12-1 望まぬ英雄
今回から12章です。
◆◇◆
朝へと向かい、地平線の彼方がわずかに白み始めた時間帯。夜空を彩る深い紺色が薄まっていく中を小さな影が飛び跳ねるように移動する。
まだ夜と言っても差し支えない見通しの悪さの中を行く影の姿は暗闇に紛れ判別しづらく、その移動速度も相まって、仮に夜空を見上げていたものがいたとしてもその詳細を推し量ることは出来なかっただろう。
やがて音もなく軽やかに跳ねる影がとある家屋の屋根の上で姿を消すと、夜明け前の冬の冷たい空気が何食わぬ顔で沈黙する静寂だけが取り残された。
夜空を駆けた影――迎坂黄泉路は先ほどまでの肌を刺すような外気とは打って変わった、人のぬくもりを感じる暖房の風に前髪が煽られるのを感じると、はたりと目を開けて目の前の女性に申し訳なさそうな、それでいて再会を喜ぶ様な顔を向ける。
「お久しぶりです。掛園支部長も無事でよかった」
「ええ。そちらこそ。……とはいえ、今は三肢鴉も解散状態ですし、支部長呼びじゃなくても構いませんよ?」
人の好さそうな表情を浮かべる女性の言葉に、黄泉路は困ったように苦笑を浮かべる。
掛園紫――三肢鴉で黄泉路たちが所属していた夜鷹とはまた別の支部を預かっていた女性支部長であり、距離を自在に操る【距離変換】の能力を持つ転移系能力者。
かつての本部襲撃の折に散り散りになった三肢鴉の主要メンバーのうちのひとりであり、黄泉路たちもその行方を掴めずにいた人物のひとり。そんな人物と黄泉路がどうして対面しているのかと言えば、理由はもう1か月も前のことになる東都テロ終息と、その終息の折に発生したある報道からであった。
「驚いたわ。まさか君があんなに大きく取り上げられるなんて」
「……そのことは僕も驚いてます。顔が出てしまったのは失敗だったとしても、こうも大々的に出されるとは思ってもみなかったですし」
報道陣が構える中で素顔を晒してしまった黄泉路は当初、それ自体はまずい事だとは思いつつも事件の規模の大きさや国の対応、なにより、黄泉路の顔が変わっていない以上、戸籍上で死を偽装し、実験体として扱ってきた政府の能力研究関連の闇に繋がりかねないだけに、能力研究機関――ひいては我部が手を回すことでそれほど大きな騒ぎになることもなくほかのニュースに紛れて消えるものだと高を括っていた。
「お陰で私も君たちのことを知ることができたし、良し悪しよね」
「あはは……」
だが、いざ蓋を開けてみれば東都テロが終息し、臨時内閣による大規模で革新的な復興計画の発足に抱き合わされる形で発信された東都テロの詳細に関するあらゆる報道の中には黄泉路の素顔と共に東都の全壊を食い止めた英雄として、対策局共々全国的に報道されてしまう事態となってしまっていたのだった。
「とにかく。君たちが無事でよかったわ。あの時、子供たちのことまで気を配る余裕なんてなかったもの……」
「そう、ですね……」
夜鷹が壊滅し、本部が襲撃された際のことを思い出してしんみりした空気が流れるも、すぐに掛園が空気を換えるようにパンと手を合わせ、
「大丈夫よ。本部には私が元々開いていた道がたくさんあったし、その維持のために最後のほうまで残っていた私が無事なんですもの。それに、私の前にも連絡をくれた人も居たんでしょう?」
「はい……そうですよね」
「ただ、ね」
「え?」
掛園の女性らしくも家事などで経験を経たことを感じさせる柔らかな手が頭に乗ると、黄泉路は俄かに目を見開く。
困惑と驚き、その狭間にあるような表情の黄泉路に、掛園は変わらず子供としか思えない頭を軽く撫でながら柔らかい声をかける。
「無理はダメよ? 君たちはまだまだ子供なのだから」
「……前も、似たようなことを言ってくれましたよね」
「ええ……。そうね、私の感傷でしかないのは自覚しているわ。だから、親戚のおばさんのおせっかいだと思って頂戴」
「……ありがとうございます」
心から心配しているのが伝わるような掛園の態度は夜鷹という家が奪われたあとからずっと走り通しだった黄泉路の心に柔らかく刺さる。染み込むような言葉にはにかむように笑った黄泉路は、それでもと緩やかに首を振る仕草で掛園の手を離れる。
「まだ、美花さんとカガリさんが見つからないから?」
「……はい」
「そう」
悲し気な顔でそれ以上何も追求しようとしなくなった掛園に礼を告げ、掛園が作り出した道を踏み出した黄泉路は、自身の背に向けられた掛園の視線を務めて気づかない振りをする。
「(……頭では理解してるんだけど、ね)」
自分たちを逃がすために対策局の精鋭や屍者の群れの足止めを買ったふたりが無事である確率は高くない。
それでも諦めきれないのは、黄泉路という自分を形作った大事な要素だから。だけではないと、今の黄泉路は考えていた。
「おかえりなさい。黄泉兄さん」
「ただいま、廻君」
距離の道で繋がった先は黄泉路もよく知る廻の拠点。
明け方にもかかわらず待っていたらしい廻に声を掛けられれば、黄泉路は思考に沈みかけていた意識を廻へと向ける。
「掛園さんと何かありましたか?」
「ううん。大丈夫」
「そういうことにしておきましょうか。朝食の支度、一緒にやりませんか?」
「うん」
廻にも気遣われている自覚。それほど自分は疲れて見えるのだろうかと首を傾げつつ、黄泉路がダイニングキッチンへと顔を出せば、明け方だというのに寝起きというよりはこれから寝ますという風体の藤代標の姿があり、
『よみちんおかえりー』
「ただいま。付き合わせちゃってごめんね」
『いいんですよぅー。私も賛成して始めたことですしぃ』
「でも、最近は報道のせいもあって目も多いから、大変じゃない?」
『そーですねー……』
気が抜けたらしく、うとうととし始めている標を部屋まで運ぼうかと廻に視線を向ければ、廻は分かっているという風にひとりでキッチンに立ち、食事の用意を始め、それを見送った黄泉路は標を抱きかかえて2階へと向かった。
「ごめんね」
『よみちんのわがまま、なかなかないですからねぇ。可愛い弟のおねだりは叶えたいなってお姉ちゃん心ですよー』
「……僕のほうが年上だけどね」
『あっはっはー』
見た目――肉体年齢だけでいえば、確かにそろそろ廻にすら追いつかれそうであるのは事実である。
標の冗談で少しだけ気が軽くなった黄泉路は、自分の腕の中でもはや完全に目を閉じてしまっている標を寝室のベッドへと横たえ、布団をかける。
「(……行き詰ってるなぁ)」
ここ数週間、一気にそう感じることが多くなった現状のままならなさに漏れそうになるため息を堪え、黄泉路は廻の手伝いをしようとキッチンへと戻ると、この短い時間の間にもそれなりに支度が終わってしまっており、
「お皿、並べてくるね」
「お願いしますね」
もはやそれくらいしか手伝えることのない黄泉路は戸棚から数枚の皿を取り出してテーブルへと並べる。
後を追うようにコーヒーを入れた廻がテーブルに二つカップを置いて、黄泉路の対面に座る。
「すこし、話しませんか」
「どうしたの?」
大事な話だろうか。そう首を傾げた黄泉路に、廻は両手で熱を受けるようにマグカップを支えながら口をつけ、
「……テロから1か月たっても、兄さんに関する報道は止みません。それどころか、最近だと一般市民が面白半分に現場を張り込んで兄さんと接触を図ろうとするケースもありますよね」
「うん。今日も、ちょっと危なかったかな」
「兄さんが追い回されてしまうのは、僕の立場からすると良いとは言えませんけど、一旦脇に置いておくとして。僕たちが向かわなかった怪しい団体の周囲を張り込んでいた一般人がトラブルに巻き込まれる、そういったケースも、最近になって多くなってきました」
「……」
東都テロの後、関係者の中でも浮いた存在であり、唯一顔が割れてしまった黄泉路に焦点が当たると、東都に残された巨大な金属の花々から【リコリス】の関係者であるという話がどこからともなく一気に広まりを見せ、以前から話題になっていた義賊的活動という追加要素をおいしいと思ったメディアによって黄泉路は今や、“東都を救った能力者”から“人目を忍んで悪を裁く英雄”などという、当人からすればなんだそれはという評価で世間に認知される存在となってしまっていた。
それだけでも十分な大ごとではあるが、最近になって輪をかけて深刻化しているのは取材を試みるマスメディアやSNSでの話題性を求めた一般人などが黄泉路たちが活動する薄暗がりを徘徊するようになったことだ。
人目が増えればその分だけ活動がしづらくなるのが黄泉路達の立場であり、加えて黄泉路達が相手にしているのもまた、人目に付くならば人目を消してやろうという動きを見せても不思議ではない法外の存在達である。
結果として、黄泉路はそうした犯罪組織の撲滅を人知れず行う合間、態々迷い込んできた迷惑な観光客を現場から救い出すなどという行為も並行せざるを得なくなっていたのだ。
「でも、お陰で三肢鴉の人たちともいくらか連絡が取れるようになったし……」
徐々に身動きが取れなくなっているという事実と、先ほどのように、話題によってかつての仲間たちからの接触があったことを天秤にかけるように言いよどむ黄泉路に、廻は小さく首を振る。
「ええ。ですから、一度兄さんは休んだらどうかなと」
「……」
「掛園支部長を始め、横に連絡を付けられる人とのつながりもできました。あとは、もう兄さんが矢面に立って目を集めなくとも横のつながりで捜索することも、纏まることもできる状態に持っていけるでしょう」
だから、もう休んでいいのだという廻に、黄泉路は理屈は理解しつつも、どこか納得しきれない感情が先に立って言葉を飲み込んだまま、黒々としたコーヒーの水面に映り込む自分の顔を覗き込むように俯く。
「じゃあ、逆に兄さんが表に出続けることのデメリットを説きましょうか」
「デメリット?」
「はい。兄さんは最近注目が集まりすぎています。つまり、人目を避けたい人からすると、接触を躊躇う人物というわけですね」
「!」
今やマスメディアや民衆の目に対する裏社会の誘蛾灯ともいえる黄泉路。そんな、人目の集まるスポットライトの下に、お尋ね者や自らを秘したい者が率先してコンタクトを取ってくるか。
先んじて接触してきた掛園などはこれほどまでに騒ぎになってしまう前、まだ黄泉路の顔が公に出たばかりのころにかつての情報網を通じて現場を匂わせることで黄泉路を呼び出して接触を図ってきたが、今後そのようなことをすれば黄泉路だけではなくほかの有象無象すらも引き寄せかねない。
そこまでわかりきったリスクにすら今の今まで気づいていなかったことを指摘された黄泉路は目を瞠り、それから、確かに自身が心配されるような状態だったのかもしれないと苦笑する。
「……廻君たちが言ってることは理解したよ。確かに、少しの間休憩したほうがいいみたいだ」
「はい。良かったです。忠告を受け入れてもらえて」
「受け入れてもらえない未来もあったみたいな言い方だね」
「……」
曖昧な笑みを浮かべ、困ったような、それでも、提案を受け入れてくれたことが嬉しいような、歳に見合わない、最近では黄泉路に似てるといわれる表情を浮かべた廻を見つめ、黄泉路は小さく息を吐く。
「(いつか、廻君が秘密にしてることも教えてもらえるのかな)」
時々見せる廻の何かを乗り越えたような顔。その真意はきっと廻自身の能力――未来を知ることに関わるのだろう。
美花やカガリについても、何かを知っていた、知っているのではないかという確信に近い疑念を持ちつつも、黄泉路は廻にその詳細を尋ねることは出来ないのだった。
廻に対する思考がどんどん深みへと嵌りそうになる。黄泉路はコーヒーに口をつけつつ、それらを思考の片隅に押しやるように提案されたばかりのことに対して思考を向ける。
「(休むにしても、どこかに出歩くってわけにもいかないし。本当に自由に何もない時間を過ごすのは、久しぶりだから。どうしようかな)」
誰かに必要とされる自分。誰かの考える自分。そんな曖昧で他人任せな自己しか持っていなかった黄泉路は、自分のためだけの時間というものを考えるのがひどく苦手だ。
それは今も変わらない。だが、あえて考えることは廻達に言わせれば、リハビリのようなものなのであった。
そうして地道ながらも黄泉路に自分自身という価値観を芽吹かせようとしてくれる周囲をありがたいと思いつつ、黄泉路は結局、姫更や歩深といった同居人が起床して俄かに慌ただしくなってなお、纏まった結論を出すことができないのであった。