12-60 水端歩深という少女
地上から伝わる轟音の名残が濁った振動となって地下の照明をちらつかせる。
度々疎らに明滅を繰り返し、安定した白の明かりを密室に齎す蛍光灯が取り付けられた天井から僅かに降り落ちる埃とも塵ともつかない粒子が明かりの中で大気中に反射するのを見ながら、水端歩深がじっと目を細めて上を見上げていた。
「……時間だねーぇ」
腕時計に目を落としていた御心紗希が呟けば、歩深は天井から紗希の方へと顔を向ける。
「彼らは戻れそうにないってことで良いのかなーぁ?」
「うん。歩深が連れていく」
問いかける紗希に対し、歩深は落ち着いた様子で頷いて手を差し出す。
その仕草は紗希も覚えがある、神室城姫更が持つ転移の能力の条件でもあった為、紗希は迷わずその手を取る。
黄泉路がこの場を任せ、避難のための手立てとして残していった歩深という少女が戦闘に向いた能力を持っているとは考えにくく、また、この土地にやってくるにはあまりにも軽装な3人からして、誰かしらが距離などを無視した移動手段を持っている事は想定された事であった。
その中から、能力を知る黄泉路とルカを除外すれば必然として歩深が運び手ということになる。
どこでこの少女と出会ったのか、紗希は知る由もないが、黄泉路が信用して置いて行ったという事実と、物理的には何の力も持っていない紗希はこの場で何かが起きたらまず助からない事を理解しているが故の合理的な即断即決であった。
「《成長線上・座標交換》」
触れあった手の平を通じ、歩深の体を起点にふたりの視界が揺らぐ。
ほんの一瞬、立ち眩みにも似た視界の歪みに目を瞬かせた紗希が真っ先に感じるのは、鼻腔を通じて肺を満たす空気の味。
地下の埃臭さとも言うべき濁った空気に慣れ始めていた身体が驚く様な、むせかえる程の緑と土の匂いだ。
身の回りの何もかもが一瞬にして塗り替わる事象は何度経験しても慣れないと、紗希が口を開こうとして、声どころか、それ以外のすべての音を奪い去る様な轟音にびくりと肩が跳ねる。
「――っ、わ。な、何の音!?」
思わず、普段の独特な間延び口調すらも剥がれた紗希の悲鳴染みた声に、事前に外の様子が分かっていた歩深はすっと遠方へと指をさす。
「なんてこと……」
歩深の小さく細い指が指す方へと目を向けた紗希は思わず言葉を失ってしまう。
辛うじて意味のある言葉が口からこぼれ出たことが奇跡だっただろうほどに絶句した紗希の視界には、ついさきほどまで自分たちが居た廃病院と――その上空を中心に、廃村全域を覆いつくす様な分厚い雷雲が絶えず地上へと光を突き立てる光景であった。
もはや数えることもできず、環境音にも近い落雷の音が地を伝い空気を渡り鼓膜を揺らすことすら気にしていられないような現状に固まってしまう紗希の手を、繋いだままの歩深の手が強く引く。
「避難、リーダーの人の所に行こう」
「あ、ああ、そうだ……早くこの場を離れないとねーぇ」
現実に引き戻された紗希が歩深を見れば、歩深は真っ直ぐに紗希の瞳を見上げながら迷いなく、短く要点だけを伝える姿に改めて浮足立っていた自分を認識し、冷静になる為にあえて普段通りの口調を引っ張り出して張り付ける。
「(この子はふたりの安否を確信してる。大人の私が一番慌てていてはダメだね……)」
背後に聳えた洋館へと足を向けようとする歩深に倣い、紗希もまた今の自分に求められている事をしなければと、神室城斗聡が待つ御遣いの宿本拠地跡へと足を踏み入れた。
「斗聡君!」
今にも雨が降り出しそうな――実際には雷だけは絶えず局所に降り注いでいるが――暗い空から逃れる様に館の屋根の下へと小走りで滑り込んだ紗希が声を張る。
所々隙間風が空いて久しい洋館に響く声に応じ、奥からやってきた足音の主が紗希へと声を掛けた。
「御心か。その様子だと迎坂黄泉路と證司遼は交戦中のようだな」
「ほんと、よくわかるねーぇ」
あまりにも落ち着き払った斗聡の様子に一周回って呆れた様に息を吐く紗希が歩み寄る。
この場から離れるにしろ、出来る限り纏まっていた方が良いという判断であったが――
「! 《成長線上・武装生成》《形状:大斧》!」
「おわぁ!?」
「なにっ!?」
突如、反転して玄関の方へと走り出した歩深が床に手を滑らせる様にしながら、さながら地面から抜き取ったように滑らかに形成された身の丈ほどもある大斧を振り上げ、閉じられた玄関扉を叩き割る。
扉を叩き割りにかかった歩深の奇行に驚愕する紗希の声と、扉の向こう側から聞こえた男の声が重なる。
否、厳密には、扉の向こうの男性の声に紗希の声が被さった形だ。
綺麗に縦に割られた扉が音を立てて崩れる間にも、とても大斧を手にしているとは思えない軽やかなステップで斗聡と紗希を庇う様に歩深が下がれば、未だパラパラと埃が舞う正面玄関の奥から人影が現れる。
「いやいや、危ねぇな。危うく真っ二つになる所だった」
簡素な自動拳銃を片手に姿を現したのは30にはギリギリ届かないであろう20代後半ほどの男。
右目を隠す様なアシンメトリーな茶髪に薄く顎髭を生やした姿は無精というよりはそういったファッション、覗く左目も垂れ気味な瞳のお陰で無気力そうに見え、総じて、斗聡や紗希、歩深にとっては見知らぬ人物であった。
「だれ?」
警戒し、斧を盾のように構えて後方のふたりを庇えるようにする歩深が問う。
その問いに答えたのは銃を携えた男――ではなく、
「この場所で同窓会というのも因果なものだ。そうは思わないかい?」
「久しいな。我部」
男の背後、守られるようにして屋内に踏み込んできた男性、我部幹人の声であった。
「幹人君」
「懐かしいな。ゼミに居た頃は3人で未来についてよく話したものだ」
「幹人君!」
まるで世間話をするように、昔を懐かしむような調子で語り掛ける我部に、紗希が堪らず声を張る。
「大声で話を遮るのは感心しないな、御心君」
「いったい、どういうつもりなんだ」
「何のことだい?」
とぼける、というよりは、どの話の事かと首を傾げる様子の我部に、紗希は改めて息を吸い、ややあって、改めて口を開く。
「全てさーぁ。あの時、縁さんを裏切った君が、今度は何をしようとしてるのかも含めてねーぇ」
カチャリ、と。
歩深を挟み我部と対峙した紗希が懐から取り出した自動拳銃、その銃口を我部へと向けながら問いかけた。
護衛だろう男は既に脇へと退いており、今から射線に割り込むには正面に立つ歩深が邪魔になるだろう絶妙なタイミング。
だが、護衛の男も我部も慌てた様子はなく、それどころかこれ見よがしに肩をすくめた我部は眼鏡をはずすと、曇りを拭うように取り出した手ぬぐいでレンズを擦り、
「裏切った、か。否定はできない、事実として受け止めよう。だが、私の目的は変わらない。君たちも知っている通りだとも」
「何を」
「――我部。やはりお前は」
「やはり、神室城君は分かっていたか。昔からそうだな、聡明な君ならば、私がしようとしていることについても凡そ検討は付いているのだろう」
再度眼鏡をかけなおした我部の視線が斗聡と紗希を捉える。その視線はふたりの間、さらにその奥を見ている様にも見え、その様子に確信を抱いた斗聡の言葉に、我部は苦笑気味に肩を揺らす。
そして、両者のやりとりに横たわる内容に理解が及ぶだけの共通した下地を持つ紗希もまた、一瞬遅れてふたりが――我部が何を意図しているかを理解して声を上げた。
「まさか、幹人君、君はまだ縁さんの理想を履き違えて――」
「ハッ。履き違える、ね。過程の段階で何と言おうとも、それは机上の空論だとも。だからこそ私は実証を持って示す、その為の必要なパーツは君たちが用意してくれた」
紗希の言葉を――理解の浅さや食い違いを嗤う様に遮った我部が両手を広げる。背後ではまさに雷の柱、光の束とも言うべき熱が地上に降り落ち、巨大な轟音を立てて地揺れを発生させる中でのその宣言は、まるで我部が舞台の役者であるような錯覚を。世界という演目で主演を張っているような感覚を見る者に抱かせた。
他を憚らせるような空気とも言える圧を物ともせず、斗聡の明朗な声が遠雷の合間に響く。
「御心が提唱した想念因子理論、私が指揮してきた能力者互助活動。そして、お前が政府に食い込み得たその地位。それらを使い、お前は何を成す?」
「ふん。予想は出来ていても確証は持てない、かい? いやはや、君がその頭脳を使えば、私よりも早く実現できただろうに」
三者がそれぞれ積み上げてきたもの。
それは学術的な見地から能力という非常識を常識に近づける理論。
それは営みというから能力者という迫害された者達を救う活動。
それは権力という力で社会というあり方を変革しうる立場。
過程は違えど、社会に対して能力を――能力者という存在を刷り込むために行った、3人に共通する成果であった。
「……」
「……」
その集大成を形作る、最後の一手を先んじて動かさんとする我部への問いに返ってきた皮肉に、斗聡は口を結んで沈黙で応えた。
両者が沈黙し、睨み合うような構図が数秒続いた後、我部は静かに視線を移す。
「今更君たちが何を画策しようと、私の計画に追いつくことは無い。今日は最後のピースを回収しに来た。それだけだ」
視線の先、斧を盾代わりに構えたままの歩深へと向けて、我部は手を差し出した。
「さぁ、戻っておいで。水端歩深君」
ひときわ大きく鳴り響いた落雷が、影が濃くなった屋内を強く照らした。