11-24 動乱の兆し
遙を鍛えるという名目で始まった新しいルーティーンも、1日、また1日と経つにつれて若さ故の適応力を見せた遙の頑張りによって多少の余裕が生まれつつあったある日。
遙の身体が黄泉路の腕一本でぐるりと宙を舞い、一応の加減はされているものの、見事に音を立ててコンクリートの床へと落とされた遙が短い悲鳴を上げるいつもの光景がひと段落付いたのを見計らい、ふたりが鍛錬に使用しているビルの入り口に人影が差す。
「お二人とも、ただいまお時間はよろしいでしょうか」
「虚己さん。どうかしましたか?」
足元で呻く遙には目もくれず、声を掛けて来た男性――張虚己へと向き直った黄泉路が軽く会釈して迎えれば、虚己は事情は知っているらしいものの、実際に遙が転がされている様を見て僅かに視線を遙へと投げかけた後、黄泉路の下へと歩み寄る。
「はい、実は少々お耳に入れたい事が」
虚己の態度から重要度を認識した黄泉路は改めて問題ないと頷き、呻いていた遙ものそりと上半身を起こして床に座り込む。
ふたりの聞く姿勢が整うのを待って、虚己はこの場にやって来た理由を口にする。
「実は先ほど私の部下が迎坂様への言伝を得まして……」
「――彼女からですか」
「はい」
ここに聞き耳を立てている者はいない、それだけ開けている場所であるという事もあり、普通の声量でかわす短いやり取り。
だが、前提として情報が共有されていない遙だけは目を見開き、
「カノジョォ!?」
「うわ。びっくりした。どうしたのいきなり」
「いや、おま、お前! リコリスが居んのにまだ別の女を――!」
「そういうんじゃないってば」
一気に空気が弛緩した――というより、もはやだらしない――ものになってしまったことに、虚己は思わず目を瞬かせた後に小さくかみ殺すような笑いを溢す。
「ふ、く……っ」
「あー……もう。とにかく、彼女はなんと?」
「ふふ、はい、今夜の20時に、西部最下層の龍抱亭にて待つ、と」
「内容は伝えられない程……ということですか。ともあれ、了解しました。態々伝えてくださって助かりました」
「いえいえ。私としても直接お礼をと思ってのついでですから」
虚己は改めて、未だ黄泉路に対する勘違いにぶつぶつと妬まし気な視線を向けながら文句を言っていた遙へと身体を向ける。
意識が自身の方へ向いたことで遙は一瞬硬直し、文句が止まる。虚己はびっくりしたように見上げてくるまだまだ大人とは言い難い目の前の少年へ、膝を折って目線を合わせて口を開いた。
「先日は、我が主をお救い頂き誠にありがとうございました」
その言葉が意味する事はすぐ理解できたが、しかし、真剣な眼差しと真っ直ぐな感謝を向けられ慣れていないが故に遙は動揺して視線を彷徨わせ、やがて観念したように自身に向いた視線と向き合うように顔を正面へと戻す。
「――そんなこと、気にしなくて良いっすよ。結局助けてくれたのはリコリスなわけだし」
「いいえ、確かに後程駆け付けた【鉄華】の働きも報告を受けておりますが、それでも、最初に最も近い場所から主を助けて下さったのは貴方なのです」
遙は、虚己の真摯な眼差しと言葉に返答を失って黙り込む。
たまたまだ。そんなつもりはなかった。先に守られたのはオレの方だ。
いくつも浮かんでは音になることなく消えて行く誰に対してのものかもわからない弁明が思考の中で上滑りしていく。
なにより、と。虚己が改めて口にした言葉に、遙はハッと我に返る。
「崙幇の盟主となった子軒は、かつてのただの子供だった時の様な振る舞いを自重する様になっていました。それが貴方の前では年相応の顔をするようになった。私はそれが嬉しいのです。ですから、貴方には感謝を」
「……お、おう。恐縮です?」
「あはは。感謝は素直に受け取っておくといいと思うよ」
「っ! るせェな! 照れんだろフツー!!」
遙の反応がおかしく、空気を和ませる様に茶々を入れた黄泉路に、幸いと乗っかって黄泉路に掴みかかろうと立ち上がり、そのまま足を引っかけられて転ばされる遙のじゃれ合いが始まれば、僅かに固まっていた虚己は気の抜けるやりとりにどこか懐かしさを見出しながら立ち上がると、黄泉路の意識が自身にも向いている事を理解した上で小さく頭を下げて立ち去って行く。
虚己の足音が微かな残響を残して消え、それすらも消えた静寂に残された廃ビルのエントランスの硬い床を遙の靴裏が蹴る音が上書きする。
「ちっ!」
「まだまだ、“攻撃するぞ”っていう意識が目立ち過ぎるよ」
「んなのどうやって抑えんだ、よッ!!!」
「んー。その辺は感覚だからなぁ……例えばだけど、呼吸を少し、意識的にずらす、とかかな」
「おわぁ!?」
完全に不意を突いたと思っていたのも束の間、遙の拳は空を切り、すり抜けるように懐に入った黄泉路が講義と共に遙の腿を持ち上げてひっくり返せば、再び遙の身体が宙を舞う。
器用に頭を打たないように転がした黄泉路が遙の立ち上がりを待ち、よろよろと立ち上がった遙が能力を織り交ぜながら襲い掛かってはいなされる訓練と呼ぶべきか可愛がりと呼ぶべきか判断に困る光景は、その数十分後にスタミナ切れを起こした遙のダウンによって終わりを迎えるまで続くのであった。
「――で、本当についてくるんだ?」
「おうよ。お前ひとり女となんて許さねぇ」
「だから誤解だって言ってるじゃない……」
そうして迎えた夕刻。既に陽は落ち切って、冷たいビル風が複雑に吹き荒れる枯崙の街並みをふたりの少年が歩いていた。
セットもむなしく風にあおられる金の髪を時折鬱陶しそうに手で押さえる少年が噛みつくように隣を歩く黒髪の少年へと話しかけるも、呆れた様な声音でさらりと流されるというやりとりは、既に歩き出して十数分と経った今となってはもはや互いの少年にとって延々と繰り返されたそれであった。
遙の訓練も終わり、一旦拠点へと戻った黄泉路が待ち合わせに出向く仕草を見せた際、遙がどうしてもと言い募って無理矢理ついて来た形である。
黄泉路としても、前回の初対面での交渉とは違い、遙が付いてくることをことさら拒絶する理由も無かった事から許した同行であるが、それはそれとしてこの軽いやり取りはやはり失敗だったかなと若干の後悔を抱えながらも冬の街並みを歩いていた。
やがて、遙は寒さから、黄泉路は敵地に踏み入った警戒から言葉数が少なくなってきた頃。
目的地へと到着すると、手指がすっかり冷え切ってしまい、ポケットに深々と突っ込んだままの遙が無言で店の前できょろきょろと視線を巡らせ、黄泉路に早く入らないのかと目で催促する。
黄泉路は静かに意識を尖らせ、店の中に覚えのある気配がある事を確認して扉を押し開く。
途端に、扉によって閉じ込められていた人工の暖かさがふわりと溢れ、遙は待ちきれないという風に屋内へと足を踏み入れ――
ガチャリ。
「ヒッ!?」
扉の脇から現れた腕が握る銃口が側頭部に宛がわれ、遙はびくりと硬直した。
そんな様子を、後から踏み込んだ黄泉路が呆れ混じりに首を振って眺め、
『僕の連れです。銃を下げて。出ないと“また”倒すことになる』
決して流暢とは言い難いが、本場の人間にも通じるだけの英語で語り掛けた黄泉路に対し、拳銃を握った腕は降参という風に上へと掲げられる。
そうして物陰から現れた英国人の男が黄泉路の言葉に対して僅かに顔を顰める。
『勘弁してくれ。前回は腕試しだっただろう。二度とアンタの前に立つのはゴメンなんだ』
『僕も、敵対するつもりはないよ』
当たり前のように受け答えする黄泉路の姿に、どうやら危機は脱したらしいと理解した遙が盛大に溜息を吐く中、黄泉路は遙に歩み寄ると珍しく眉を寄せて僅かに身長の勝る遙を見上げて苦言を呈する。
「いくら能力的に不意打ちに強いとは言っても、ここまで無警戒で突っ込むのは感心しないよ」
「う、ぐ……悪かったよ」
「何事も初手は警戒から。基本だからちゃんと覚えてね」
「……わかった」
黄泉路に説教されるというシチュエーションそのものは、未だにどことなく拒否感のある遙であるが、それでも言われている内容が正論であることくらいは理解できる。
つい先ほどもあわやという状況であったことも手伝い、殊の外素直にうなずいた遙の様子に納得した黄泉路は改めて英国人の男へと顔を向け、案内する様に声を掛ける。
『彼女は奥だよね?』
『ああ。既にお待ちだ。ついてきてくれ』
先導として歩き出した男の後について歩き出す黄泉路にわずかに遅れて続く遙が並ぶと、遙はこそっと黄泉路にだけ聞こえるような声量で声を掛ける。
「お前、英語喋れるのか」
「昔必要があって、少しだけ覚えたんだよ」
誇るほどのことでもない、ただ淡々と事実を答えるといった風の黄泉路に、遙はやはりどこか格好いいなという感情と、スカした野郎だという反感がせめぎ合うのを感じつつも、自分が明らかに劣っているという現実に軽く打ちのめされてしまう。
自分から問いかけて傷ついてと器用なことをしていた遙だが、先導する男の案内が終わって通された部屋に入った途端、それらの情緒はすっぽりとどこかへ飛んで行ってしまった。
「ようこそ。Mr.迎坂。そしてそちらは――?」
「ああ。どうぞ気にせず。僕の連れとだけ思っていただければ」
「そう……」
黄泉路の待ち合わせの相手――ケイシー・ヘップワースの、モデル顔負けの美貌とプロポーションを存分に活かした色気のある深い紅色のドレス姿に、遙は一瞬で目を奪われた。
本来、黄泉路に万が一通ればラッキー程度の気持ちで纏った色香。しかし、当の黄泉路は何のリアクションもないまま対面の席へと座る中、同行した少年のぎくしゃくとした態度にケイシーはくすりと悪戯っぽく微笑んで見せる。
「ッ」
「ふふ。可愛らしい坊やですわね。(Mr.迎坂が同行を許すという事は、彼はそれなりに重要な地位にあるのかしら?)」
「彼はそういう所が強みでもありますからね。ともあれ、今回はそれなりに重要な話だと予想しているのですが、時間に余裕は?」
ケイシーの意識が僅かな稚気と下心を持って遙へと向いたのを察した黄泉路が本題を切り出すことによって再び意識を自身へ向けさせる。
その間に遙はそそくさと黄泉路の隣へと座ると、見計らった様に給仕が現れて紅茶を3人分テーブルへと置いて退出してゆく。
急な追加だというのにそつなく用意する手腕はさすがと言ったところ、と。黄泉路が密かに感心しつつ先んじてカップに口を付ける中、ケイシーは静かに観察するような視線を両者に向けつつカップを手にすると、湯気に含まれた香りを楽しむ様に目を細めながらカップに隠すようにしながら口を開いた。
「本日お呼び立てしたのはつい先ほど入って来た情報を共有する為ですわ」
「……」
入って来たばかりの情報、ということは精査もそこそこに、何よりも速度を優先して共有すべきと判断したということだ。
諜報に関してはプロ中のプロがそう判断した情報に身構えるように表情を引き締める黄泉路に、遅れて紅茶に手を伸ばす遙は口を付けて良い物かと迷うようにカップを手にしたまま固まってしまう。
ひとり蚊帳の外という場違い感をスルーしたケイシーは改めて、伝えるべき情報を音に乗せる。
「Mr.マーキスに動きがありましたわ」
「ッ」
「上海に武器と手勢の流れが集まりつつあります。近いうちに動くでしょう」
「目的は……」
「そこまでは。ただ、近々大型の偽装船が入港する周期が重なる日があります。恐らくそれを絡めた計画だとは思いますが」
詳しい事は分からないというケイシーに落胆はない。黄泉路としては分かれば御の字といった具合の期待度であったし、それはケイシーも理解しているが故に、別途、恐らくは間違いないだろう決行日に関する情報を乗せる事で動機や目的についての話題を打ち切っていた。
「元々の本業だけあって、日本に流している麻薬や武器の売買の大半はMr.マーキスが主導しておりましたから、港についても一番幅を利かせていますし、決行日前の阻止は難しいでしょうね」
「そうですね。この動きは中華当局は?」
「恐らく掴んでいるでしょう。Mr.キムも今日は枯崙を離れておりますから、恐らくは飼い主への報告へ走った物と」
「……イグナートというロシア人はどうです?」
「恐らくは今回の一件、Mr.ガルマショフも一枚噛んでいるものと」
「根拠は?」
「Mr.マーキスの大規模な動きは、本来ならもっと早期に私達の網にかかっていなければおかしい物。ですが実際に私達の耳に届いた今となっては軽々しい横やりでは落とし切れないほど膨れ上がっています。この裏にMr.ガルマショフとの結託があったものと思っておりますわ」
「……つまり、マーキスとイグナートは別々の目的かもしれないながら、互いの共通利益の為に手を組んでいる可能性が高い、と」
「ええ。あのふたりのことですから、土壇場で互いを切り離して利益を掠める機会を窺っているのでしょうけれど……」
優雅に紅茶を口に運ぶケイシーの所作は相変わらず様になっており、貴人や女優と言われれば信じてしまう程に優雅なもの。
しかし、つい先ほどやりとりした会話の中身に衝撃を受けていた遙はそれどころではなく、カップを手にしたまま机と手元で視線を行き来させるばかりであった。
程なくして、黄泉路が紅茶に口を付けて飲み下した後に口を開く。
「わかりました。ヘップワースさんの読んだ決行日を教えてください」
「どう動きますの?」
「決行日に仕掛けます。恐らく混乱は避けられませんが、崙幇と協議して抑えられる限りは抑えましょう。場合によっては僕も全力で臨みます」
「あら――」
黄泉路の言葉に宿る不穏な決意を前に、ケイシーは僅かに目を見開き、次いで、目の前の少年から感じた底知れない怖気にも似た悪寒を振り払うように努めて優雅に笑って見せる。
「それは、私も是非見物したい所ですが、恐らく見物料は高くつくのでしょうね」
「想像にお任せしますよ」
「あら怖い。でしたら私、そろそろこの国からお暇する準備をしなければなりませんわ。……船が寄港するのは週末、恐らく週明けの出航日が決行日だと推測しますわ」
「ありがとうございます。それではお気をつけて」
「ええ。貴方がたも」
黄泉路が席を立つ。それに合わせてケイシーが席を立てば、僅かに遅れて遙がカップをテーブルへと置いて立ち上がり、部屋の外へと向かう黄泉路の後をいそいそと追い掛けて行く。
部屋まで先導した男が道を譲る脇を通り、建物の外へと迷いなく歩く黄泉路の足は心なしか速足で、遙は声を掛けづらい気まずさを抱えたまま後をついて歩くが、建物を出て少ししたところで耐えきれなくなった様子で黄泉路へと声を掛ける。
「なぁ」
「ん。なに?」
「さっきの話だけどよ」
「うん」
「ヤバいんだよな……?」
「そうだね。たぶん、こっちに来て一番の大事になる」
「そっか」
とはいえ、先程の会話の半分ほどしか理解できていない遙が尋ねられることといえばこの程度。
黄泉路は淡々と答えるのみだが、遙にとっては不愉快ではなかった。
何となくその理由が分かっている遙は、黄泉路に問う。
「なぁ」
「なに?」
「オレに帰れって、言わねぇのかよ」
遙の口を突いて出たのは、遙の願望とは全く逆の言葉。
今更帰れと言われたら傷つくしイラっとする。しかし、それ以上に遙は自分の力が今この場に立つには不相応であるという事を嫌という程自覚していた。
それ故に、遙は黄泉路にこれを機に実家に帰れと言われれば、それでも仕方がないという気もしていた。
だが、黄泉路の短い回答は遙の想像していたものではなく、
「言わないよ」
「……何で」
「遙君が言ってほしくなさそうだから」
「――ッ!?」
図星だった。
思わず目を見開き、いつの間にそこまで観察されていたのかと、恥じらう気持ちと困惑する気持ち、それと僅かながらの暖かさが入り混じった表情で遙が黄泉路を見る。
そんな視線から、やや恥ずかしそうに逃げる様に前を向いたまま、黄泉路は薄く笑う。
「僕はどうも、他人が望む姿っていうのが染みついているみたいで」
「……?」
「結構さ、自分がやりたい事をちゃんと前に出せる遙君のこと、羨ましかったりするんだよね」
「っ!」
それも、最近覚えた感覚なんだけど。などと、淡く笑って見せる黄泉路の姿が、遙には意外に映っていた。
遙の見て来た――イメージしていた黄泉路とは、いつだって自信満々で、リコリスのような強い能力者を従えて、闇組織の幹部やボスとも対等に渡り合う、見た目とは似ても似つかない、自分とは住む世界の違う男だと思っていた。
しかし、今の黄泉路はまるで、遙の知る学友と同じような、些細な事にも真剣に悩む同年代の様な脆さが同居しているように見えて、遙は自然、口の端を吊り上げる。
「ハッ。人間、自分に正直に生きなきゃ損するって知ってんだよオレは!」
「あはは。自分に正直に、ね。でも、それで嫌われたらどうするの?」
「むしろ仮面被って取り繕って仲良しごっこするような奴、本当にテメェにとって必要な奴なのかって話だぜ」
「――。それは、どうなんだろう? 仲良くするには最低限の礼儀って必要だと思うし、それも仮面に入る?」
「ん、んー? どーだろ。いや、でも、そこはほら、社会人としてのジョーシキっていうか、そういうアレじゃねーの?」
「何それ。めっちゃ曖昧じゃん」
「うるせーよ。お前そんくらい空気で分かんだろ空気で」
「分からないなぁー。……でも、今のやりとりってお互いに正直に話してるって事で良いのかな?」
「ん? ああ。まぁな」
「そっか」
納得したように小さく頷いた黄泉路の表情は、道が暗い事もあって遙の側からは見る事が出来ない。
だが、その声音が普段よりも外見相応に柔らかかった事だけは、付き合いの短い遙でも辛うじて感じていた。
「……?」
「いや、何でもないよ。さ、早く戻って李さんと協議しなきゃ」
夜風はますます冷たく、ふたりの肌を刺す様に吹き抜けるが、他愛ない話をしながら歩く遙は少しだけ寒さを忘れていた。