12-68 暗雲去りて
ふたりを見送った黄泉路が空を見上げたまま立ち尽くして暫く。
雨もすっかりあがり、夏の暑さが気勢を取り戻して不快な湿気が肌に纏わりつく。
「……」
遠くでは緑に沈んだ村の跡には未だ火種燻る煙が立ち込めていたが、元より枯れ草でもなければそこまで延焼することもなく、ましてや雨によって水気が増している今の状態ならば放っておいてもある程度の所で落ち着くだろうと予測できた。
だが、それらの冷静な分析も、今の黄泉路からすればどこか他人事だ。
短い時間、浅い関係性に過ぎないはずの対策局のふたりの能力者の在り方は歪だ。けれど、もしボタンをひとつ掛け違えていれば、彼らは自分の別の姿だったのかもしれないと思わされるものであった。
いつまでそうしていただろう。黄泉路が我に返った――現実に足を付けたのは、背後の廃病院から轟音が響いてからだ。
「!」
そういえば、ルカはもうひとり引き受けてくれていた。
つい先ほどの出来事、無視できないはずのことがすっかりと頭から抜け落ちていた黄泉路はハッとなって振り返る。
病院の3階が一部崩壊し、外壁が内側に引き込まれるように崩れている異様な光景の中心、瓦礫の山に足を置きながら姿を現した人物の言葉に黄泉路は安堵する。
「……よぅ。そっちも終わったか」
そう言って3階という高さからひょいと飛び降りて黄泉路のすぐ傍に重さを感じさせず降り立った青年、明星ルカの姿は別れる前に見た格好とは打って変わったものだ。
トレードマークだろうゴーグルとロングコートはなく、内に着ていたズボンと涼し気なシャツだけの姿のルカは見るからに仕込んだ武器を使い切った様子だが、幸いなことに目立った傷は無いようであった。
「無事、みたいで良かった」
「そっちもな。……なんかあったか?」
ルカの全身を見てそう判断した黄泉路に対し、同じく様子を見ていたのだろうルカが黄泉路の雰囲気を察して問いかける。
服装こそ学生服になっているものの、別れる前と変わらぬ姿であることから傷の有無などは判別できない。それでも察せてしまったらしいと、気を遣わせたなと黄泉路は苦笑を浮かべ口を開く。
「ええ。さっきの対策局の雷使い……悠斗くんの事は倒しました。だけど――」
歩深が紗希を連れ避難したであろう御遣いの宿本部跡の館へと向かう道すがら、黄泉路は語る。
自分たちと同じ、神の子計画の中で産まれ、その後我部によって研究所に押し込められて育てられた彼らの事を。
羽搏く勇気も持てず、それでも抱えた大事なものの為に命を尽くした、ひとりの青年を看取ったことを。
「……」
「もし、ひとつボタンを掛け違えていたら。僕があっち側だったかもしれない。って」
締めくくる様に呟いた黄泉路の言葉に、ルカは応えなかった。
自らの意思で母親を連れ、御遣いの宿の壊滅から逃げ延びたルカだからこそ、口を挟まず、ただ、黄泉路と共に前を向いていた。
「こっちも。あの女は我部に拾われた研究所育ちだって話だったぜ」
「そう、ですか」
「まぁ、アイツの場合、洗脳だか刷り込みだかはあったんだろうが、ヤンデレっぽかったのは当人の気質じゃねぇかな」
「え、えぇ……?」
茶化す風ではないものの、言葉の端から戦闘中の苦労を噛みしめる様な調子がにじみ出るルカの態度に黄泉路は思わず気の抜けた困惑を息に吐いてしまう。
そんな黄泉路の頭を、ルカがポンポンと数度軽く撫でる様に叩く。
「こっちも逃げられた手前偉そうなことは言えねぇけどさ。――俺たちの人生は俺達の物だ」
「……そうだね」
一歩、先んじて進み出したルカの後を追う様に黄泉路も歩幅を広げる。
既に館は目先に見えてきており、そろそろ思考を切り上げてこれからのことを考えなければと意識し始めていると、正面に見える館の様子が変化している事にふたりは目を見開き、
「急ぐぞ」
「うん!」
門の先、出発時にはまだしっかりと機能していたはずの館の扉が何か、大きな刃物のようなもので切断されたように切り裂かれて外側へと崩れ落ちている光景を目にしたふたりの足取りが大股歩きから一瞬で駆け足になる。
文字通り跳ぶように数歩ごとに数メートルを移動する、速度だけを切り取って慣性を歪ませたルカの足取りと、異常強化された強力な脚力で大地を蹴り飛ばす様に駆ける黄泉路が並走して館へと飛び込む。
「戻ったか」
「無事だったんだねーぇ」
出立前と変わらず、サングラス越しで達観したようなまなざしをふたりへと向ける斗聡と、明らかに安堵した様子で息を吐く紗希の姿がふたりを出迎えた。
「歩深ちゃんは?」
真っ先に、それこそふたりの労いの言葉に応じることも忘れて開口一番に問う黄泉路に、一緒に避難したはずの紗希は僅かに斗聡へと視線を向けた後、
「……連れて、いや、ついて行ってしまった……と、言うべきなんだろうねーぇ」
「ついて――って、一体誰に」
「我部幹人」
「っ!?」
困惑する黄泉路は、端的に答えを示す斗聡の言葉を一瞬何の事か理解できなかった。
いや、理解はしていても、それをすぐさま飲み込むことが出来なかったというべきだろうか。
「な、んでそんな――」
「水端歩深が元々我部の手中にあった存在だと、知っていたはずだぞ」
それはそうだ。
なにせ、あの研究所から連れ出したのは他ならぬ黄泉路であり――
「ッ、標ちゃん!」
「!?」
思わず、音として出てしまった黄泉路の切羽詰まった声音に隣に居たルカが一瞬驚いたように視線を向けるが、黄泉路はそんなことを気にする余裕もないという様に新生夜鷹の隠れ家に待機しているはずの標へと呼びかける。
『はいはい! どーしましたー?』
「(今すぐ隠れ家を移して! できればまだ使ってなくて共有もされてない場所に!)」
『え、え。どーしました!? 何かあったんですぅ!?』
「(歩深ちゃんが我部について行った……!)」
『えっ、ちょ、それどーゆー状況ですかぁ!? ま、まってくださいねぇ、すぐに姫ちゃんに繋いで荷物纏めます。移動終わったらまた連絡入れます、それでいいですか!?』
「(うん、よろしく。あと、帰りの足もお願い)」
『あ、あー、了解しましたー。呼び出しにはいつでも応じられるように気を付けてますから、何かわかったら随時教えてくださいねー』
「うん、ありがとう……はぁ。ひとまず、皆無事みたい」
黄泉路が思い出したのは、旧夜鷹――山中の旅館に拠点を構えていた際のこと。
拠点に対して襲撃を受け、皆で決死の脱出を行う中で大切な人が何人も犠牲になった。あの痛ましい事件のことを思い出していた。
あの時も歩深が持ち出す様に進言した保存データに足がついていた事が懸念されていた。
もし、あれが歩深の狙い通りだったとしたら。今回は現在使用している隠れ家が襲撃されるのではないか。黄泉路がそう心配してしまうのも当然のことであった。
だが、同時に黄泉路はそうではないかもしれないとも思っていた。
「あの白いのは裏切り者だった、ってことで良いのか?」
「……どう、なんだろう。詳しい話を聞いてないから何とも言えない。けど――」
もし。水端歩深が本当に最初から裏切り者――否、我部の手の者であったならば。
ここまで自分たちを泳がせていた理由はなんだろう。
拠点の場所にしろ、横のつながりにしろ、三肢鴉の再結集に関する動きはむしろ歩みを遠ざけ、姫更が中心になって動き回っていた。
その代わりに歩深が夜鷹の足代わりとなり黄泉路の遠出に付き合っていたこともあり、やろうと思えばいつだって今回の様に黄泉路を遠方に置き去りにし、その間に我部に連絡を取って対策局と示し合わせて隠れ家を急襲し、他のメンバーが滞在中に一網打尽を狙う事だって出来たはずだ。
にも拘らずそれをしない、それどころか、今までの歩深の態度は余りにも自然で、到底自分たちを裏切っていたようには思えなかったことも、黄泉路が彼女を裏切り者と断ずることができない理由でもあった。
「そう焦るな」
斗聡の短い言葉が、思考の波に攫われそうになっていた黄泉路の意識を引き上げる。
「リーダー……」
「我部はすぐに行動を起こすつもりはない。ましてや今更拠点の襲撃などという些事に拘ることもないだろう。であれば必然、水端歩深もそうした行動に出るとは考え難い」
「リーダーは、何を知っているんですか」
理路整然と、まるで前提条件であるとばかりに語る斗聡の言葉に黄泉路は頭を振る。
これまでずっと示唆する様な言葉、導く言葉ばかりで本質的な話をしたことがない斗聡に対して、黄泉路は真剣なまなざしで問いかける。
真っ直ぐに視線を受け止めた斗聡はサングラス越しの瞳を黄泉路に向けたまま口を開く。
「推測も混じるが、今回のことで我部の真意が変わっていない事は理解した」
「我部の――」
そういえば、と。黄泉路は思い出す。
病院跡の地下で紗希が口にしかけていた、神室城斗聡、御心紗希――そして我部幹人が抱いた思想。
「上代縁の思想を継ぐ……っていう、あの?」
「ああ。私達は各々のやり方で縁の理想を実現しようとした。いや、しようとしている」
「能力者と非能力者が共に生きて行ける世界……でも、じゃあ」
今の我部がやっていることは、全くの正反対なのではないか。
そんな疑問が黄泉路の内に湧き上がると同時、その内心を透かしたように紗希は首を振った。
「ああ。今の幹人君は間違ってる。縁さんの遺言とも言える思想を捉え違えて、進み続けてしまっているんだよ」
「遺言……」
能力者が差別されない世界。それを求めているはずの我部が何故、権力の中枢に潜り込んで能力者を実験動物にしているのか。
どう捉え違えたらそうなるのかと目を白黒させる黄泉路に、斗聡は静かに答えを差し出す。
「差別があるのは両者が存在するからで、全ての人間が片側へとよれば、必然差別は消えてなくなる」
「そんなこと……」
「できないと思うか?」
無理だ。そう答えるのは簡単だ。だが、紗希が偶然開発してしまった常人を能力者にする道具が、その結論を鈍らせる。
「いや無理だろ」
口を開かない黄泉路に代わり、ルカが呆れた様に口を挟んだ。
その答えに斗聡はちらりとルカへと視線を向け、
「何故だ?」
「んなもん。差別の仕方が変わるだけだろうが。全員が能力者ならそりゃ能力者に対する差別はなくなるだろうが、そしたら今度始まんのは強い能力者が弱い能力者を差別する世界が来るだけだ」
事も無げに答えたルカの、人の醜さとも弱さとも言える結論に斗聡は小さく頷く。
「そうだ。だからこそ、縁亡き後に一度、顔を合わせた際に私達は我部の思想を否定した」
「やっぱり前から繋がって」
「勘違いしてもらっちゃ困るよーぅ。顔を合わせたのは縁さんが亡くなった後に1度きり、しかもそこで大決裂してからはお互い不干渉だったからねーぇ」
それからは互いに、我部が潜り込んだ政府という潜在的な脅威から身を守る為にも潜伏し続けてきた斗聡と紗希は、それぞれのやり方で縁の遺した思想を継ごうとしていた。
「我部の目的は、全人類を能力者へと移行させ、その後に能力系統別優位論に基づいたすべての能力を統括する存在による完全統治」
「っ!?」
「んなこと――」
できるわけがない、そう口にしそうになったルカは、しかし、斗聡と紗希の表情に一切の稚気がなく、本気でそれが可能であると専門家の目線で語っていることがわかってしまい、出掛かった言葉が行き場を失って不気味な沈黙が場を支配する。
「その為に、歩深ちゃんが必要になったから連れ帰った。今まで追手が無かったのは、まだ計画に組み込む段階ではなかったから……?」
「逆説、我部が水端歩深を求めたという事は、計画が実行寸前まで進んでいるということでもある。実際に私や御心が見逃されたのも、計画が成就したならば全ては些事、そう考えているからだろう」
だからこそ、今更黄泉路達の拠点に襲撃をかけるなどという些事は起きないだろう。そう締めくくった斗聡に、黄泉路は頭が痛い思いをしながらも思考を纏め、
「……つまり、我部は世界中の人間を能力者に変えて、その頂点に立とうとしてるってことですか?」
「恐らくな」
「本当にそんなことが可能なのだとして、リーダーたちはどうするつもりですか」
その上で問いかける。
これまでそれぞれの計画で持って同じ思想を見ていた大人達。そのふたりが、我部の計画が実現性を帯びている事についてどう思うのか。
黄泉路にはわからない。能力者に対する差別も、強弱すらも圧倒的な力で押さえつけられた世界という、想像もできない世界が正しいのかどうか。
だが、胸の内側で何かがひっかかって騒めいていた。
「私は反対だよーぅ。縁さんが求めたのはもっと自由で牧歌的な平和だからねーぇ」
「……我部の研究が犠牲の上に成り立っている以上、今後計画の上でさらなる犠牲が積み重ならないとも限らない。加えて我部が全能力の統括者になったとして、その上で具体的に何をするつもりなのか。見極める必要はあるだろう」
明確な反対、そして、反対寄りの保留という返答に黄泉路は内心で息を吐く。
少なくともこの場で袂を別つことにはならなそうだと思ったところで、黄泉路のすぐ傍で景色が一瞬揺らぎ、次の瞬間には少女が姿を現した。
「おまたせ……お父さん?」
「姫更」
転移で飛んできた姫更が黄泉路を見た後、すぐに、自身の父が居ることに目を見開いて驚く。
そんな姫更に、そういえばこの場にいる人のことは標に告げていなかったと思いながら、黄泉路は改めて口を開く。
「とりあえず、一度三肢鴉に戻りませんか。本格的な再結集にリーダーがいないのは締まりませんし、もう隠れ潜む理由もない、でしょう?」
対策を立てる為にも連絡が取りやすい場所に居た方が良いという黄泉路の意見は至極尤もで、斗聡と紗希は一度顔を見合わせた後に姫更の手を取った。
一瞬にして廃村から人気が消える。
気づけば、いつの間にやら村の跡地では聞くことのなかった虫の音がどこかから聞こえて居て。
村の跡を覆っていた何かが途切れた事を示している様であった。