火花の様に小さく爆ぜ、通路を仄かに照らし出す。
淡い明かりの中、黄泉路が庇うように身を翻す姿が常群、そして永冶世の目にくっきりと映る。
片腕を失った状態で槍を振るい、有機的な動きで無尽蔵に振るわれる黒いナニカを打ち払う姿はふたりを庇う為のものに他ならず、遅れて腕を再生させてもなお、脇道の前で鞭がふたりへと向かない様に足を止めている姿は防戦を強いられているのが明らかであった。
「(されて嫌な事が分かってる相手が単純に嫌なんだよね……!)」
常群を――というよりは、永冶世を守りながら、黄泉路は内心で愚痴を零してしまう。
そうしている間にも降りかかる鞭は執拗に黄泉路の背後へと向けられており、抗うすべのない弱者から仕留めようとしている意図は明らかであった。
もしかすれば、永冶世が本当に何か、彼らにとって不都合なものを見聞きした事でなりふり構わず消しにかかっているのかもしれないが、今はそれを確かめる術もない。
「どうして」
そんな黄泉路の背へと、ぽつりとつぶやく様な、かすれた声が問いかける。
「そうまでして俺を守ろうとする」
明らかに狙いが自身を向いている事は永冶世にも理解できていた。だからこそ、黄泉路も、常群も、自分を囮にすればもっと取れる手も増えるだろうにそれをしない。
自分はふたりにとって、そうまでして庇おうとする仲間ではなかったはずだと、無意識のうちに零れ出た永冶世の言葉に、黄泉路は振り返りもせずに短く断言する。
「――僕が」
「っ」
影の鞭を弾いた銀の穂先が暗闇に描く軌跡が、黄泉路の黒髪を、シルエットを闇の中に映し出す。
「そうすると決めたから」
その姿はどこまでも鮮明で、周囲に溶けてしまいそうなほどの黒々とした風貌とは無関係に輝いている様に見えた。