11-47 東都崩壊戦線-急ノ一
片手で素早く懐から引き抜かれた自動拳銃がイグナートの手元で眩い火花を散らし、暗い地下駐車場を一瞬だけ照らし出すのと、薄桃色の髪が移動に伴って揺れ、その重心が低く絞り込まれて地を滑る様に駆けだすのは同時だった。
「あはっ!」
『チッ』
たった数メートルの距離は拳銃の有効射程距離としては正しい。だが、イグナートが再び照準を合わせるよりも己刃が懐に飛び込む方が僅かに早く、己刃の握った拳銃の銃身が互いの射線を食い合う様にイグナートの手にした拳銃とぶつかり、同時に吐き出された弾丸が互いのすぐ傍を駆け抜けて大気を焼く。
発砲音が鼓膜を叩き、聴覚が麻痺してしまったにも拘わらず、イグナートは目の前の青年の笑い声を幻聴する。
それほどまでに分かりやすい表情がすぐ目の前に、その間にある無骨なナイフが首筋へと迫る中、イグナートは僅かに上半身を反らす。
一瞬遅れナイフが空を切り、振り切った己刃の攻め手の間隙を縫ったイグナートの膝蹴りが己刃の顎を狙う。
鋭い膝蹴り――当たれば顎が砕けるだろうと直感できるだけの遠慮のないそれ――に対し、振り切った左手、ナイフから離されていた中指を曲げた己刃の身体が不自然に後退する。
互いに聴覚が戻っていれば、くんっ、と。弦がはじかれる様な音が微かに響くのに気づいただろうが、至近距離での発砲音で耳が麻痺していたイグナートにはそれが種のあるカラクリか、目の間の青年の能力か区別をつけられない。
『戦い慣れしているな。厄介だ』
「何言ってっか全然わかんねーけど、とりあえず誉め言葉と思っておこーかな?」
けらりと笑った己刃が再度踏み込み、ナイフと拳銃の二刀流でイグナートを攻める。
一見無秩序、それでいて人体の構造上可能な可動域の限界や機能としての急所を的確に突いてくる、殺し合いにおける最適解を出し続ける己刃の戦闘センスに目を剥くと同時、イグナートはその戦い方が自身の様な軍人のそれとは明らかに異なっていることを理解する。
『(戦い慣れ――これは戦い方じゃない、殺し方に慣れているな……異常者め)』
如何に被害を受けずに相手を制するかという点において、あらゆる武に差異はない。しかし、その過程における目的や到達点の違いはそれぞれの立ち振る舞いに非常に大きな違いを生む。
イグナートの様な軍人は身を守る方法以上に、相手を制圧する術を、複数人でカバーし合い、相手戦力を無力化する術をこそ重視する。
だが、目の前の青年、行木己刃のそれは、単独で戦闘巧者を屠ることを目的とした暗殺術のそれだ。
それにしたって武術の心得があればそれが透けて見えるものだが、こうして対峙した己刃にそれがないことが、イグナートにとっては戦慄すべきことで、同時に唾棄すべきことであった。
何故ならば、それらの全ては己刃という青年が独力で人殺しに習熟し、独学でこの域に至るまで死を、殺しを積み上げたという事実に他ならないからだ。
なるほど、戦争が当たり前で剣や鎧で武装した兵隊がぶつかり合う戦場であれば英雄にもなろう。だが、現代は極力無駄な殺しはせず、殺す際には1回の殺人が最大の効力を生むように殺すことこそ尊ばれる、英雄を求めない政治と暗躍の時代だ。
そんなご時世においてこの才能が遺憾なく発揮されてしまう環境というのは想像の外の地獄というほかない。
イグナートは頑丈なトランクケースでナイフを受け、銃身を構え合うことで互いの射線を切りながら分析した己刃という青年の背景に内心で唾を吐いて引き金を引く。
自動拳銃特有の連続した射撃が空を切り、返す様にマズルフラッシュが瞬き、イグナートのすぐ近くのコンクリート製の床や柱が音を立てて砕かれる。
互いに至近距離、トランクケースを盾にはできても積極的に運用したくないイグナートの武器は実質拳銃だけであるのに対し、両手に有効射程、軌道の異なる武器を持ち変幻自在に繰り出す己刃の戦いは一見すると己刃が優勢であるように見えるが、互いに防御に攻め手を差し込みあっている両者の理解は異なっていた。
「(ここまで粘って安易に能力に走らねーのはプロいなー。さすがにそろそろ使って欲しー所なんだけど)」
『(これだけの技量で能力らしいのは先の1度きり……切り札を使うには引き込みが足りないが……!)』
両者の均衡は十数合の駆け引きの最中にも流動的に噛み合っており、
『強いな――!』
「悪くねーな!」
言語の壁を越え、互いを強敵と再認識した両者が再びぶつかろうと半歩踏み込んだ瞬間、頭上から、柱を伝播して足元に響くような揺れが両者を襲う。
それは頭上――地上階で今まさに行われているであろう魔女の猛威に対するロシアンマフィア達の決死の抵抗が佳境に入った知らせのようで。
「ちっ、あのバカ、俺まで埋めたらぶっ殺してやる」
僅かに意識を頭上に向け、悪態を吐いた己刃の隙とも言えない隙。
この戦闘の最中において己刃という殺人のプロが見せた明確な意識のブレに、イグナートは隠し通してきた切り札を切る。
『【мой жизнь спасена кровопролитием】――!』
口早に捲くし立てられたそれが先ほどまでの伝わらなくとも自身へ向けられていた言葉ではないと己刃が理解するのと、持ち前の本能が危険を察して身体を動かしたのは同時――だが、
「ぐぅっ!?」
右腕に刃物で切られた様な痛みが走る。
直前に僅かに距離が空き、ナイフを持つ左手よりも前に出していたことが災いした形だが、己刃は自身の痛みを知覚すると同時に拳銃の引き金を立て続けに引いていた。
ガンガンと激しい音と揺れが傷を負ったばかりの右腕を刺激して痛みが腕を這い上がるが、それをおくびにも出さずにカチカチと玉切れを示す空振りに肩を竦めて笑い、
「残念玉切れ。補給の時間だ―!」
『逃がすか!』
相変わらず言葉など通じないが、それでも一時撤退を宣言したらしいことは玉切れを起こした拳銃をひらりと振って、ナイフを軽く宙に置くように弾いた直後に空いた左手で取り出した筒状のナニカを見れば一目瞭然だと、イグナートは能力を使う。
「ばーん!」
『ぐぅっ!?』
手のひらに収まるサイズのそれを宙に放った己刃が恥も外聞も感じていないとばかりの潔さで踵を返す。
それを追う様に宙を奔るナニカが丸い何かを包み込んだ瞬間、暗闇に包まれていた地下を閃光が駆け抜けた。
「うっひゃー!」
背後で豪快に爆ぜたスタングレネード、その対処に追われているイグナートを閃光の残滓の中で確認した己刃は予め仕込みをする段階で補給地点として定めていた柱の影に隠れながら右腕の袖をまくり上げる。
すでに袖ごと切り裂かれ、赤々とした血が流れ出していることは把握しているものの、その傷がどの程度のもので、どのようなものによって為されたのかの分析をするためだ。
傷口は鋭利な刃物によってつけられたような裂傷のような切り口で、特筆すべきはその範囲、まるで鞭に打たれた様なしなやかな形状の傷に、己刃は持ってきていた消毒液を掛けながら手早く包帯を巻きつける。
「(さっき一瞬見れたけど、あの匂いからして血かなー? 血液操作ー? あの量って考えると自分のって限定になってなさそーだから注意注意っと)」
完全に遮蔽になっているが故に現在は己刃の側からもイグナートの姿は確認できないが、柱の陰に滑り込んだ際に残光の中でイグナートを守る様に宙に舞っていた赤黒い帯のようなものを思い出し、己刃は静かに分析する。
「(今まで使わなかったのは習熟度が低いからっつーより、マジで切り札として運用する前提と。動き方もそーだけど、軍人さんだねー)」
戦闘中は冷静さよりも戦闘に対する意欲や殺意の高さばかりが注目されがちであるが、己刃本人はむしろよく思考する。
それは能力というある種の反則技を持つ敵と対等に戦い、殺すための工夫であり、相手をよく観察し、本人の言うキラキラを見極めるため、自然と身に着いた戦いの極意であった。
「(さーて。さて。腕はまだちっと痛いけどー。傷口に入った血まで操れるならもう俺終わってるはずだし、ま、上の圧があるから持久戦は出来ねーでしょ。不服だけどー)」
ちろりと舌を出した己刃は、背を預けた柱に伝わる振動の発生源である同盟者に対してプラスともマイナスともつかない微妙な感情を向け、それもまた仕方なしと折り合いをつけて立ち上がる。
補給地点に滑り込んだ際に手早くリロードまで済ませた拳銃を腰に吊り下げたホルスターに仕舞うと、すべてを携行しきるには不向きなことから隠しておいた武器群をのぞき込む。
「(どーれーにーしーよーかーなー)」
大学生が背負う様な当たり障りのないナップザックの中身は、呼び止められれば一発でお縄になるような代物から、何に使うのだろうと首をかしげるようなものまで、機能的に詰め込まれた数多の殺意を脳内でああでもないこうでもないと選ぶ己刃の顔は楽し気だ。
命がかかっており、この時間もそう長く取ることはできないにも関わらず、己刃が楽しいと感じているのは相手がまともな手合い――殺せば死ぬし、自分が死なないと勘違いしている間抜けでもない――からであった。
ついでとばかりにサイドポケットから取り出したロリポップの包装を慣れた手つきで剥がして咥え、舌でころころと転がせば、口の中で動く飴に合わせて唇の間から突き出した白い棒がゆらゆらと揺れる。
舌の上に広がる甘さからか、それとも、今というシチュエーション、相対している敵に対してか。己刃の口元に緩い笑みが浮かんでいた。
「(死ぬかもしれないって覚悟しつつ、それでもしっかり生きよーとしてる。いーよね。そーゆー奴、俺大好きだよ)」
すでにスタングレネードの効果も切れ、闇にも目が慣れてしまったことだろう。
部下を捨て駒にして魔女という明確な脅威から遠ざかろうとする相手にこれ以上時間を与えては撤退の口実にもなるため、己刃は思考もそこそこにナップザックに刺さる様に入れられていた棒を手に握る。
引き抜いたそれを振れば、音もなく柄が伸び、末端に折りたたまれていた刃がスライドして深い溝を持つ鎌の様な形が手に収まった。
「(さて、2度目の奇襲は難しーけど、それはそれ。やりよーはいくらでもってね)」
タクティカルピッケルと呼ばれるそれを左手に、ナイフを右手に持ち直した己刃は右指を宙を引っ掻くように振る。
己刃の指が暗所では目視することすら難しい糸状のものに触れると、指に引かれたそれが撓んで遠方に力を伝達する。そして――
『ッ!?』
先の奇襲と合わせて罠を警戒し、その場を動かない選択を取った――能力による防御に信頼を置いた――イグナートへと、己刃が潜んだ柱とは別の方角から発砲音が響く。
イグナートの周囲を蠢く赤黒の帯が飛来したそれらから庇う様に膜を形成した瞬間、己刃は柱を蹴る様に三角跳びして宙へと駆けあがり、
「――ふっ!」
宙を駆けてイグナートの背後へと降り立った己刃が落下の位置エネルギーを乗せる形でピッケルの先端を叩きつけた。