12-46 足跡を辿って3
カチャリという錠が開く微かな音が鳴る。
譲が住んでいたアパートから数駅離れた駅から歩くこと数分。
元は個人所有の敷地だったのだろう空地に並んだ数個のコンテナとロッカーがあるばかりの貸倉庫にたどり着いたふたりは黄泉路が見つけた鍵に合う錠を探し当てる事に成功していた。
ぎしっ、と。経年劣化と風雨によって錆が浮いた扉が擦れる軋んだ音と共に開いたロッカーの中を覗き込んだ黄泉路は、ぽつんと置かれている物を取り出して防水目的だろうビニール袋を剥がす。
「……手帳か」
「自信はないけど、たぶん父さんの字かな」
比較的新しい手帳は気休め程度の防水だったこともあり多少汚れたり表紙に水痕がついているものの、そうなることを予期していたのか、革製の表紙であったことも幸いして中身までは読めないほどの劣化は起きていない様子であった。
黄泉路が冒頭のページをめくると、ボールペンでつづられたであろう角張った印象を受ける文字が目に入る。
「僕宛てだ」
横から覗き込んでいた常群に共有しようと黄泉路が手帳の位置をずらそうとするが、それを制して常群は無言で続きを読むように促す。
「……『この手帳を見つけた私の子供へ。一方的に追い出す形になってしまったことを対面して謝れない私をどう思っているか。今更許してほしいとは言えないので、代わりに、私がこれまで見聞きしたことをここに記す』か」
真っ先に目に入った文章を小さくなぞるように読み上げた黄泉路は、これまで記憶の片隅に埋もれる様にして考える事すら放棄していた父、譲へどう感情を向ければいいのか整理出来ずにいた。
「『出生にも関わることであり、子供たちには知る権利があるが、必要がないと判断したならば速やかに処分してほしい』……」
「ま、俺達はそれを知りに来たんだし、今更引き返すって手もねぇわな」
「うん」
常群の、背を押す様な言葉に頷き、黄泉路はページを捲る。
「『私が妻と結婚したのは大学の』――この辺りは母さんから聞いた話も含んでるみたい」
「だな。じっくり読むのは今度で良いだろ」
「えーっと……ああ。この辺りは母さんが省いた部分だ」
パラパラとページを捲り、奈江が譲の知らない所で不妊治療に悩んで奇跡に縋った所で指を止めた。
「父さんは、思う所はあったけど母さんのためにって動機が主だったみたいだね」
「ま、そうなるよな。奥さんが宗教にハマりましたってんで暮らしまで変えるのは相当だ」
「……僕を身籠ったからってことなんだろうね」
実際に結果があったからこそ。それを偶然と片付けることが出来たにもかかわらず半信半疑ながらも妻を尊重した譲の決断の重さは想像するしかないが、それでも、手帳に記された文面から察するに大いに悩んだことは見て取れるものであった。
「……ここからは御遣いの宿の本拠地での話か」
「そうだね。『富士が見えた事から、位置的に岾梨県のどこかだったのだろうと推測できるが、詳しい場所は分からない。恐らくは、これも能力で隠蔽している可能性がある』……結局、父さんも正確な場所は分からなかったか」
「気を落とすなよ。まだ書かれてることはあるし、もしかしたらこの中に知りたいことは揃ってるかもしれないしさ」
「……『妻と移り住んだ村はそれなりの規模がありちょっとした町の様で、人々も親しくしてくれた。あの村が御遣いの宿の関係者しか暮らしていなかったことは今でも驚く』……ちょっとした町、その全部が信徒ってすごい影響」
「まぁ、現存する奇跡に肖れる町ってんなら緩い信者含めても人には困らないだろうな」
語られる御遣いの宿の規模――そして、それらの拠り所となる上代縁という女性の能力の凄まじさが見て取れる記述に思わず感想を漏らす黄泉路に常群は相槌を打ち、
「とはいえ、小父さんはかなり懐疑的な見方をしてたみたいだな。……いざとなったら小母さんを連れて抜け出すつもりだったように見える」
手記の言い回しの端々から読み取れる譲の宗教に対する不信感を拾い上げる。
「案外、この本拠地にも父さんみたいなスタンスの人はそれなりに居たのかも。っと、続き見ていこう」
黄泉路も、そうした宗教が実際に有った年代ではない事からやや想像に任せる形になりつつもページを捲り、続きへと目を通す。
『森に囲まれた閉鎖的な環境だったにも関わらず、暮らし自体は悪いものではなかった。主要な施設は村の中にあり、仕事だけが問題であったが、それも能力者が転移という、一瞬で遠くの場所と行き来する力によって解決していたため苦に感じることもなかった』
綴られた文字は淡々と。それでいて、当時のことを細かく記そうとしている様だと黄泉路は思う。
『移住して半年が過ぎた頃だろうか。新しい生活にも慣れ、妻も同じく妊娠していた他の信者との交流で安定していた中、第一子が産まれた』
ページを捲る指に伝わる違和感。
これまでの手帳の質感とは違ったものが次に控えている感触に、黄泉路が慎重にページを捲る。
そこには1枚の家族写真が挟まっていた。
豊かな自然を背景とした白い建物の前で、若い男女がひとりの赤子を抱いている姿が映されたそれは、挟まっていたページに書かれた文字がなくとも誰を映した物か一目でわかる代物であった。
『息子の名前は妻たっての希望で教祖――本人はそう呼ばれることを嫌がっていたが――上代縁によって名付けてもらうことにした』
注釈の様に、これまでは手帳に印刷された線に沿って書かれていた文字とは外れた位置に書かれた追記を拾いつつ、黄泉路は文字を追う。
『出雲。遠く見える山間から登り立つ雲のように、どこまでも白く、空へ。縛られることなく育って欲しいという由来だった』
どうやらこの写真自体、村の医院で出産後に名付けてもらった際に撮ったもののようだった。
『妻は上代縁にも一緒に映ってほしかったようだったが、当人が固辞したため撮影を頼む形となった。今思えば、上代縁は自分の姿を記録されるのを好まなかった』
写真を挟み直し、ページを捲る。
次のページからは黄泉路が産まれた後のことが中心のようで、村に対するものよりも、奈江や黄泉路を通して見た譲の所感が綴られていた。
『第一子出産の前後にも村の中で出産があったこともあり、妻は同じく新たに子を儲けた同世代や、子育ての経験のある年配の方と共に村全体で子育てをしていた』
村の中だけでもそれなりに子供が産まれていた事が見て取れる内容に続き、共同で子育てをしていた事での利点を奈江から語られたことなど。
当時の村の情景が分かりやすい形で纏められてきた文面が数ページ続いた後、ある変化が現れる。
『息子が産まれて2か月が過ぎた頃だろうか。村に見慣れない男女が出入りする様になったと妻が口にしていた。後々私も接触することになった彼らは、大学で能力について研究するゼミに通う学生だった。当時俄かに話題になりつつあった、奇跡の能力者を頂点とする宗教は彼らにとって分かりやすいデータ採取の場だったのだろう』
外部から人が出入りすること、それ自体は珍しくないとしつつも、その学生たちが上代縁と交流を持ち始めた時期から、教団内の雰囲気が変わったようだと、譲は綴っていた。
『決定的に違和感を抱いたのは、妻が第二子を儲けたいと言い出した時のことだ。“子供には縁さんの様な能力者になってほしい”と、1歳になった息子をあやしながら告げた妻の様子に、私は不安を覚えて上代縁を訪ねることにした』
子に健やかに生きて欲しいと願うのは正常な親であろう。だが、能力者になってほしいという願いはやや的外れであるように黄泉路にも思えた。
『ここから先、記すことは上代縁に口止めされていた事だ。だが、同時に一部の人間は知っていたものなのだろうと今ならば推察できる』
続く文字に、ふたりの読む手が止まる。
『彼女、上代縁は奇跡を齎せる。ただし、その行使には彼女自身の寿命が対価だった』
短さとは裏腹に、強い衝撃を与える一文に、黄泉路は思わず顔をあげて隣で同じように手帳から眼を話した常群と顔を見合う。
「……これって」
「奇跡なんて大層なもの、何のリスクもなしに使えるのも都合が良いってことか……?」
「でも、その場合僕はどうなるの?」
「さぁな。お前の場合、色々例外っぽいし。続き読めばわかるかもしれないぜ」
「……そうだね」
再び、肩を寄せる様な形で手帳へと目を戻すと、続く文章はどこか、謝罪めいた雰囲気を持った言葉で綴られていた。
『私を含め、本人から明かされたか、自然と気づいたか。どちらにせよ、複数の人間が御遣いの宿の拠り所であった上代縁の欠点を知っていたからこそ、御遣いの宿はその教義を能力者を作ることに傾倒させて行ったのだろう。新たなる神子、完全なる神子を見出すために』
神子。その言葉はつい先ほど奈江からも出たものだ。
次のページにこそ確信があるのではないかと、黄泉路が静かに呼吸を整えてからページを捲る。
『上代縁が望む、能力が人々の役に立てる世界のため。そう言い出した一部によって広められたその思想は瞬く間に御遣いの宿を席巻した。上代縁が持つ欠点を無くした、完全なる上位互換を求めた教えに、妻も染まっていたのだ』
黄泉路は神子と呼ばれていた。その事実から逆算する答えはすでにふたりの中には確固としたものとして存在していた。
だからこそ、黄泉路は父が残した手記を更に読み進める。
『そうして私達親世代から子供、生まれたばかりの赤子に至るまで、能力者になるための研鑽という名の実験に参加することになって行き、上代縁がいる環境がそうしたのだろう。親世代はともかく、子供や赤子に関しては目覚ましいほどの成果を得た。得てしまった』
後悔を強調する様な、一度文字を消そうとし、それでもありのままに綴ることを選んだことが見て取れる文面に続いて、決定的な一文がふたりの目に留まる。
『このままでいいのか悩む日々が続いた。上代縁には返しきれないほどの恩があったが、しかし、上代縁の代わりとなる存在を求める為に妻子を御遣いの宿という環境に置いておいても良いのか。日に日にエスカレートする思想にのめり込んでゆく妻に思い悩むうちに、息子、出雲が奇跡を持っていることが発覚した』
次のページからは、黄泉路が奇跡の力という万能めいた力を持ってしまったことで変わった周囲の環境についてつづられていた。
『息子が2歳を過ぎた頃だ。息子の周りで能力に発現した人を息子が真似をし始めたことで、息子に宿った力には形がなく、ただ思うままに現象を現実のものに出来てしまう力である事が知れ渡ると、御遣いの宿の法人としての取り仕切りをしていた上層部の者達が息子を神子として扱う様になり、私は怖くなった。息子を取り上げられてしまうのではないかと。それどころか、このままでは息子は一生をこの教団の神輿として過ごすことになってしまうのではないかと』
黄泉路が本来持っていた力の一端がこうもあっさりと書かれていた事にも驚きであったが、能力に目覚めたばかりの黄泉路を利用しようとする者達から確かに守ろうとしていた父の想いに、黄泉路はそっと息を吐きながら次の文に目を向ける。
『息子が神子になったことで、私達家族は常に村の中で見守られ――取り繕わずに言うならば、監視されて――生活する様になって暫く。この頃になると露出が少なく、今にして思えば能力の度重なる行使で寿命が少なくなり、体調が思わしくなかっただろう上代縁から呼び出しがかかった』
手帳のページは半分を過ぎて、空を見上げれば日は傾きを見せ始めていた。
日差しが弱くなりつつあることで読みづらくなった手元を照らすべく、常群が鞄から小型ライトを取り出して翳す。
『あの時のことは今でも鮮明に覚えている。私達を呼び出した上代縁は、私達家族の両親との確執についても知っているが、そろそろ孫の顔を見せに行くべきじゃないかという提案をしてくれた。その当時は、確かに反対していた親も、就職もして生活も安定した自分と孫の存在を見れば考えを改めてくれるかもしれず、そうした理由を作って外に出る事を勧めてくれた上代縁の配慮に感謝していたが、思えばあれは上代縁の奇跡だったのだろう』
ライトの明かりに照らされた文字は確かに読みやすいものの、屋外で立ちっぱなしになっていた現状に黄泉路は常群へと顔を向ける。
「常群、疲れてない?」
「あー……まぁなぁ。でもここで読むのやめるって選択肢はねぇだろ?」
「だとしても、場所を変えた方が良いんじゃ」
「良いよ良いよ。ページ見た感じ、残りはそんなに長くないんだ。さっさと読み終えて情報整理に時間を回そうぜ」
「分かったよ」
それが常群なりの配慮だと理解しつつ、黄泉路は苦笑を浮かべるにとどめて再びページを捲った。
『私たちが村を離れ、両親が暮らす生家まで出向いていたタイミングで、あの事件、政府による強制捜査と一斉摘発、御遣いの宿解体事件が発生したことで、私たちは戻る先を失い、また、“能力者を産む”活動が露悪的に過熱報道されていたことで、私は妻と子を守るために御遣いの宿と決別し、過去を隠して生きていくことを決めた。この決断には妻は不服そうであったが、報道の様子や、同じ御遣いの宿に属していた人々がどういう扱いをされているのかを見せた事で最終的には同意してくれた』
そこに書いてあったのは、上代縁の奇跡的な提案によって一難を乗り越えることに成功した親子が世間の目から隠れる様に生きていくことを決めてからの日々。
関係を隠し、職も変え、能力者に対する世間の風当たりが強くなった事を理由に黄泉路に能力を使わないように教えながらの生活が譲の内面に大きく影響を与えたことも同時に見て取れ、黄泉路は父がこのような思いを抱いていた事を知らずに生きてきたことに愕然としてしまう。
「――『死んだと聞かされていた息子が帰ってきたあの日。私は寝ている息子を見た。失踪した当時と全く変わらない姿で寝ている息子に、私は背筋が寒くなったのを覚えている』……あの日の事だ」
「……」
そうして、残りのページが少なくなってきた所でやってきた、黄泉路にとっては忘れようもない日の記録に、黄泉路は少しの間読む手を止める。
やがて、何がかかれていようと受け止めると決めた黄泉路がページを捲ると、そこに書いてあったのは譲から黄泉路へ。家族を守ろうとした父親が残した、息子への想いがあった。
『成長するにつれて凡人になって行った息子を見て安心していたが、どうやら息子は能力を失っていなかったらしい。ただ息子が無事だったことを喜ぶ妻とは裏腹に、私はこの先どう息子を守れば良いかと苦悩した。そんな矢先にかかってきた電話が、私をあの決断へと結びつけた。電話を掛けてきた男は我部という、当時御遣いの宿を訪れていた能力研究ゼミの学生と同じ名前の男だった。あの男が御遣いの宿について引き合いに出したことで、私はもう隠れている事は出来ないのだと理解し、その上で、息子を。妻を。娘を守るためにはどうすれば良いかを考え――』
手帳そのものが末尾に近づいてきた所為だろう。防げなかった湿気によって僅かにページが撓み、読みづらくなっていてもなお、黄泉路はそのページに書かれた文章を正しく読むことが出来た。
『ひとりでも帰ってくることが出来た、奇跡を再発させたような息子を私達も知らない所へ逃がす。それしか、家族を守る方法が思い浮かばなかった』
父は切り捨てたわけではない。ただ、守ることが出来ないと分かっていたから、手元に置くのではなく、あえて突き放すことで自由に生きる方法を模索してほしかったのだと、黄泉路はあの日の言葉を再定義することが出来たのだった。
『今でも、あの選択が正しかったのか。間違っていたのか。私には分からない。あんな伝え方しかできなかった私を許してほしいとは言わない。ただ、すまなかったと、ここに記す事だけは許してほしい。最後に、家族の安全と健康をこれからも願っている。 道敷譲』
ページもなくなり、装丁の内側の硬い部分に綴られた一文を指の腹で撫で、黄泉路は小さく呟く。
「父さん……」
その隣で、何を言うでもなくただライトを消して撤収作業を始めるのは常群なりの思いやりであろう。
ややあって、常群がいつでも動けるように肩掛け鞄を背負い直したところで、黄泉路は常群へと向き直る。
「ありがとう常群。ここに来れてよかった」
「ん。……帰るか」
「うん。だけど常群、また後日付き合ってもらいたい場所があるんだけど、良いかな?」
「御遣いの宿の本拠地か? 俺も気になって調べてみた事はあったけど、厳重に情報規制されてるし、当時の報道も工作されてる形跡があって追える物じゃなかったぞ?」
今度こそ調べきるには時間がかかるぞ、と頭をかく常群に、黄泉路は小さく首を振る。
「大丈夫。僕の方に宛てがある」
そう言って、黄泉路はひとりの男の名を口にするのだった。