3-9 夜鷹支部1
翌日、迎坂黄泉路としての朝は静かに幕を開ける。
日が昇り来るほんの少し前に自然と意識が浮上した黄泉路は幾度かの瞬きの後に上体を起こす。
「ふ、ぁー……」
ぼんやりとした頭が覚醒し、自身を取り巻く光景を認識した黄泉路は昨晩の出来事を思い返して自身の両手を見つめる。
「(……道敷出雲は死んだ。ここにいるのは、迎坂黄泉路だ。……そう、それでいい)」
ぎゅっと色白い拳を握り締めては開き、自身は確かにここにいるのだと認識して布団から起き上がる。
寝る前に閉めた襖を開けて机のある部屋へ出れば、東の山間から昇りくる朝日が光の筋となって部屋を照らし、黄泉路はその眩しさに思わず目を細めた。
ゆっくりと朝日を浴びるのはこんなにも心地いい物だったのか。
そう再認識した黄泉路はガラス戸をあけて板の間へと足を踏み入れれば、僅かにひやりとした空気と、日差しを浴びている木目の暖められた温度を感じる。
椅子に座り、段々とその姿を天高く昇らせて行く陽光を心行くまで楽しんだ黄泉路は温まった身体をゆっくりと動かして立ち上がる。
早起きは三文の徳、という諺もある事だ。少しばかり早く起きたのだから館内を散歩するのもいいだろうと、黄泉路は部屋に備え付けられているスリッパを履いて部屋を後にした。
「(やっぱり、この時間じゃまだ誰も起きてないか。まぁこんな時間だしね)」
静まり返った廊下は元々黄泉路達しか泊まっていないことを差し引いても人影ひとつなく。
朝特有の空気とあいまって大きな物音を立てる事を憚る様な雰囲気を醸し出していた。
散歩、と一口に言っても旅館の中は広く、かといって無断で歩き回る事に遠慮がないわけでもない。
迷った末に、先日風呂へと向かう途中に屋内から眺めて通り過ぎた中庭を見に行く事に決めた黄泉路は階段を降って連絡通路へと向かう。
西館と東館を繋ぐ連絡通路の端、中庭へと出る事のできる扉の前で外用のサンダルへと履き替えて外に出た黄泉路は、濃い緑を内包した澄んだ空気が胸に満ちるのを感じて大きく深呼吸する。
扉を閉めて中庭の散歩を始めれば、どの角度から見ても綺麗に整えられ、咲き誇る植物の配置は見るものを楽しませる趣向を凝らされている事に黄泉路は気づく。
一度見ただけでは把握しきれない情景に黄泉路はすっかり魅入ってしまっていた。
血なまぐさく痛々しい光景か、病的な白しか映さない光景ばかりが目に焼きついてしまっている黄泉路にとって、小奇麗で彩のある景色というのはそれだけでも十分に価値があるものであった。
「……あれ?」
中庭の外周をぐるりと歩き、2週目に突入しようとした時だった。
小さな生垣を作っている背の低い植物の中に混じる明らかに質の違うものを見つけ、黄泉路は思わず声を漏らす。
その声に反応するようにガサリと蠢く。
「――おや。これは失礼致しました。どうぞ、私の事はお構いなく」
すらりと立ち上がったのは濃紺の作業服を着込んだ背の高い男性であった。
垂れた人好きのする鳶色の瞳は僅かな驚きと、それをすぐに隠すような柔らかな眼差しで黄泉路を捉え、20代中ごろといった具合の細面の整った顔立ちに微笑を浮かべて小さく会釈する。
緩いパーマの掛かった明るめな茶髪に葉が絡まっている辺りで妙に愛嬌を誘い、この人物に対して警戒するという行為を阻害するような雰囲気を醸し出していた。
「え、いえ。えっと。貴方はここで何を?」
気にするな、とは言われたものの、はいそうですかとすぐすぐ鑑賞に戻れるほど黄泉路は図太くもない。
作業着姿に軍手という格好は明らかに汚れ仕事を想定した格好であるからして、ここにそういった人物がいる理由というのもおのずと限られてくる。
黄泉路がそう予想を立てていたとおり、作業着の青年は緩やかな笑みを浮かべたまま口を開く。
「ああ、私とした事が、自己紹介が遅れました。私、楠誠と申します。当旅館の住み込み庭師をさせて頂いております。以後お見知りおきを」
「もしかして、廊下の活花とこの中庭の?」
「はい、拙いながら、お嬢様にお任せいただいております」
「そんな、拙いなんて……すごく綺麗で思わず魅入っちゃってました」
「ははは。迎坂様は言葉がお上手でいらっしゃいますね。そうおっしゃって頂けると、職人冥利に尽きます」
先日活花について果と話した際に出てきた庭師とは目の前の青年――誠の事であったのだと驚くとともに、まだ名乗ってもいないはずであるにも拘らず黄泉路の名、しかもコードネームの方を呼ぶ目の前の青年もやはり三肢烏の一員なのだろうか。
黄泉路が密かに首をかしげた所で、意図する所を読み取った様子の誠が補足するように付け加える。
「基本的に当旅館の従業員は皆三肢鴉の関係者ですので、迎坂様の事は存じております。先日は森の手入れの為に不在でしたのでご挨拶が遅れて申し訳ございません」
「い、いえいえ!」
慌ててぶんぶんと首を振って否定する黄泉路の姿に、誠は小さく笑い声を上げる。
僅かに顔を赤らめる黄泉路を見て笑いを収めた誠はそういえば、と再び口を開く。
「迎坂様は自然がお好きなのですか?」
「え?」
「いえ、随分と熱心に中庭を御覧になっておいででしたので」
「あ、えーっと……僕、少し前までずっと閉じ込められてたので、その、綺麗な景色がとても貴重に思えてしまって」
「……少しでも慰めになるならば、この庭も本望でございましょう。手入れをしながらでよろしければ案内いたしますが、如何ですか?」
言いにくそうに歯切れ悪く応える黄泉路に、事情を知っていたのだろう誠は僅かに表情を曇らせるも、すぐに話を切り替えるように温和な表情を浮かべて提案する。
監禁時代の事を思い出す様な話は空気が悪くなる様な気がして申し訳なく思っていた黄泉路は、思ってもいなかった誠からの提案に喜んで頷いた。
それから暫くの間、黄泉路は時を忘れたように解説に没頭し、3週目を回り終えるといった所で美花を伴った燎に声をかけられて初めて自身がそれほどまでにのめり込んでいた事に気づくのであった。