3-17 夜鷹の蛇2
誠との模擬戦めいた訓練を終えた翌日。
黄泉路は前日同様、日課となっている中庭の手入れを終えた後に訓練場へと赴く。
金属の扉を開けて中に入るものの、そこには黄泉路以外の姿はなく、どうやら今日は先に来ることができたらしいと黄泉路は小さく息を吐いた。
ただ待つだけというのも時間を無駄にしている気がしてしまい、黄泉路は訓練が始まってから今日までの間に言われた事を頭の中で反芻する。
「(死なない事は利点でもあり欠点でもある)」
すでに自身の立場を教えられている黄泉路には、その意味がよく理解できていた。
政府は黄泉路というとことんまでローリスクかつコストパフォーマンスの良い実験動物を回収したがっている。
それはすなわち、黄泉路を捕獲したいということである。
本来捕獲という行為は対象を生きたまま捕獲しなければならないという観点から、ただ殺すだけの場合に比べてその難易度は著しく上昇する。
また、捕獲が難しい理由として、対象を捕獲するまでにあたる抵抗の激しさも挙げられる。
と言うよりは対象を捕獲するに当たって抵抗を弱めるために痛めつけるというのが、捕獲における攻撃目的であると表現したほうが正しい。
これらの、通常考えうる捕獲に対する難易度に対し、捕獲対象が黄泉路であった場合はどうだろうか。
まず、捕獲対象が死んでしまうという懸念が解消される事によってあらゆる手段が容認され、捕獲する側にとってその難易度は著しく低下するだろう。
次に標的による抵抗だが、黄泉路の側からすれば常に最大限の抵抗を続けられると言う利点は確かにある。
しかし、“最大限の抵抗”と言っても、技術も何もない黄泉路の行える抵抗など、それこそ喧嘩慣れした不良といい勝負であり、完全武装したプロが相手であれば塵にも等しい。
それらを総合すれば、現時点では間違いなく黄泉路の不死性はマイナスに働いてしまっているのだ。
この1ヶ月続けられている護身術とは、そのマイナスを解消するための訓練である。
黄泉路は先日も誠に言われた言葉を思い出す。
「(――痛みは忘れろ。僕は死なない)」
黄泉路が持つアドバンテージとはどんな怪我を負っても活動に支障が無く、即座に完治する事だ。
しかし、苦痛に対する耐性が弱いという事がそれらのアドバンテージを帳消しにして余りある程の足かせとなっているのが現状である。
痛みを感じて怯むという事は、そのまま黄泉路自身に不要な隙を作ることにつながる。
元来痛みと言う物は肉体の不調を自覚させるために必要な物であるが、死という、不調の行き着く先のない黄泉路には不要なものだ。
今までも何度か痛みをねじ伏せることで窮地を乗り切っている物の、それはある種の火事場の馬鹿力に近いものであり、恒常的に、自在にその状態を発揮できるようにならなければ安定した強さとはいえない。
やはり、まずは痛みを克服することが課題だろうと当面の目標を定めた所で、訓練所の扉が音を立てて開く。
「ん、早いね」
「あれ、美花さん?」
扉を開けて現れた美花の姿に黄泉路は首をかしげる。
本来であれば今日の訓練も昨日に続いて誠が訓練する予定であった。
にも拘らず現れたのが美花である事に対して疑問を浮かべていると、当然の疑問を察した美花は眠そうな目を黄泉路へと向けながら口を開く。
「誠は急用。今日は私が担当」
「え、そうなんですか?」
「……嫌?」
じっと、感情の読み辛い目で見つめる美花に、黄泉路はあわてて首を振る。
「いえ、そういうわけじゃ……」
「なら早速はじめる。内容はいつもの」
「は、はい!」
構えらしい構えも取らず、唐突に駆け出した美花に、黄泉路は迷うことなく背を向けて走り出す。
美花が担当の時の訓練法とはつまり、逃げ足だ。
誠が敵と戦わざるを得なくなってしまった時の対処法を教えているのに対し、美花が教えるのは敵と戦う状況に陥らない方法。
無論、ただの追いかけっこで済むはずも無い。
「黄泉路、ちゃんとこっちも見る」
「う、わ……ッ!!」
一直線に走る黄泉路を追ってくる美花の手が黄泉路の背を押せば、バランスを崩した黄泉路は盛大にコンクリートの床へと転がってしまう。
黄泉路が立ち上がるのを待つ間にかけられた美花の言葉に、黄泉路は無理難題だと溢したい気持ちを抑えて立ち上がる。
何せ、黄泉路の全力疾走に表情も変えずに追随してくるのはもちろんのこと、時には頭上を飛び越えて着地と同時に足払いを仕掛けてくるなどというでたらめな身体能力を見せ付ける相手に対し、その相手をしっかりと見たまま逃げ回れというのはどれほど難易度が高いのかは想像に難しくない。
黄泉路がいくら人間離れした持久力と生存力を持っているとしても、後ろに目がついているわけでもなければ一瞬で部屋の端から端へと駆けるほどの瞬発力も持ち合わせていないのだ。
「次。30回転んだら休憩」
「は、はい……」
淡々と告げられるハードスケジュールに思わず乾いた声で応え、黄泉路は改めて全力疾走を始めるのだった。