12-45 足跡を辿って2
ギシ、ギシ、と。
年季の入ったアパートの階段を登り、軋む廊下を歩いた最奥。
2階の角部屋の前へとたどり着いたふたりは、常群が預かってきた鍵を差し込んで扉を開ける。
「……」
「さすがに埃臭いな」
扉を開けた瞬間に鼻腔に刺さるのは、仄かな埃の匂い。
人が手を付けなくなって籠り切った淀んだ空気を真正面から浴びたふたりは僅かに顔を顰めるも、最悪の展開として想定していた人が死んだ匂いがしなかったことに内心でそっと息を吐く。
「(ああ、でも。遺書を投函した翌日に見つかってるんなら腐敗も何もないか)」
「大丈夫か?」
「うん」
普段であれば黄泉路もすぐに思い至ったのであろうが、疎遠になっていたとはいえ父親が死んだ場所だ。無自覚ながらに動揺しているらしい黄泉路に、常群は気遣うように声をかけるが、黄泉路は首を振って先に部屋へと上がり込む。
さすがに靴のまま上がり込むことは躊躇われたものの、幸いにして廊下は埃が積もる程ではない。
フローリングの廊下は踏みしめると僅かに撓み、建物そのものの経年劣化を感じさせるが、それ以上に黄泉路達の気を引いたのは扉から部屋までの短い廊下の脇に備え付けられた省スペースの台所のシンクに置かれた食器類だった。
洗ったまま乾燥させるために放置されていたのだろうひとり分の食器は生活感をありありと感じさせるもの。
とはいえ、男のひとり暮らしで食器があるだけまだマシなのだろう。常群が知る独身男のひとり暮らしなど、全て外食か冷凍食品や出来合のプラスチック皿に入った温めるだけの弁当などで、食器を必要とするケースがないことすらありうると考えれば、道敷譲はそれなりに生活をしていたことが窺える。
仄かに生活臭が残る部屋に足を踏み入れると、カーテンによって明かりが遮られた仄暗い6畳1Kの平凡な作りがふたりを出迎える。
「さすがにちょっと暗いな。カーテン開けるぞ」
常群が注意深く部屋の奥まで歩いて行き、カーテンを引く。
午後の日差しが差し込んだことで宙に浮いた埃が反射してキラキラと照らす。
急激な光量の変化に目を細めた常群と黄泉路。しかし、すぐに目に入った生活の痕にふたりは沈黙する。
部屋の中央に置かれた小さなローテーブル。寝床も兼ねていたソファベッド。部屋の片隅を占有する、6畳間に見合わない大きな本棚。
どれもこれもが装飾性のない、実用性だけを鑑みた質素な室内は殺風景にすら見え、寂しさすら感じる物の少なさは、どこか夜鷹に居た頃の黄泉路の部屋を思い起こさせるもの。
しかし黄泉路には目の前の室内の様子と自分の部屋の在り方は根本的に違っているように感じられた。
「(僕の場合は、何かが欲しいという気持ちがなかった。でも、これは……)」
「まるで、ここで生きる気がないみたいな部屋だな」
「ッ」
「――あ、いや。悪い。なんとなくそんな気がしちまってな。先入観の所為か」
「ううん。たぶんそれで合ってる、と思う」
何かを欲する自発性がなく、必要だと思われている物を揃えた結果の最低・最小限の内装だった自分の私室と比べていた黄泉路は、常群の何気ない言葉に思わずハッとなる。
テーブルにしても使われた形跡がほとんどなく、ソファベッドも、ベッドの形のまま置かれている事からソファとして使っていたわけではないのだろう。
ここから見て取れるのは、譲にとってこの家は“家”ではなく、ただの“物置”だったのではないかという視点。
「となると、やっぱ違和感あるのはあれだよな」
「だね」
ふたりが揃って目を向けるのは、殺風景な部屋の中で存在感を主張する大きな本棚と、そこにびっしりと詰まった大量の本だ。
「どうする? ふたりで手分けしてもいいが……っと、そうだ。お前にこれ、渡しとくな」
「――遺書」
「大家さんが保管しててくれたんだ。俺が来たんで肩の荷が降りたっつってな。でも、読むべきはお前だろ?」
「ありがとう」
常群が鍵と同時に預かってきた遺書は簡素な封筒に入った何処にでもある様な白い紙にボールペンで書いただけのものであった。
カサリと手の中で擦れる音がやけに大きく聞こえる。まるで、父の命がこの1枚の紙にすり替わったような錯覚に、黄泉路は小さく首を振る。
「(命の在り処なら、僕が一番、よくわかってる)」
ここに父の魂はない。そう断言できる黄泉路は、小さく息を吐いて手の中の遺書に目を落とす。
――遺書の内容は一見するといたって普通なものだった。
迷惑をかけることになる大家に対する謝罪から始まり、生活に嫌気がさしたこと、自分の行動の成否が分からなくなったことなどが、決して長くはない淡々とした文章でつづられた紙面を目で追っていた黄泉路は、末尾に差し掛かって僅かに目を留める。
『出雲へ。
今でもお前を想っている』
ただ、短く。それだけで結ばれた遺書の末尾に、黄泉路は静かに目を閉じた。
「――はぁ。……常群」
黄泉路は先ほどの直感が間違っていない事を確信しながら、本棚から1冊ずつ本を取り出しては中身を検めて同じ場所へと戻していた常群へと声をかける。
「どうした?」
「やっぱり、父さんは僕にメッセージを残してるみたいだ」
「遺書に書いてあったのか?」
「ううん。でも、ここ」
捜索を中断し、寄ってきた常群に遺書を示して末尾の一文を向けると、
「――ああ。なるほど」
常群も意を得たりといった具合に小さく頷いて見せる。
ただ死ぬだけであれば、遺書を通じて黄泉路に対してメッセージを、届くかどうかも定かではない形式で残すだろうか。
黄泉路が読むことを前提とした結びの文章こそが、父が本当に残したかったメッセージであり、父が何かを黄泉路に残すのであれば、遺品の中にヒントがあると踏んだふたりは手分けをして部屋の捜索を再開する。
常群が本棚に戻ったのを見て、黄泉路は改めて部屋全体を見回し、ソファベッドの下から風呂場、電源の落ちた冷蔵庫の中まで見て回る。
当然、譲の死体を搬送した際にゴミなどは処分したのだろうし、部屋をそのままにしておいて欲しいと常群が指示するよりも先に人の手が入っているのは見て取れた。
だからこそ、黄泉路も本棚以外から手がかりが出ることはないだろうという、いわば念のための見回りであったが、ふと、ソファベッドのくぼみに何かが挟まっているのに気づいて黄泉路は顔を近づける。
「鍵?」
傾きかけた陽光を反射してキラリと光ったのは、装飾もない簡素な、そして小さな鍵であった。
鈍い光沢のそれはなんのアクセサリーも付いていない素の状態で、まるでソファベッドに差し込むような形で埋まっており、取り出したそれを光にあてて観察していると、常群も何やら発見した様子で声がかかる。
「そっちもなんか見つけたか」
「うん。そっちは?」
「本棚の奥に紙が挟まってた。たぶん手がかりの手がかりだろうな」
回りくどいようだが、先に面会した奈江の口ぶりから、そうまでして隠したい何かがあったのだと仮定するとしっくりくる。
堅実な父の印象を思い返した黄泉路は本棚の前にいる常群へと歩み寄り、常群が取り出した紙切れを覗き込む。
『321-5-3,43-1-19,200-6-11……』
3つの数字の組み合わせが羅列された紙片は掌に収まる程に小さく、そこに書かれた文字もまた要領を得ない。
しかし、常群はすぐに答えを見出したようで、
「こっちかこっちの――あった。321ページ5行3文字目……」
本棚にヒントがある可能性を見出した時から、常群は本を抜き出して検めた後も不用意に配列を変えないように丁寧に扱ってきた。
そのことが功を奏したようで、常群はパパっと文字を抜き出して並べて行く。
だが、その作業も小さな紙面に書かれた数字という限られたヒントが尽きてしまえば滞りを見せ、
「数字があるのはここまでか」
「だね。次の本は?」
「さすがにこれの中からノーヒントはなぁ……」
残り半分、といった具合の本棚の前で頭をひねる常群の脇から、黄泉路は次の文字があるであろう本を抜き取って開く。
ヒントがなかろうと、何かしらの手がかりはあるのではないかという希望論じみた行動ではあったものの、結果的に、黄泉路はそれが正解だったとすぐにわかった。
「……あ。もしかしてこれ?」
「うん?」
黄泉路が取り出した本はごくごく普通の経営術などがかかれた指南書のようなもの。しかし、これまでの本には挟まれていなかった栞が挟まれたページをみつけた黄泉路はそのページに書かれた文字をゆっくり追ってゆくうちに気づいた違和感を常群に共有する。
「ほら、ここ。この文字だけちょっと紙の質が違くない?」
「……ちょっと待ってろ」
常群は文字をじっと見たと思うと、すぐに持ち込んでいた鞄を開いてペンライトの様な形のものを取り出して点灯させる。
「UVライトだ。これで……っと」
「あ。文字が」
「ステルスインクだな。続きはこれで探せって事か」
用意の良い常群を誉めれば良いのか、一般人だったはずの父がこのような手法を知っていることへの驚きを抱けばいいのか。黄泉路は若干の困惑と共にヒントを追いかける。
やがて、浮かび上がってきた文字を繋ぎ合わせ、ふたりは譲の残した言葉と対面した。
「住所だよね?」
「ちょっとまってろ……っと、あった。貸倉庫だな。ここからそんなに遠くない」
「日も傾いてきたし、少し急ごう」
「だな。念のため、最初のヒントはお前が持ってろよ。本がこのままでも最初のヒントがなきゃわかりっこねぇしな」
「わかった」
父の足跡を辿り、終着に見えたアパートで見つかった更なるヒントに、黄泉路は手の中にある鍵を見つめて問いかける。
「(父さんは、何を思ってこんなことをしたんだろう。僕を想ってる……だったら、どうして……?)」
確実に黄泉路にだけ伝えられるように。そんな鬼気迫る想いが見え隠れする譲の遺書と暗号を頼りに、黄泉路達は再び移動を開始するのだった。