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12-41 常群幸也と周辺事情15

 幸也は幼いながらに出雲が特別な存在なのだという事を理解していた。

 その出雲との間に特別な秘密(モノ)を持った自分もまた、特別になれたような気がして。

 そうした幸也の心情の変化から、ふたりの仲は殊更親密になるのにそう時間はかからなかった。

 とはいえ。


「いずもー」

「なぁに?」

たんけん(・・・・)いこーぜ!」

「うん」


 その在り様は秘密の共有の前後で大きく変わっていた。

 ふたりが公園の林の中へと入ってゆく。その後ろ姿を見送った常群母は気づかない。

 これが奈江であればまた違ったのだろうが、常群の母にとっては出雲は引っ込み思案なだけの善良な子供でしかなく、幸也の有り余る元気に付き合ってくれる、園の外でも気軽に遊べる唯一の貴重な友達だった。

 このまま一緒に成長したならば学区も同じことでもあるし、小学、もしかしたら中学高校まで一緒かもしれない。

 越してきたばかりだという事で戸惑いや周囲への観察の意識が感じられる出雲の母、奈江とも話してみて、悪い親子ではないと判断した常群の母は、出雲を幸也の長く付き合うことになるだろう友人として受け入れていた。

 そんな子供たちの探検(・・)が、自分たちの目の届く範囲でとどまっていない事を、彼女は知らなかった。


「いけそー?」

「うん」


 林の中、ちょうど公園からの視線も、車道からの視線も途切れる木の幹が密集した木陰で、ふたりはしゃがみこんでヒソヒソと言葉を交わす。

 幼稚園児という小さな体はそれだけですっぽりと木の幹に隠れてしまい、ふたりの声も木々の間をすり抜けて行く風が揺らす葉の音に紛れて公園には届かない。

 両手で手を繋ぎ、輪を作るようにしたふたりがジッと目を閉じる姿はおまじないのようにも見え、例え目撃者がいたとしても子供らしいおままごとの一環だと感じただろう。

 だが、次の瞬間。

 ふっとふたりの姿が景色に溶ける様に消え、その場から完全に消えてしまう。


 保護者の気づかぬうちに、子供たちの行動範囲はどこまでも広く、無法図に伸びてしまっていた。


 ひゅうっと冷たい風が顔を叩くのに反応し、幸也が目を開ける。

 正面に見える出雲もまたゆっくりと目を開くのを確認するのも束の間、幸也は周囲に目を向けて声を上げる。


「すげー!!!」


 幸也の幼い歓声が反響してキンキンと響くそこは、先ほどの文明の中に誂えられた人工的な林――などではなく。

 どこまでも暗く深い森の中、ぽっかりと口を開けて地の底へと続く洞窟の前。

 周囲の緑の濃さ(・・)に叫んだ声の分だけ息を吸い込んだ肺が驚いたように跳ねるのも気にならないほどに喜ぶ幸也をみて、出雲もまた淡く笑う(・・・・)


「よかった」


 秘密を共有して以降、幸也が喜ぶたびに出雲はこうして笑う様になった。

 幸也が喜んでいるからなのか。出雲もまた楽しいからなのか。傍目には区別のつかない、幸也や奈江の様に出雲と長く接した人物でなければ分からない笑みを浮かべた出雲に、感動に一息ついた幸也が声をかける。


「よし! いこーぜ! どーくつたんけんだ!」

「うん」


 大人が居ればまず間違いなく止めるであろうシチュエーション。

 人里から離れた――というよりは、もはや日本国内であるかすら怪しい――洞窟に幼い子供ふたりで入っていくなど自殺行為にも等しいそれ。

 当事者であるふたりはそんな危険などまるでないという様に分け入っていくのは普通の子供と変わりない。

 だが、明確に違う点がひとつあった。


「くらい……」

「うん」

「いずも、ぱっ(・・)てできる?」

「こう?」


 ふわっと、途端に光源がないにもかかわらず、踏み込んですぐ暗闇と言った有様だった洞窟が照らし出される。

 その光はふたりの頭上にゆらゆらと揺らめく炎というよりは、どこからともなく電球の明かりだけを引き寄せたような不動のもの。

 違和感しかない明るさに支えられたふたりは嬉々として突き進む幸也と、そのすぐ後を追いかける出雲という形で奥へ奥へ。

 ――既に5回目(・・・・・)ともなった探検(・・)に精を出すふたりの歩みに淀みはない。

 とはいえ、大人ですら苦労するだろう未整地の天然の岩盤は非常に凸凹しており、短い手足の子供ふたりが歩ける範囲には限度がある。

 分岐もない、ただ緩やかに降るだけの洞窟を半ばまで進むと、すぐに人が入っていけないサイズの細い隙間へと変化してしまう。


「いきどまりだ」

「うん」


 洞窟がここで終わってしまったこと自体には不満はない。

 幸也にとって探検とは行ったこともない場所にふたりで遊びに行くことであって、場所が近所であろうが未開の秘境であろうが関係はないのだ。

 動き回った所為か、のどが渇いたように感じた幸也はちらりと出雲へと視線を向ける。


「なーいずも」

「なぁに?」

「ジュースない?」


 当然、水筒を下げてる様子もない出雲がジュースを持っているわけがない。

 だが、出雲は当然のように小さく頷くと、手を虚空へと向けて何かを受け止める様な仕草を始める。


「わ! ジュースだ!」

「はい」


 すると、蛍光灯めいた不動の明かりに照らされた洞窟の奥、人工物とは無縁のはずの場所で、出雲が先ほどは影も形も存在していなかったコップに入ったジュースを手にして、片方を幸也へと差し出してくる。


「ありがとー!」


 嬉しそうにごくごくと無警戒に口をつける幸也を見ながら、出雲自身もジュースに口をつける。

 これはふたりだけの秘密だ。そう約束して以降、幸也は出雲を何でもできるすごい奴だという認識の下、出雲の極端にモノを知らないという、幼さ以上に危うい在り方につけ込むような形で関係性を深めていた。

 無論、そこに明確な悪意や大人の様な欲があったわけではない。ただ、無自覚な子供らしい欲と、幼さによる認識不足があっただけ。

 出雲は頼まれれば何でも叶えてくれる。そう認識して以降も、幸也が出雲の事をただの便利な奴と思わなかった時点で、幸也は至極善良な子供だった。


「かえろーぜ」

「うん」


 ジュースを飲み終えると、グラスはしゅわっと波にさらわれる砂のように消えてしまう。

 そんな景色も何度も見ればすごいよりもそれが当然という意識に変わり、洞窟探検を終えて興味も削がれてきたことで幸也が帰宅を提案する。

 応じた出雲と行きと同様に手を合わせ、眼を閉じて数秒もすると、洞窟のひやりとした空気から、土と排ガスと人の生活圏の慣れた匂いが鼻腔に届く。

 片手を放し、ただ手を繋ぐ形になったふたりが林からとてとてと姿を現すと、常群の母は少し目を離した隙に靴とズボンを泥で汚したふたりに呆れつつも、手を挙げてふたりを受け入れる。


「いっぱい汚したわねぇ。幸也も出雲くんも、帰ったらちゃんとお風呂入るのよ?」

「はーい」

「はーい」

「よく言えましたー。じゃあ、気を付けて帰りましょうねー」


 そのまま、保護者に連れられて出雲は道敷家まで、その後幸也は母親と共に自宅へと帰ってゆく。

 子供らしい行動力に奇跡という外付けの爆発物を足した――足してしまった結果の、極々ありふれたふたりの遊びは気づかれることなく回数を重ねた。

 幼子の隠し事など親からすればすぐにバレそうなもの、しかし、ここには大人の認識とふたりの間で自然と決まった取り決めが大きく関係していた。

 そも、常群の母は出雲が能力者であるなどとは知る由もない。仮にそうだと知っていたとて、ここまで規格外な奇跡を当たり前のように振りかざす幼子だと想定しろという方が無理な話であった。


「たんけんだー!」

「たんけん」

「怪我をしない様に気を付けるのよ」


 加えてふたりが――特に出雲が強く望んだ――取り決め、道敷奈江の監督下(・・・・・・・・)では使わない(・・・・・・)という1点が、ふたりの秘密を強固に守っていた。

 元々、出雲に内緒にするようにと言い含めていたのが出雲の両親であったこと。それが悪いことだと何度も注意されてきたことから、出雲が奈江の前で能力を使うことを頑なに拒否していたことで、幸也も秘密を守るためなのだからと納得してお互いに控えていた事が、ふたりの秘密がバレずにいた最たる理由であった。

 奈江が居る日は林の奥へと踏み入っては行くものの、決してどこか別の場所へと転移したりもしなければ、ジュースやお菓子を出してもらうこともなく。

 ただ、単純に子供らしく林の中を歩き回り、木の棒で幹を叩いて回ったり、たまたま見かけた虫を捕まえてみるだけの年相応の遊びに興じていたが、


「みゃあ」

「みゃあみゃあ」

「あ。チビだ」


 違う点がひとつあるとするならば、以前も会った猫の親子たちと仲良くなったことくらいだろう。


「ごろごろごろごろ……」


 親猫が喉を鳴らしてすり寄ってくるのに合わせ、頭を撫でる出雲と、子猫にじゃれつかれて座り込んだ状態で団子状態になった幸也の姿は初対面の時の親猫からは想像もつかないものだが、こうなったことにも、出雲の奇跡が関係していた。


「また、いたいいたい?」

「ごろごろ……」

「なでる」


 あの日も、よくよく観察するだけの余裕があったならば気づいただろうが、親猫は病気を患っており、子猫も栄養状態が良くないやせ細ったものであった。

 後日林の中で倒れた親猫とそれに縋る子猫たちを見つけた幸也が出雲に頼み込み、親子猫を治してもらったことで、猫親子にとって出雲と幸也は危険のない、むしろ益になる人間であると認識されるに至っていた。


 その日も、常群の母が体調を崩して奈江が送り迎えなどを行う日であった。


「ボールなげるよ!」

「うん」


 幸也が家から持ってきた柔らかいボールを掲げると、ふたりは林の中でキャッチボールともドッジボールともつかない玉遊びを始める。

 単純に、子供が投げられたボールを追って林の中を駆け回るだけの、シンプルな遊び。

 その足元で子猫何匹か駆け回り、親猫もボールで遊ぶ子供たちについて回る様に林の中を駆ける。


「あっ、ごめん!」


 軽いボールはポンポンと小さな音を立てて木の根に弾み、あらぬ方向へと跳ねる。

 ちょうど投げる番だった幸也が声を上げ、出雲の横を通り過ぎて林の奥へと跳ねて行ってしまったボールを見て慌てて声を上げるが、出雲は気にしていないという風にすぐに踵を返してボールを追いかけた猫たちの後を追いかけて行ってしまう。


「おれもいく!」


 林の中でひとり取り残されるのも嫌だった幸也が後を追いかける。

 ボールは幸い植樹用にむき出しになった土と歩道を分けるためのレンガによって止まっており、先に到着していた子猫たちがぺちぺちとボールの弾力を楽しむ様に叩いている所であった。

 出雲が猫に合流しボールを拾い上げる寸前。たまたま子猫の1匹が叩いた拍子にボールがころんと段差を超えて歩道へと落ちる。

 子猫たちがそれに続いて動き出すのに合わせ、前傾姿勢だった出雲がブロックを超えて歩道へと駆けだす。

 てん、てんてん、と。ボールが小さな音を立てて弾み、その後を追う出雲を林の奥から追いついてきた幸也が目にし――


「あ」


 キキィィ(・・・・)、という特大の不協和音。それから、ドン(・・)という強い衝撃を感じる音が幸也の耳を叩いた。


「あ、あ……あ……」


 ボールが歩道を超え、車道から弾き飛ばされて更に奥の路地の向こうへ消えてゆくことなど気に留める余裕もなく、幸也は目の前で飛び散った赤色(・・)に声を引きつらせた。

 電柱に突き刺さる乗用車が煙を上げる。

 急ブレーキと急なハンドル操作で作られたスリップ痕をコンクリートの灰色に一筆書きの墨のように濃く残した現場の中心。


「うぁ、あ、あ……!!」


 ねじ曲がった腕が投げ出され、頭を強く打ったのだろう、倒れ伏したコンクリートに真っ赤な血液を広げながら、不格好に転がる見覚えのある人型に、幸也は目の前が真っ白になる様なパニックに陥ってしまう。


「いず、いずも、おきろ、おきて、おきて……!」


 ふらふらと、夢遊病の様に歩み寄った幸也が出雲に声をかける。

 ぴくりともしない出雲の体を揺さぶってなんども起きるように声をかけるが、


「ひっ」


 ぐりん、と。揺すった衝撃で転がった出雲の顔、硝子のような黒々とした虚ろな目を見た瞬間、幸也は小さく悲鳴を上げて固まってしまう。

 幼いながらに、これで無事なわけがないとわかる惨状に途方に暮れる幸也。しかし、


「……」

「?」


 出雲に触れている手に振動を感じて、幸也はふと改めて出雲を見た。

 目の前で、事故を逆再生するかのようにぐるぐるとねじれた体がもとに戻り、出血が消えて目に光が戻る出雲の姿を。


「あ――ああ……!!」


 膝をついて座り込んだ幸也の目の前で立ち上がった出雲に、幸也は言葉にならない声を上げることしかできなかった。

 その視線が、いつもの秘密の奇跡を使ったときのようにすごいと言ってもらえることを待っているようなものであっても、幸也がそれを理解できるだけの余裕は存在しなかった。

 だからだろう。立ち上がる気配すらない、茫然と座って見上げてくる幸也から視線を外した出雲が、ふと、とある場所へと歩き出す。


「いず……?」


 感情が乱れ、涙目になってしまった幸也が出雲の行動に合わせて視線を向ける。

 スリップ痕の上、黒い軌跡を塗り潰す様に飛び散った赤色のナニカの残骸が始めは理解できなかった幸也だったが、出雲が残骸へと手を伸ばし、口を開いたことで、その内容で、それが何であったかを理解した。


いたいいたいの(・・・・・・・)とんでけー(・・・・・)

「!?」


 痛みを、怪我を無くす奇跡。それを使う意味。

 理解が追いつくのが先か、現実が変わるのが先か。幸也の目の前で、出雲が手をかざした肉塊へと血肉が、骨が、臓器が復元がされるように集まり、それらが見慣れた子猫の形(・・・・・・・・)を作り上げた。


「――みぃみぃ」

「いいこ、いいこ」


 何事もなかったかのように、間違いなく、出雲以上に即死で、不可逆的だったはずの子猫が蘇生して動き出したことに、出雲は何の不思議もないという風にひと撫ですると不器用に抱きかかえて幸也の方へと歩み寄ってくる。


「い、ず……」


 出雲、そう声を掛けようとしたところで、出雲の怪我も子猫の死亡もなかったことになったことで余裕が出来た幸也は、はたと周囲の状況に気づく。


「嘘……!」

「何、あれ!?」

「子供が――」

「……猫が」

「生き返って――」


 ざわざわと。

 公園の近くに居や店舗を構えていた人、通行人など、先ほどの車の衝突音でやってきた野次馬が遠巻きに歩道から出雲たちを見ながら言葉を交わしていた。


「あ」


 幸也の頭に秘密という言葉がよぎる。

 それは出雲と幸也が交わした約束。それが破られたことを理解するのと同時。


「出雲!!!」


 野次馬の間をかき分け、車道に飛び出してきた奈江が出雲を抱きかかえる。


「みぎゃあッ!」


 咄嗟に出雲の手からすり抜ける様に逃げた子猫が親猫と合流すると、親猫は我が子の姿を怪訝そうにしながら匂いを嗅いで、本当に我が子かを確かめる様にしていた。

 そんな光景を視界の端で捉えていた幸也だったが、出雲を抱きしめた奈江がボロボロと涙を零しながら叱る姿に、出雲が事故に遭った直後とはまた違った衝撃を受ける。


「もう使っちゃダメだって言ったでしょう!?」

「ご、めんなさ――」

お願いだから(・・・・・・)!! 普通にして(・・・・・)!!!」


 自分たちは、何か物凄く悪いことをしたのではないかという罪悪感に、叱られている当人であるはずの出雲よりも、約束を持ち掛けてしまった、約束に甘え、好き勝手に出雲におねだりをしていた幸也の方が泣きそうになってしまう。


「どうしていう事を聞いてくれないの!?」


 奈江がここまでの形相で起こる姿を幸也は知らない。出雲がないしょと言っていたのは奈江がこれだけ怒るからで、怒らせたのは自分が奇跡を願ったから。

 そこまで理解してしまった幸也は顔を青くして、出雲は悪くない、悪いのは自分なんだと言い出そうとして、言い出せない自分に気づいて愕然とする。


「(なんで、おれ、おれが、わるいのに……)」


 幼いながらに怒られたくないと、これほど強く叱る大人を始めて見た幸也が無意識的に口を閉ざしてしまったことに困惑していると、奈江は周囲を見渡して出雲に言って聞かせる様に口を開く。


「出雲。お願いよ。ここで起きた事を(・・・・・・・・)なかったことにして(・・・・・・・・・)皆に忘れてもらうの(・・・・・・・・・)。できる?」


 その言葉に幸也はぎょっとする。忘れる、全部。それは即ち出雲と幸也が交わしていた約束もはいるのだろうか。

 それは嫌だと目を見開いて出雲を見つめたまま、しかし言葉は出せないでいる幸也をちらりと見た後、頷いた出雲が口元に指をあてて呟く。


ふたりだけのひみつ(・・・・・・・・・)


 その瞬間、出雲の指先から波動の様に光が溢れ、コンクリートを汚していた血痕が、急ハンドルを切ったことで電柱に突き刺さった車が、何事もなかったかのように事故の痕跡が消え去ってゆき、残った野次馬や運転手も一瞬ぼうっとしたかと思うと、ただ車道の真ん中で出雲を抱きしめている奈江の姿にこそ驚いた様子で遠巻きにしていたが、奈江が公園側へと対比するに合わせて人々も立ち去ってゆく。

 事故の直後だという認識は完全に消え去っているようであった。


「さ、危ないから歩道に戻りましょうね」


 出雲の手を引き、反対の手を差し出した奈江におっかなびっくり手を握り返した幸也は、揃って歩道へとたどり着いた。

 3人が退いたことで正常に運行できるようになった車道を、先ほど事故を起こさせてしまった車が通りすぎて行く。

 残ったのは、野次馬も立ち去り、車も電柱も元通りになり、血痕ひとつないありふれた路地。


「……」

「幸也くん」

「!」


 世界そのものを書き換える様な異常な光景を驚きと共に、事故の光景こそが幻だったんじゃないかと頬をつねる幸也の様子に、奈江が声をかける。

 見れば、覗き込む様に見下ろしながら、幸也の表情から記憶が抜けていない事を悟ったらしい奈江に、幸也はびくりと震えて息を呑んだ。

 今度こそ怒られるだろうかと身構えていた幸也に奈江は目線を合わせる様に屈みこむと、静かに口を開く。


「出雲のこと、前から知ってた?」


 怒りこそないものの、問い質す様な言葉に幸也は先ほど保身で封じ込めてしまった謝罪を今度こそ言わなければと口を開いた。


「ごめんなさい! いずもが、ないしょだっていってたのに、おれが、ひみつだっていったから」


 奈江は幸也の、自分が悪いから出雲を叱らないで欲しいという意図の謝罪に数秒沈黙した後に深く息を吐き、


「ふたりだけのひみつ、なのよね? これからも秘密を守っていける?」


 しゃがみこみ、目線を合わせた奈江の問いかけに一度目を大きく見開いた幸也は強く頷く。


「ありがとう。出雲も、幸也くんにありがとうって言うのよ?」

「ゆき、ありがと」

「え、あ。うん……」

「幸也くん。これからも出雲と仲良くしてくれる?」

「! うん!」

「とりあえず、今日はもう帰りましょうか。幸也くんのお洋服が汚れちゃったのも綺麗にしてもらわないとだものね?」


 話はこれで終わりだという様に、ふたりの手を取って奈江が歩く様に促す。

 奈江の緩やかな歩調の間で視線を向けた幸也に、出雲はいつもの無表情に近い顔に困惑を浮かべながらも、ただ幸也と仲良くすることだけは理解した様子で緩く笑う。

 釣られた幸也は笑みを隠す様に鼻を擦る。


「(おれが、ひみつをまもる。いずもと、おばさんとやくそくしたんだ)」


 出雲と奈江、ふたりと交わした約束として、常群の遠い記憶の中でも鮮明に残り続けていた。

 後に真っ当に成長した常群は当時行っていた遊びの危険性や、出雲に頼り、甘え切っていた事実を改めて正しく認識すると、その約束はより強固に常群の心の最奥を占める重石として機能することとなる。

 そして、それこそが、常群が出雲という個人を、周囲へと向ける態度の理由などを深く理解している理由でもあったのだった。

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