11-37 東都崩壊戦線-急行
◆◇◆
上海沖をまだ出ない客船に偽装された密輸船、砂で埋め尽くされた船倉に小さく呟かれた声は船が波に揺れる微かな軋む音に混じっていても黄泉路の耳にしっかりと届いていた。
「――日本って……どうして」
『……』
重ねて問おうとする黄泉路に、もはや語ることも、語る力もないと脱力した男――マーキスの影武者は口元を緩く綻ばせたまま意識を手放したようで、その様子に黄泉路はこのまま死に至る目の前の男を完全に殺しきって尋問をするか逡巡する。
だが、結論が出るよりも先に、頭にきぃんと女性特有の高い声が響く。
『よみちんよみちん!!!』
「――っ。どうしたの?」
『東都で大規模テロが起きてて、今は警察とか対策局とかが出張ってるんだけど――』
「そっちは大丈夫なの?」
『うん。めぐっちが機転を利かせて騒ぎが起きてすぐに東都外の拠点に飛んだからねー』
「そっか、よかった。……にしても、上海でのテロが陽動で本命が日本だとして、なんでテロなんか……」
黄泉路たち新生夜鷹のオペレーター兼情報収集、解析役の藤代標からの念話を受け、マーキスの目的が何なのか考察するように呟く黄泉路だったが、すぐにこの場で考えても仕方がないと割り切って標へと意識を向ける。
「(標ちゃん、姫ちゃんを上海の――彩華ちゃんの方へ向かわせておいて)」
『よみちん今どこ?』
「(ちょっと陽動につられて海の上だから、僕も彩華ちゃんの方に合流するよ。彩華ちゃんにも連絡よろしくね)」
『了解! パパっと帰ってきてくださいねー』
深く言及せずに念話が途切れたのを感じ、黄泉路はすぅっと意識を船倉に立ったままの身体から、手にした槍、槍を起点として行使している死体操作へと向け、偽装客船全域の生者が存在しないことを確認すると、槍を頭上に掲げる。
「還ってきて。皆、皆引き連れて」
黄泉路のささやくような声はぎぃぎぃと微かに揺れる船の音にかき消されるほどに儚くとも、その声に応じるように穂先に自然光とは思えぬ揺らめく色彩を宿した槍と、それに伴って起きた現象は世界に黄泉路の意思を伝える。
やがて、それまで人が乗っていたとは思えないほどに静まり返った船内から銀色に瞬く細かな粒がさらさらと、黄泉路が突入する際にも使った船倉の天井に空いた穴から流れ込み、黄泉路自身を包み込む。
さながら、砂時計の中身が下へと流れ落ちるように、銀色の粒子は数分かけて渦を巻きながら黄泉路へと吸い込まれ、落ち着いた頃には中毒者達が命を削って生み出した船倉内の砂漠を思わせる砂の上に立つ黄泉路以外、生命は船から姿を消していた。
「……悪いけど話は後でしようか。今は、ちょっと急ぎたいところなんだ」
しんと静まり返った船倉で自らに語り掛けるような調子で呟いた黄泉路は、ぐっと膝を折って勢いをつけると、ザッ、と、砂を踏みしめる音と足から噴き出した赤い塵の軌跡を描いて天井の穴へと飛び上がり、その穴の縁へと手をかけて客船部分のホールへとよじ登る。
大量の血液を吸った砂があちこちに蟠る通路を抜け、ところどころに噛み痕や弾痕、刺し傷などが残る無残な死体が転がる中を抜けて、先の突入時とは逆をたどる様に後部甲板へとたどり着いた黄泉路は冷たい海風が肌を突く感覚を遮断し、もはや水平線しか見えない大陸側へと意識を集中する。
「(……向かう先は、彩華ちゃんがいる場所、大丈夫、彩華ちゃんの魂の形は、近くでよく見てきたから。わかるはず)」
黄泉路が行おうとしているのは、現世に留め置いている自身の肉体を一度分解し、負傷を再生する原理を用いて現世の別の場所に自らを再生させるという疑似的な転移。
一見便利で万能なように見える転移だが、同じ現世の中で移動するのとは違い、黄泉路の場合、自身の本体である魂とも呼ぶべきものが存在する内部領域と現世をつないでいる肉体が失われることで、黄泉路が一時的に現世との繋がりが立ち消えてしまうことによって、次に再生する場所を細かく指定することが難しいという欠点があった。
これまで黄泉路が短距離でしか使わなかったのも、現世で目視確認した距離を内部領域から再生成する場所のおおよそのアンカーにしていたが故のものであり、今回の様に見えてすらいない場所への転移はこれが初めての事であった。
故に、黄泉路は今回別の目印を使う。新生夜鷹となってからずっと行動を共にしてきた、戦場彩華という能力者の魂。
能力者はその性質柄、黄泉路が感じる魂の質の様なものがわかりやすく、より観察してきた彩華であればその場所を目標地点として転移することも可能なのではないかと考えたのだ。
「(距離、だいぶあるなぁ……遠くに来ちゃったけど、幸い余力はあるから、最悪ミスったらそこから全力疾走で……!)」
彩華のものらしき、鋭くも透き通った魂の位置を見極めた黄泉路は手にした槍を両手で祈る様に握り、その全身から蒼い塵を噴出させて自らの身体を宙に溶ける蒼い粒子へと変換してゆく。
全身が均等に溶けてゆくように光に呑まれ、その姿が消える。
――この後、領海内で発見した客船の異様な光景を目撃した中華海警局の隊員が現代の幽霊船として語り継いでいくことになるのは、黄泉路たちの与り知らぬ話であった。
黄泉路がまさに船上から陸地へと戻ろうとしていた頃、上海に残った彩華や子軒たちは新たな渦中にあった。
散発的に響く銃声はまだ遠いものの、混沌とした熱狂にも近い暴動の喧騒とは違う、規律だった軍靴のような音の波が徐々に近づきつつある中、子軒たちは避難誘導のために上海中に散らばった崙幇の撤退作業を急がせていた。
『軍の投入が想定よりも早い……』
『こちらに刺客が送られてきたところを見るに、自国も被害者なのだとアピールしつつも国軍によって素早く対処したという実績が欲しいのでしょう』
口早に中華言語でやりとりする子軒と虚己のやりとりはわからぬも、近づいてくるものが味方でないことだけは確かなようだと、未だ意識を取り戻さない遙に代わり護衛を引き継いだ彩華は遠方へと警戒を向ける。
「(こんな状況でもなければ来なかったっていう前提を脇に置くなら、平和なときに観光に来たかったわね)」
与太話にも近い叶わぬ願いを白い息とともに吐きだし、ぞろぞろと路地の裏などから合流して町の外へと退いてゆく崙幇たちを見送る子軒へ、そろそろ自分たちも退くべきだと話に割り込もうかと彩華が思っていた時だった。
『あーちゃんー。今大丈夫?』
「!」
「――どうかしましたか?」
頭に響いた聞き知った声に彩華が一瞬ピクリと反応すれば、この状況で周囲への意識が過敏になっていたのだろう、虚己が何かあったのかと問う。
「いえ。何でもないわ。ただ、そろそろここからも引き上げた方が良さそうよ? 李さんが支柱なのだから、張さんからも言ってあげてください」
「ええ、わかりました」
それを何でもないと誤魔化した彩華の態度は警戒しつつも適度に気を抜いているように見え、虚己はそれもそうだと盟主なのだからと部下の撤退に責任を持ちたい気持ちでこの場に留まろうとする子軒の説得にかかる。
ふたりが再び話し込んだのを視界の端に捉えつつ、彩華は改めて口を結んで警戒に当たりつつ念話へと応答する。
「(ええ。問題ないわ。何かあったの?)」
『よみちんが陽動に引っかかったらしくて、今東都が大変なことになってるんですよぅ!』
「(ちょ、情報が多いわよ。まって、まずそっちは大丈夫なの?)」
『あはは、それよみちんにも言われました。こうして話してる以上大丈夫だって思ってくれていいですよー。で、ですねー。よみちんがこれからそっちに合流するらしいんで、そっちに姫ちゃんを向かわせますんで、揃い次第こっちに戻ってきて貰えると嬉しいです』
「(……とにかく、すぐにそっちに戻ればいいのね?)」
『ですです。もういろいろめちゃくちゃなんで、とにかくすぐに戦える準備だけしてこっちにきてくださいね!』
それだけ頭に響かせ、標との念話が途切れたのを感じた彩華は改めて子軒たちへと歩み寄る。
「話し中悪いのだけれど、こちらも少し事情が変わって迎えが来たらすぐに発たないといけなくなったわ」
「! それは、どういうことでしょう?」
「どうも、迎坂君が追っていったのは陽動だったらしくてね。今さっき連絡が入って、東都の方が大変らしいのよ」
「!?」
いきなりの話題に目を白黒させる子軒と、冷静にこの場から護衛が消えるリスクを鑑みて渋い顔をする虚己に対し、彩華は急かせるようにはっきりと断言する。
「申し訳ないけれど、崙幇の撤退を急がせてほしいの。貴方達もね」
「……わかりました。盟主、よろしいですね?」
決して折れないだろうというのは彩華の語調からもすぐに理解できた虚己は、これを機に子軒を退かせようとすぐに思考を切り替えて子軒へと向き直る。
ふたりの視線を受け、子軒は小さく頷く。
「わかっタ」
子軒とて、頭ではこの場に居ても旗頭以外の役には立てないことは承知の上であった。
だが、旗頭であるが故に、自分の指示によってこの死地へと立つことになった部下たちを最後まで責任をもって逃がさねばならないという使命感に虚己の説得をなあなあに流していたが、護衛として信頼している同盟者に火急の優先事項ができてしまったというのならば、意地を張る理由としては悪くないもので、短く答えた子軒は周囲に対して撤退を指示しはじめる。
その背中が思っていたよりもしっかりしていると感じた虚己は弟同然に思っていた子軒が立派に成長していることに感慨深さを感じてしまう。
そうこうしているうちに遠く響いていた銃声の距離が近づいているのを聞き留めた彩華は、通りにこちらへと向かってくる人がいないことを確認したうえで一歩前へ出ると、片足を軽く上げ、割れたコンクリートを踏み鳴らす。
――瞬間、彩華の足元から鈍色の、成人男性の腕ほどもある巨大な茨が姿を現し、瞬く間に通りを封鎖するように周囲のビルを巻き込んで急成長してゆく。
撤退を始めたすぐ後方で起きた変事に一瞬ギョッとした崙幇の面々、しかし、その根元に立っているのが味方の少女であるとわかるとすぐに安堵したようにほっと息を吐いてそそくさと小走りにこの場を離れてゆく。
「目立つ代わりに、少しは時間が稼げるでしょう」
「これなら銃の射線を気にせずに済みます」
「さぁ、私たちも――」
彩華が子軒たちの元へと歩み寄り、この場から離れようとしていると、彩華が張り巡らせた茨の方で不自然な光が瞬く。
咄嗟に振り返った彩華が警戒を強める中、どこかからあふれ出した蒼く明滅する塵の様なナニカは彩華の前で人型を形作り、光がやがて彩華たちのよく知るひとりの少年の姿へと差し変わる。
「……っと、まだ姫ちゃんは来てない感じ?」
「その前に言うことがあるんじゃないかしら」
警戒を解くとともに呆れたような声音で声をかけた彩華に、黄泉路は一瞬きょとんとした後、
「ごめんね。今戻ったよ。そっちは大丈夫だった?」
「……まぁ、及第点かしら。私も李さんたちも無事よ。ただ、真居也君が……」
「っ!? 遙君がどうしたの!?」
言葉を濁す彩華に、黄泉路は最悪を想像して声を周囲を見回す。
その視線がすぐに子軒たちのそばに控えた崙幇の男性に背負われて意識を失っている遙を認め、その服が血に染まっていることで再び仮面の奥で目を白黒させる。
「無事、とは言えない。けれド、命はある。保証すル」
「それは……」
「盟主が彼から覚醒器をお借りして使用者になって治療しました。傷が塞がっているのは私も確認済みです」
子軒と虚己の説明によって、一応の危機は脱したのだと理解した黄泉路は安堵に弛緩する。
同時に、遙から感じていた魂が平時と変わらぬ健全なものであることも見て取れた黄泉路は気を取り直して先ほど標から伝えられた情報を共有する。
詳細こそ聞かされていなかった彩華は東都で起きていた同規模のテロに驚いたように仮面越しに口元に手をやり、子軒と虚己もまさかそのレベルの大惨事だとは思ってもみなかった様子で絶句してしまう。
そこへ、黄泉路の真横にふっと、少女が突然降って湧いたように姿を現した。
「黄泉にい。迎えに来た」
「ありがとう。李さん、張さん、迎えが来たので僕らは行きます」
突然現れた少女に崙幇の面々が驚く間にも、黄泉路と彩華はすぐにでも飛べるように姫更のそばへと歩み寄る。
「ハルカ、連れていく、難しイだろう。我ら、戻ってくるまで、豊崙でハルカ、預かるすル、出来る」
「――いいんですか?」
黄泉路としても、遙をどこに匿っておくかは難しい問題であったため、一旦姫更に拠点に飛んでもらって遙を安置してから向かおうかと考えていた。
すでにだいぶ出遅れている上に、短時間とはいえ寄り道をする時間も惜しんでいたところでの提案に黄泉路が思わず問い返すと、子軒は力強く頷き、任せろと言う様にはっきりと言葉を紡ぐ。
「恩人、大切にする、崙幇約束破らなイ」
「……ありがとうございます。事態の収束次第迎えに来ます」
後顧の憂いが晴れた黄泉路が頭を下げれば、子軒は問題ないと手を振って応える。
「じゃあ、姫ちゃん。そろそろ――」
「おい」
「え?」
時間も惜しいため、転移を頼もうとした黄泉路の声を遮る様に、掠れた声が耳に届く。
見れば、彩華もびっくりしたように仮面越しでもわかる様に視線を一か所へ向けていて、子軒や虚己すらもそちらへと視線を向けていた。
黄泉路たちの視線が集まった崙幇の男はびっくりしたように目を白黒させていたが、その背後で肩を軽く叩かれる感触にハッと我に返り、背に乗せていた人物を緩やかに下ろす。
立ち上がった青年は一瞬よろりと足をもたつかせたものの、崙幇の男の肩に手を置きながらも最終的にはしっかりと自分の足で立ち上がり、黄泉路たちをにらみつけるように目を細めて口を開いた。
「何、オレを置いてく算段立ててんだよ」
「遙君、起きたの!?」
「いいから。東都、やべーんだろ。オレも連れてけ」
どのあたりから意識があったのか、どうやら本人も朧気に聞こえていた程度であったらしいものの、ことの重大さは理解していると強いまなざしを向ける遙に、黄泉路は困ったように口ごもる。
「え、いや、だってその身体じゃ」
「うるせぇよ。オレの地元だぞ。ここで寝てたら一生後悔するってわかるんだよ。だから連れてけ」
これまでの遙とは少し違う、どうやら命がけの戦闘で思うところがあったらしい遙の様子に何も言えなくなる黄泉路に代わり、彩華が口を挟むように問う。
「自分の体調を考えなさい。足手まといになるのはわかるでしょう?」
「……」
だが、それでもその目が諦めていないとわかるほどにまっすぐで、彩華の脳裏にいっそもう一度気絶させた方が速いのではなどという物騒な発想が過る。
そんな沈黙を裂いたのは、意外なことにこの場にはただの運搬役として顔を出しただけの姫更であった。
「良いんじゃない?」
「え、本気?」
「姫ちゃん、どういうこと?」
黄泉路と彩華が困惑して問いかければ、間に挟まれた姫更はすっと遙の方へと近づき、手を差し出す。
「はじめまして。廻が知ってる知らない人」
「え? 廻って誰だ?」
思わず、差し出された手を握り返した遙も困惑したように、どこか助け船を求めるように黄泉路と彩華へと視線を投げかけるも、
「これからよろしくね」
「おい、ちょ――」
握手という接触点を軸に、姫更の能力によって一瞬でその姿が掻き消えてしまえば、その問いに返す先も、そもそもの姫更への疑問も、すべてが一瞬で飛んで行ってしまった。
「え、えぇ……? 姫ちゃん、今の何……?」
「ひみつ。じゃあ、行こ」
「姫ちゃん!?」
「はぁ……ごめんなさいね、慌ただしくて。それではまた、落ち着いた頃にでも」
何食わぬ顔で戻ってきた姫更に対して戸惑う黄泉路もぽんとタッチされた拍子に飛ばされてしまえば、後に残った彩華が別れの挨拶くらいはしていかねば形にならぬだろうと肩を竦めた。
姫更が動き出してからほんの数十秒もたっていないというのに、目の前で起きた流れるような珍事にフリーズしていた崙幇の面々が彩華の言葉にハッとなって再起動する。
「我らこソ、世話になっタ。【不朽】たちの来訪、待ってる」
「はい。皆様には多大なご支援を頂きました。もし何か協力できることがありましたら、今後とも良き関係を続けていきたいところです」
「ええ。夜鷹を代表して、私たちも貴方達に感謝を。それではまた」
「はい。ご武運を」
「またナ」
慌ただしくも礼儀正しく立ち去ってゆく彩華と姫更を見送った崙幇の面々は、彩華が残してくれた防壁に隠れるように都から撤退するのであった。