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11-29 “狐憑きのモノ騙り(フォックステイル)”2

 呟かれただけのミンソクの声が嫌に大きく響いたような気がした。

 体感時間が引き伸ばされる初めての感覚の中、遙は踏み込んだ慣性のままに緩やかに近づきつつあるミンソクの顔が捕捉するように自身の方へと向けられ、飛び込むまでの数歩、その最中にも、ミンソクの不意を突けるはずだった姿勢が整えられて行くのをスローモーションで認識していた。


「なっ」


 思わず溢した声。本来であれば、絶対に出してはいけないはずの音にすら気を配る余裕すらない遙は目を見開く。

 先ほどまでのミンソクの正面――横合いから迫る幻影などには目もくれず、現実の光景に何もない風景という幻影を被せる事で疑似的な光学迷彩を纏っているはずの遙を真正面に捉えたミンソクの短剣が構えられる。

 だが、いくら認識の中では状況に比して緩やかに感じる時間も、忍び足とはいえ駆けだしてしまっていた歩幅だけはどうしようもなく、


「――らあああぁあぁあッ!」

「ふっ!」


 突き出された遙の手に握られていたナイフがミンソクの振り抜いた短剣に弾かれて宙を舞う。


「ッ」


 手の中で柄ごと暴れるように吹き飛んだナイフの衝撃に遙が思わず顔を顰め、その拍子にミンソクの目の前の空間が揺らぐ。

 虚空に向けて振り抜いた短剣が金属とぶつかる質感と音、そして、突如現れたナイフが宙を舞って明後日の方向へと飛んで行くのを知覚すると同時に短剣を振った腕を最速で引き戻したミンソクは景色のブレ(・・)へと踏み込み、


「ガッ、ア……ッ!!」


 景色のブレ――その一歩奥の、何もないはずの空間へと短剣を突き出したミンソクは、風景に呑まれるように不自然に半ばから刀身が掻き消えた自身の短剣を引き抜くと、口の端を吊り上げた。


「やはりな」

「あ、ぐぅ……」


 眼前の景色のブレが消え、虚空から短剣を引き抜いたと同時に赤い粘液がどぽりとコンクリートにまき散らされた空間から狐面を付けた少年が呻きながら現れる。

 右肩から下が赤黒く染まり、傷口を押さえるようにしながら膝をついた遙は仮面越しでもわかる粗い息を溢すのみで、返事すらまともに出来ないだろう事は容易に見て取れた。


「お前の幻、実に高性能だったが、質量は再現できず、その場に実在するモノを存在しないようには扱えない」

「はぁ……はぁ……」

「素人の使用者にしては上等だ。誉め言葉として受け取って死ね」


 確かな手ごたえを感じた短剣に今度こそべっとりと付いた血液を払い、一歩、また一歩と緩やかに、だが、慢心からではなく、最後の悪あがきに対する警戒としての慎重さでもって歩み寄るミンソクに確かな死の実感を直視した遙はそれでも、未だ止まることなく服の吸収許容量を超えてコンクリートの割れ目にしみ込む様に滴る血液の上に立つように身を起こす。


「足掻くな。その分苦しみが増すぞ」

「……ハッ。冗、談。死んで、たまるか」


 足の震え、痛みに発声も覚束無い姿は戦士のそれではない。だが、それでも遙が立ち上がった事には一定の評価を下したミンソクはこれ以上時間を取られるわけにはいかないと短剣を構える。


「(どんな幻影を出そうがこの位置ならば踏み込んで首を刈る方が早い。素人にしてはよくやった。裏方に回るならば確かに使い出はあっただろうが)」


 能力戦のプロであるミンソクをも一時騙し切った幻影の精度に、あわよくばという欲が脳裏をかすめるミンソクだが、しかし、現状の――偽りとはいえ味方であった四異仙会の一角によって齎された大規模テロは看過しようがなく、素早く本来の仕事をこなした後に処理に向かわねばならないと内心で順序を立て、呼吸と呼吸の間の一拍に踏み込みを滑り込ませる。


「――《木葉隠(ハガクレ)》!」


 短剣の刃が閃の残光を宙に描いて遙の首を断つ直前、何処からともなくゆらりと沸き立った煙がミンソクと遙の間の僅かな距離を濁す。

 唯一質量を再現できない遙の幻影は光や煙と言った重量を伴わない――または極端に軽い――ものを現出させる事と特段相性がいい為、いわばこれは遙だけ遮光ゴーグルをつけた閃光弾に近い。

 だが、元より本体の遙が負傷していてすぐには遠くへ行けないと確信している状況での煙幕など、悪あがきに過ぎないとミンソクはあえて煙の中に飛び込む様にして刃を振り切る。


「むぅ……!」


 刃の先に掠るものでもあれば、長年の経験と勘が正当を教えてくれると確信しているミンソクをして、先程と違わぬ空を切る感覚を煙の先から感じ取れば、ミンソクは僅かに唸る様に舌を打って素早く足元へと目を向ける。

 少なくない出血量、痛みで集中に欠くだろう現在において、足元に飛び散るそれを丁寧に隠匿して逃げ回る事の無謀さに目を付けたミンソクは、すぐに煙の中に紛れかけた赤を見つけて駆ける。


「もう見失いはしない。貴様は野放しにするには厄介過ぎる」


 故にここで死ね、そう吼えながら、飛び散って間もない血液が残るコンクリートを踏みしめ、広く範囲を取れる横薙ぎに刃を奔らせる。


「く、ぁ!」


 まさか、ここまで早く対応すると思っていなかった遙すんでのところで転がって避けたものの、転がった衝撃で肩の痛みが増して思わず悲鳴を上げてしまう。

 ミンソクがその声を聞き逃す、などという希望的観測は既に見いだせていない遙は、痛みに目の端を涙で歪めながらも更に転がる事で追撃とばかりに踏みしめようとする足から逃れる。


「はぁ、はぁ……ぅ、ぐう……」

「時間稼ぎというわけか。よほど、不死者や刃華を信用しているらしいな」

「……」


 幻聴で他方から返事をするのも億劫で、ゆったりと態勢を整えるミンソクから少しでも距離を取ろうと遙は這うように立ち上がる。


「救援はない。命掛けても稼げて数分、それが現実だ。お前がどう動いたところで結果は誤差でしかない」


 その背後から、動揺を誘うように掛けられるミンソクの声が遙の耳を打った。


「……るせぇよ」


 本来、言葉を返す必要もない。その現実は、遙自身が誰よりも理解して、身に染みている。

 言い返す言葉がないくらいに真っ当で、目の前に誤魔化し切れない程に明確に横たわる現実(・・)だった。

 だが、だからこそ。遙はそれに対して、虚勢でも何でも声を挙げなければならなかった。


「痛ェし、怖いし、意味ねェし、んなこと、オレが一番分かってンだよ」

「ならば今すぐ幻影を解け。幸い、今はお前よりも優先すべきことがあるからな。解くならこの場でトドメを刺す事だけは――」

「ごちゃごちゃ、うるせぇ。オレが、まだ、喋ってんだろうが……!」

「ッ」


 慈悲とも取れる言葉をあえて遮った遙が、煙の奥に滲んだ狐面のシルエットとしてミンソクの方を向く。

 幻影を纏う余裕もないのか。それとも、これもまたある種の悪あがきなのか。経験に裏付けされた勘は遙のシルエットがそのまま本体だと告げている中、もはや会話の必要もないと再び滑る様に踏み込んだミンソクに、遙はすっと重心を倒して脱力のままに後方へステップを踏んで距離を取りながら、痛みを吐き出すような声で吼える。


「現、実が、どーとか、んなこと、テメェに言われなくても、わかってんだよ……!!」


 ゆらり、ゆらりと、枝垂れ柳の枝のように頼りない、風に吹かれても倒れてしまいそうな足取りの遙の腕を、肩を、脇を、ミンソクの刃が通り抜けては浅く赤色を滲ませて、一番大きな傷であろう右肩の出血と相まって全身が血まみれになって行く遙はそれでも、決定的な致命傷を避けるようにミンソクから距離を取り続けて叫ぶ。


「だからって、なんか都合よく言い訳して、引っ込んで、逃げ回って、それじゃ今までと変わんねー、意味がねーんだよ!!!」


 遙の心からの叫びが路上に淡く反響し、冷たい空気に乗ってミンソクに届く。

 能力を持って生まれたからには相応の役割があるのだと己を固めて生きてきたミンソクからすれば、現実など足場や状況に過ぎず、それらは下積みによってのみ形成される厳然たるものでしかない。それを変えようと土壇場で足掻いている様にしかみえない遙とは分かり合えるわけもないし、そも、ミンソクは敵に心を傾ける様な事のないプロ(・・)、会話とて、遙にこれ以上逃げ回られても面倒だというだけの理由しかない。

 そんなミンソクの打算でしかない言葉にすら、遙は否定を突きつけずにはいられない。


「オレは、オレが出来る全力を、やってみて、納得しなきゃ、前に進めねぇんだ!」

「青い。そして無意味だ」


 こうなってしまえばもはや言葉に価値はないと、はき捨てるように言葉を投げ出したミンソクの刃が躍る。

 咄嗟に幻の炎で視界を遮った遙が僅かながらに距離を取るも、すぐに幻を強引に突き破ってきたミンソクに追い回されて地を転げる。

 かつてない痛みと死への恐怖によって生み出された脳内麻薬によって辛うじて動けているといった具合だが、とうに限界を超えているだろうことは想像に難くない。


「(もってあと10手以内……9、8)」

「く、は、ッ!!」


 先の幻影による錯覚でうまく動かない箇所を意識しながら、その誤差を正すようにことさら丁寧に詰めて行くミンソクの短剣が再び突きの形を取って迫り、遙が横へと重心を傾けたタイミングで突き出した腕を寝かせて刃を水平に、そのまま横に逃れた遙を追う様に宙を滑る刃が遙の脇を浅く裂く。


「(7――)」


 新しい痛みに僅かに硬直する遙へ、振り抜いた姿勢から低く片足を軸に円を描くように身を翻して蹴りを突き出したミンソクの足が避け損ねた腕を直撃して遙が大きく体勢を崩す。

 受け身も取れずもんどりうって転がった遙へと、着地した足で踏み込んだミンソクが追い付き、横たわった遙の腹につま先が迫ると、遙は咄嗟に腕で胴を庇って蹴りを受け、蹴られた勢いで数回転しながら後方へと転がった。


「げほっ、がはっ……ぁ、ぐぅ……」

「5手残ったな」


 もはや立ち上がる事も出来ない遙へと、足並みをそろえたミンソクが静かに告げて歩み寄る。

 幻も何もない、がらんとした広い路上にふたり取り残され、視界の端で炎上した車が上げた黒煙が地表に薄らと影を齎す光景に、ミンソクは全ての幻影が消え去ったことを確信し、遙を蹴って仰向けにした上に片膝で乗り上げて短剣を向ける。


「はひゅー……は、くっ……」


 仮面の奥から聞こえる苦し気な呼吸音を無視し、ミンソクは剣先を遙の喉へと合わせ、


「――さい、ごに」

「……」

「言、って……い、いか?」


 遙の擦れた声に合わせて喉が動き、剣先が食い込んでぷつりと赤い点を滲ませる。

 これから死ぬ人間の言葉など聞く必要もないと、そのまま短剣を押し込んだ。



 ――ぞぷり。



 肉に刃が食い込み、血が勢いよく溢れ出す。びくりと大きく痙攣した足元の身体が藻掻くように僅かに暴れ、やがて力が抜けて弱く痙攣して動かなくなるのを見届けるより早く、ミンソクは刃を引き抜いて死体から足を退けた。

 改めて眼下に倒れた子供を見やり、その傷が間違いなく致命傷で、本当の死体である事を確認して、ふと、最初の死の偽装を思い出す。


「(まさか、この状況で幻術を使えるとも思えないが。念には念を入れる必要があるか。どこまでも厄介だな)」


 ここにきて打ち損じ、後々で躓く可能性は極力避けねばならないだろうと、ミンソクは遙の死体、その仮面へと手を触れ――


「……は?」


 仮面の下から現れたソレに、ミンソクは常ならぬ呆けた声を漏らしてしまった。


「(な、なん……なんだ、コレ(・・)は!?)」


 自身の口からそんな声が零れてしまっていたことにすら気づかないほど動揺したミンソクの目は、仮面の奥の顔にくぎ付けになってしまっていた。

 狐を模した鈍色の仮面の下。本来であれば、一度見た事のある日本人の少年の顔があるはずのそれは、まるで元々顔など存在しなかったかのようにつるりとした凹凸の無い肌色があるのみで、伝え聞く日本の古典にあったのっぺらぼうという怪異そのもの。


「(殺し損ねた!? どこで、どのタイミングで!?)」


 怪異を疑う、よりも先に、現実的な思考から仕損じを確信したミンソクが焦燥から急ぎ立ち上がった刹那、


「――お憑かれさま(・・・・・・)


 ミンソクの耳に、明朗な声が響く。

 その声は背後、すぐ耳元で息と共に掛けられたような生々しさがあり、吐息に交じる湿気の確かな質感に咄嗟に振り返ったミンソクは短剣を振う。



 ――ブシュウッ。



 宙を薙いだはずの短剣が血を滴らせて虚空から鮮血を引きずり出す、だが、その量は明らかに尋常なものではない。

 成人一人分と考えてもなお多い濁流の様な赤がミンソクを正面から濡らし、つい先ほどまで生きていたのだと言わんばかりの不快な生暖かさと生臭さがミンソクの鼻を刺して不快感を煽る。

 先ほどまでの幻とは違うと、咄嗟に判断したミンソクがその場から飛び下がろうと足に力を籠め、


「もう遅い」

「ガァッ!?」


 またもや背後の耳元で囁かれた遙の声と同時に、足元から何かに引き摺られるようにして引き留められたことで姿勢を崩してしまう。

 受け身を取るほどでもない、尻から地面にこけただけという状況。戦場で致命的なそれも、明らかな異常に包まれた現在となっては誤差でしかないと告げる様に、次なる異常は既にミンソクを捉えていた。


「な、いつの、間に――」


 そこにあったのは先ほど仕留めそこなった事を確信した無貌の骸。

 全身の傷をそのままに、ずるずると這いずってミンソクの足を掴み、引き摺り倒してのしかからんと迫るそれに、ミンソクは生理的な嫌悪を覚えて短剣を額であろう箇所へと叩きつける。


「ぐ、なんだ、何故だ、何故質量が!!」


 先程の転倒にしても、幻であればミンソクを拘束することなどできはしないはずであった。

 幻術使いとしての遙の制約を正確に見切ったと自認していたミンソクであるが故に、今の状態がとてつもなく異常な事態であると、想定の埒外に飛び出した窮地であると確信してしまう。

 叩きつけたはずの短剣が突き刺さった無貌がミンソクを異常な力でねじ伏せる。

 幻にこんな力を出せるはずがない、誤認によるものであれば意識で幻と説き伏せる事で解放されるはず、そう何度も念仏の様に思考を回すミンソクは、割れたコンクリートの感触を感じるはずの後頭部にぬるりとした生暖かい感覚を感じてハッとする。


「――ッ!?」


 咄嗟に視線を傾けた地面が赤い。

 先ほど空間から溢れ出した鮮血が、ミンソクの身体の下まで到達して水溜まりを作っていた。

 生臭さをはらんだ赤黒い粘液は元々の地面の高さなど関係がないという様に、上に乗ったミンソクを鎮め始める。

 ここまでくると幻である事は疑いようがないが、しかし、なにをどうすればこのような幻覚が作り出せるのか。ミンソクにはまるで分らず、ただ理解できるのは、己が限りなく詰んでしまっているという事実だけであった。

 にも拘らずのしかかった無貌の骸を押しのけようと藻掻くミンソクだが、


「くそ、何が、何が起きて……!!」


 その声すら、背後の赤黒い粘液から沸き立った血塗れの手で塞がれてかき消される。


「んぐっ、もごっ、んんんっ!!!」


 口と鼻が赤黒い手に塞がれ、開いたままの口や鼻にどろりとした液体が逆流して酸素の吸入を奪われる。

 藻掻く仕草が拘束を逃れるものから窒息にあえぐものに変わるまでさしたる時間もかからず、やがてミンソクの意識はどろりと溶け落ちる様に、塞がれてゆく視界――赤黒い水溜まりに落ちて行く身体と共に闇に沈んで途絶えた。






 そうして全く反応がなくなったミンソクが立ち尽くす(・・・・・)傍ら。


「はー……はー……クッソ、痛ェ、けど」


 仮面がずれ、痛みに涙をボロボロとこぼしながら肩口を押さえる遙が、しまらないくしゃくしゃの笑みを浮かべて座り込んでいた。


「勝った。ぞ」


 右腕で縋る様に触れていた手を離すと、力なく崩れ落ちたミンソクを見やり、遙もまた、朦朧とする意識に従う様に身体が重力に従って傾いでゆく。

 意識が途絶える間際、遠くから複数の足音が聞こえてくるのをぼんやりと聞きながら、遙は意識を手放すのだった。

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