12-9 心配だから
新生夜鷹の面々との協議が保留に落ち着いた翌日。
黄泉路は早朝から借家暮らしとなっている実家を抜け出してきた遙の訓練という名目で人里離れた山林の中に居た。
「ふっ」
「おっ、わぁッ!?」
ひゅっ、と鋭く風を切るような音と共に繰り出される、少年の身からは想像もつかない蹴りが遙の目の前を駆け抜け、後を追う朝の山の湿気を孕んだ空気が背筋に迸る寒気に混ざり合う様に遙の首筋に伝う汗を撫でることで体温を奪う。
「お、まえっ! ちょっと大人げ、なさすぎ――ッ!?」
舗装もされていない山中の林の中という、一歩間違えば傾斜の激しい地点に踏み込んだ時点で滑落の危険すらある土壌でもなんとか食らいつく――というよりは、必死になるあまりに場所への危機感などすっぽ抜けてしまっている――遙の悲鳴じみた文句に、黄泉路は連続で空を切るように振り抜いた右足を斜面に降ろして首を傾げる。
「実戦を体験してるなら、待ったは通じないって分かってると思ったんだけど」
「そ、うだけどさぁ……! これは、違うだろ……!!」
「えぇ……?」
ぜぇはぁと荒く息を切らし、すぐ傍の自身の胴ほどもある樹の幹に手をついてようやく体を支えながら抗議する遙に、黄泉路は真剣に何を指しているのかわからないという困り顔を向けた。
そもそも、黄泉路に蹴りを当てるつもりなど毛頭なく――当てようと思えば地力の差も身体能力の差も歴然なのだから、訓練開始の合図とともに頭を蹴り砕いていただろう――あくまで遙という、ほんの1、2か月ほど前まで一般人であった少年が夜鷹のメンバーに加わるにあたって必要だと思われる生存術を教え込んでいるつもりなのだ。
ほとんど同じように一般人から数か月で多少なり動けるようになった黄泉路であるからこそ、他人にもそれが出来ると思ってしまうのは悪い成功体験としか言いようがないが、成長を遙が望んでいた以上――そして遙自身が追い詰められなければ必死になれない性質であることからも――うまい具合に噛み合っていたと言える。
伸び盛りの少年という事もあってこの1、2か月の間に目に見えて身体能力が改善され、研がれることなく据え置かれていた戦闘勘とも言うべきとっさの判断もそれなりに見れるものになったというのが黄泉路の評価である。
かつて同じように数か月で戦闘技術を叩き込まれた身として、順当に身体能力に成長を感じられる遙を羨ましいと思わないでもない。
「足場の悪い環境で戦う可能性を考えたら必要だと思うけど」
だからこそ、黄泉路は遙自身が望んだ鍛錬でいつもとは違う割と本気な抗議が飛んでくることに首を傾げていると、ようやく息が整ってきたらしい遙は睨むように目を細める。
「訓練自体は、オレが頼んだことだし必要だって分かってんだよ。けど、今日のお前のは八つ当たりだろ」
「……?」
「自覚無しかお前……。八つ当たりじゃなきゃ、逃げか?」
「――」
言い直された単語に、黄泉路の涼しい顔がぴくりと動く。
「昨日反対されたこと引きずってんだろ」
「それは……そう、かも?」
「はぁー」
そうした現実逃避のプロでもあった遙は黄泉路の内心を体感でありながらも正確に言い当てていた。
同時に、そこまで長い付き合いでなくとも見えてくることはあると、溜息を吐きながら遙は言葉を続ける。
「んで。中身はあれか? 反対されたことか? それとも、反対派をどう説得するかか?」
「……」
目を見開き、黄泉路は言葉もなく遙の告げた言葉の中身が心にすっと入ってきたことに、それが、まさに自身の心の内側にあったものと同一であったこその同調にも似た納得だったことを自覚して言葉をなくす。
「何びっくりしてんだよ。オレだってそれくらいわかるぜ」
「……いや、僕も、今言われてしっくりきたから。それに、遙君とはそこまで長い付き合いでもないのによくわかったね?」
「はっ。オレだって日々成長だっつーの。っつか、これでもコミュ強で通じてんだぜ?」
わかりやすいんだよお前。と。雑に樹に寄り掛かってもはや訓練という雰囲気でもないと休憩し始めた遙に、黄泉路もまた訓練に指摘されたような雑念が入り込んでいたことを自覚してこれ以上の続行は止めるべきだと片隅に残っていた残心を解き、
「それなら、相談に乗ってくれると嬉しいな」
遙の反応を窺うように控えめに要求を口にした黄泉路に、遙は僅かに顔をしかめた後、仕方なしとばかりに頷いて見せる。
「――あー、仕方ねぇなぁ。んで、お前は何を悩んでるんだよ」
「僕は……昨日も言ったけど、できれば唯陽さんの依頼を受けたいと思ってる。終夜のバックアップがあれば僕が知りたいと思ってる情報が入りやすくなるし、それに、唯陽さんも知らない人じゃないからね」
「なら何でそれをもっと押さねぇんだよ。結局、夜鷹ってお前がやるって言えば止まらねぇ集団だろ?」
「そんなワンマンなつもりはないけど……そう見える?」
「おう。逆にお前中心じゃなきゃ集団してねぇとすら思うぜ」
癪だけどな、と。どこまで本気なのかわからないような軽い調子で応える遙に、黄泉路はゆっくりと気持ちを整理する様に口を開いた。
「……だとしたら、余計に今回のことで無理を言うのはどうなのかな、って思っちゃうんだよね」
「反対してる理由がお前のことが心配だからか?」
遙が口にした理由に黄泉路は頷く。
彩華、標、姫更の3人が揃って反対している理由が自身を案じてのことだと理解しているが故に、黄泉路は迷ってしまうのだ。
自分が我儘を言うのは、彼女らの行為を無下にする行為なのではないかと。
そんな不安を吐き出す姿は、これまで遙が見てきた迎坂黄泉路という少年からかけ離れたもののように見えていた。
安穏とした表面とは裏腹に荒事に強く、集団を引っ張るだけのカリスマのような、リーダーシップこそないものの、逆にそれが支えてやらねばと思わせる、実際には支える必要もないだけの強力な能力を持つ集団の頭。
それが遙の抱く黄泉路への印象だった。
中華に居た頃から現在の潜伏期間の間も含め、それなりの時間を接して多少の印象の変遷はあれど、黄泉路という少年は他者との和を重視する、人付き合いに器用な性質であるとカテゴライズしていた。
黄泉路という少年の人格を形成する根底を遙は知らない。他者に必要とされたいという承認欲求、他者依存体質を突き詰めたような在り方を、今まさに改善して新しく価値観を再構築している最中であるなどという話は、夜鷹の面々は誰も口にしないからだ。
それでも、遙は黄泉路を取り巻く夜鷹の面々の接し方から、我儘をあまり言わない黄泉路にそう振舞ってほしい、そうさせたいという空気は感じ取っていた。
だから、この場で背を押す役割を押し付けられたのだろうと、遙は内心で溜息を吐く。
「はぁー……しょーもねー。んなこと気にするだけ無駄だろ」
「なっ」
「いいか。相手の為だっつって何でも押し付けるのが絶対正義なら、この世の中で教育ママもヤンデレもカルト宗教の狂信者も正義マンも白い眼で見られたりしねーんだよ」
「それとこれとは話が違うよ」
「違うかもな。オレもうまい例え見つかんねーから適当言ったけど、これだけはガチで言えるぜ。心配されたからってハイそーですかって自分のやりたいこと引っ込めて、お前それで後悔しねーのか? っつか、引っ込めさせた側が罪悪感抱くだろそんなん」
「――」
遙のあまりにも雑な例えに思わず口をとがらせる黄泉路だったが、すぐに飛んできた遙の言葉に思わず二の句を告げなくなってしまう。
返しの言葉が浮かばない様子の黄泉路に、遙はなんで自分が塩送らされてるんだろうかと内心で唾を吐きたい気持ちを抑えながら黄泉路に語り掛ける。
「あとな。オペレーターとちびっ子は分からんけど、彩華さんはお前が他の女の為にーってのも理由だと思うぞ」
「え」
「だから説得するなら終夜のお嬢様の為じゃなくて、お前自身がどんだけやる価値があると思ってるかで攻めるしかねぇんじゃね?」
「でも、心配してもらっておいて皆の気持ちも考えないで推し進めるのは……」
「だーかーらー。その心配は杞憂だって説得しろっつってんだよ!」
「っ」
話が堂々巡りになる気配を敏感に察した遙が面倒くさそうに吠えれば、黄泉路はびくりと肩を揺らし、僅かに遅れて遙の意見の妥当性を思考する。
「杞憂だって、どうすれば……」
「いや、そこはオレに聞くなよ。大体、オレはなんでお前がそこまで心配されてんのかわかんねーし」
「え、えぇ……?」
途中ではしごを外すような物言いではあるものの、下手に安請け合いするよりは誠実な対応だろうと遙が鼻を鳴らす。
遙から見た黄泉路はどうやったら死ぬのかも分からない、東都を砂嵐で包むような強大な能力者を倒せる、今の遙が逆立ちしても太刀打ちするどころか一矢報いる事すら怪しい雲の上の戦闘力を誇る能力者だ。
そんな人間戦術兵器めいた奴が何故心配されているのか分からない遙にとってはそう返すほかないが、ここまで相談をしてきた黄泉路としてもここで話を終えられても問題解決の糸口が見えたとは言い難く、どうにか遙から意見を貰おうと自身が思い当たる限りの理由をぽつぽつと口にする。
「……たぶん、だけど。彩華ちゃん達が心配してるのは……僕が英雄になること、なんじゃないかな」
「はぁ?」
「ああ、ええっと、なんていうのかな。文字通りの英雄になる、っていうんじゃなくて、その、僕が、今世間で話題になってるような英雄として、求められている英雄像を演じざるを得なくなること、そういうのを心配してるんじゃないかな、って」
自身のこれまでの在り方を、根幹を、無意識に目を逸らしていたほどに恥じていたそれらを言葉にして説明するという苦痛に思わず言葉を途切れさせ、単語を吟味する様にしながらも言葉を続ける。
「これまでの僕なら、多くの人に望まれる在り方を自然と受け入れて、当然のようにそう振舞ってた。その確信があるだけに、彩華ちゃん達の心配がまるっきり的外れじゃないって思えちゃうんだよ」
それが黄泉路を今の黄泉路から引き離してしまう、そう考えているのではないかと、自分なりの考えを告げる黄泉路に、遙は呆れたような顔を隠さず否定する。
「……答え出てんじゃん」
「え?」
そんな黄泉路の、軽蔑さえも覚悟した告白に、遙は短く、呆れたように呟いていた。
呆けたような顔を上げて遙を見つめた黄泉路に、遙は出来の悪い弟に向けるような面倒臭そうな表情を浮かべ、
「これまでのってことは、今のお前は違うんだろ」
「あ……」
「昔のお前のことなんて知らねぇし興味ねぇけど、今のお前にはちゃんと自分のしたいこととか好き嫌いとかあって、どうでもいいヤツより自分とか自分の周りの人間を優先できるんだろ? ならいいじゃん。それ伝えたら解決だろ」
「……そんなに上手くいくかな」
「さぁなー。オレは別にお前の意見が通っても通らなくても困らねぇし? あの時は単純に超が付くお金持ちと知り合いになれるかもしれないって思ったから賛成しただけで」
「それ、普通に幻滅されると思うよ」
「うるせぇよ。普通の感性してたら終夜のお嬢様と直接お知り合いになれるとかすげぇことだぞ。自覚しろ自覚」
「あはは……うん。ともあれ、少し気が楽になったよ。ありがとうね」
「はっ。礼を言うなら朝軒に言っとけよ。オレは昨日あいつに連れ出されて悩んでる様なら背中蹴飛ばせって言われただけだからな」
「……ありがとう」
照れ隠しなのか本心なのか、顔を背け、その瞬間に酷使した筋肉が引き攣ったらしくびしっと体を硬直させた遙に近づいた黄泉路は支える様に肩を貸しながら、改めて礼を口にする。
「あ、でも説得するなら明日にしとけよ。昨日の今日で別の女の為にオレはこうしたいんだーって言ったらさすがの彩華さんでもキレるぞきっと」
キレた彩華さんに八つ当たりされたくねぇからな、と。冗談なのか本気なのかわからない調子で注文を付ける遙だったが、黄泉路が固まって攣り掛けている筋肉を解そうと手を動かし始めれば、即座に走った痛みに上げた呻きで言葉が掻き消える。
「――いっ、ってえぇえおま、お前ッ、ふざけ」
「解しておかないと辛いままだし。最低限の応急処置してから戻ろうか。ほら、掴まれる?」
「ひとりで、歩ける、から! やめ、痛ッ」
ざっくりと問題がないか確かめた黄泉路が遙を担ぎ上げ、迎えに来る姫更と合流すべく斜面を跳び、木々や地面を蹴って軽快に降り始める。
黄泉路の足が何かを蹴って跳躍するたび、担がれた腕を伝って全身に奔る衝撃に悲鳴じみた呻きを上げる遙の声が山中に響いていた。