11-23 男の意地
四異仙会の末端によって遙と子軒が2度目の襲撃を受けた翌日。
起き抜け、これからの行動をどうしようかという話し合いが彩華と黄泉路の間で行われ、彩華の姿が消えたのを見計らった様に姿を現した遙は黄泉路を真正面に見据えて口を開く。
「……オレに戦い方を教えてくれ!」
そう言って頭を下げる姿に、黄泉路は面食らった様に沈黙してしまい、頭を上げるタイミングを見失った遙の頭頂部のつむじを見つめること数秒。
再起動を果たした黄泉路が首を傾げた。
「どうして?」
確かに、ケイシーという内通者が出来たことで無暗に末端を叩いて回る必要がなくなり――むしろ、下手に暴れまわるとその分尻尾だけを切り捨てられて上への繋がりが見えづらくなるという懸念もあった――暫くは静観して準備に時間を充てようと彩華と話し合ったばかりであるため、遙を鍛えるとまではいかないまでも、最低限、いざという時に心構えが出来る程度の仕込みをする事は可能だろう。
だが、黄泉路と彩華の両名の目からみても、遙という少年は良くも悪くも一般人だ。
とてもではないが黄泉路達の立つ、人の生き死にが秒間で決まる様な世界に立つべき人種ではない。
そんな彼がどうして急に戦い方を学ぼうと思ったのか。問いかけると遙はようやく頭を上げ、
「何するにしても、強くなくちゃ意味がないって気づいたんだよ」
いつになく真剣な眼差しで自身を見つめる姿に、黄泉路は内心で感心する。
それだけ遙の態度は先日までとは違っており、護身術程度でも構えが出来るだけ何かの助けになる事もあるだろうと黄泉路は了承する事にしたのだ。
それから早数日。そろそろ日本に顔を出して置きたいと、アリバイ作りと休日を兼ねて日本へと戻った彩華について帰国する選択肢があったにもかかわらず、遙は枯崙の地で黄泉路に扱かれていた。
雑多な建物が立ち並ぶ枯崙の密集地形の中、比較的開けた場所に建つ大きなビルの1階。
元々はそれなりの規模の会社が土地ごと買い入れて建造したらしいそれも、今や窓ガラスは汚れて曇り、吹き抜けのエントランスホールには天窓から差し込む光の筋を強調する様に埃が薄らと舞う有様。
とはいえ、埃と汚れで足の踏み場もない、健常な人間でも踏み入れればマスク無しでは肺をやられるのではと思えるほどの汚さは既に払拭され、最低限、人が活動するに支障ない程度の清掃が澄まされたビルのエントランスにはふたりの人影が動き回っていた。
片や、黒髪黒目に黒い学生服と、全身真っ黒な出で立ちの少年は器用に2階の足場を支える円柱を蹴って三角飛びして着地点をもうひとりの立つ場所付近に定めて飛び蹴りを加え。
それを受けるもう片方はと言えば、肩で息をして疲労を隠し切れない様子で転がる様に横へとかける様に洗練された様子はまるでなく、這う這うの体で着地と同時に追撃を仕掛けてくる黒い少年から逃げ回る姿はいっそ悲壮ですらあった。
黄泉路が元気なのはいつものことであるが、遙がこうも疲弊しているのにはとある理由があった。
「ひぃ、ひぃ……はぁっ、くそっ。 (筋トレと、持久走の、後で……模擬戦って……ざけんなっ、しぬ、ころされる……!)」
そう。ここ数日、特訓を付けてもらいたいと言ったその日から、黄泉路は手早く崙幇――子軒へと連絡を取り、自由に使える広い場所を手配してもらうと、室内の清掃を頼んでいる間に枯崙という都市の形をした巨大アスレチックを十分に活かすようなルートで遙を走らせ――無論、不慮の怪我を防止するべく黄泉路も並走していたが――直後、休憩もそこそこに筋トレを行うように指示するという過密なスケジュールを与えられていた。
加えて、今日になって漸く清掃が終わったビルを借り受けての戦闘訓練である。
一応事前にトレーニングで疲弊した状態で戦闘訓練を行う理由は説明されていたものの、実際体感させられるのと頭で理解するのは雲泥の差があった。
「バカ、死ぬ、それは、死ぬから……ッ!」
「でもそうなると、いざという時にそのまま死ぬしかないよ?」
「ッ」
「喧嘩と違うからさ。これ以上やったらマズいんじゃなくて、最低限こうしないと安心できないんだよ。殺し合いって。不殺が貫けるのは相手を封殺できるだけの力量差があってこそだからね」
「……っ」
言っている事は遙にも理解できる。
喧嘩はいわば上下を躾ける為の儀式の様なもので、勝とうが負けようが死ぬようなことは滅多にない。
喧嘩慣れしているというのはいわば、相手を再起不能にしないギリギリを見極めるのが上手いということ。
翻って、黄泉路の言う殺し合い――遙が鍛えて欲しいと言ったその領域は、相手を確実に殺さなければ自身の安全が保障されない。
黄泉路に限っては自身に死がないからこそその辺りは緩いと思われがちだが、実は違う。
むしろ、黄泉路は力が足らない事による弊害を誰よりも強く仕込まれている。
「僕の場合、死なないから説得力がないって思うかも知れないけど。逆に、僕は絶対に捕まるな。無効化されて閉じ込められるなって仕込まれてるんだよ。ほら、この辺りは力のあるない、どれだけ死力を尽くすかについては一緒だよ」
「はぁー、はぁー……はぁ……」
「息は整ってきたかな? じゃあ次。ヒットアンドアウェイの遠距離戦には多少身体が付いて来たと思うし、今度は近接戦での立ち回りを実践しようか」
「げっ――ぷっ!?」
講義――というよりは、遙が最低限息を整えるのを待っていた黄泉路が一息に距離を詰め、それにギョッとした遙が硬直すると同時、飛び込んできたスピードからすれば優しすぎる掌底が遙の腹へと刺さる。
想像よりも遥かに優しい衝撃とはいえ、ふらふらの状態で受けた打撃に思わず胃がひっくり返ったのではないかという錯覚に息を詰める遙だが、黄泉路は胴で曲がって高さが丁度良くなった遙の頭を両手で掴むと、引き寄せて顔を覗き込み、
「硬直しない。実戦ではとにかく動け。動けないなら死ぬ。今だって、僕が本気なら中身全部後ろに飛んでたよ?」
「う、ぐ……」
「ついでに言うと、もし無事だったとしても今この状況がチェックメイトだよ。ここから首を折ってもいいし、膝蹴りに頭を合わせて顎を砕いても良い」
黒々とした、深淵に引きずり込まれる様な黄泉路の瞳が遙の目を吸い寄せて離さず、生々しい次の手に関する講釈に遙の背の遅れて冷や汗が噴き出す。
「実戦では敵は待ってくれない。甘えも怯えも限界も、全部自分に返ってくる。それでも、遙君は戦いたいの?」
「……へっ。まるで、戦ってほしく、ねーみたいじゃねーか」
「うん」
反射的に言い返した遙に、黄泉路は迷うことなく首肯する。
あまりの即答振りに硬直した遙に、黄泉路は顔を抑えていた手を離しながら一歩引きながら続ける。
「遙君はさ。帰ろうと思えば日常に、元々の平和な場所に帰れる。僕には、どうしてこんな思いをしてまでここにしがみつこうとしているのかが分からない。居場所がなかったわけじゃなかったんだろ?」
「……」
「僕達は、基本的には日陰者だ。どれだけ日常に戻りたくて、こっち側と縁を切りたくても、結局は備えておかないと安心できない。それくらいには後ろ暗い事もやってきたし、自分たちが生き残るためには、意思を継ぐためには、これ以外に思いつかなかった」
天窓から差し込む光の筋の中、黄泉路の顔は曇りなく映っているはずにも拘らず、遙にはそれがとてつもなく深い場所から響く声の様に聞こえ、整い始めていたはずの呼吸が苦しく感じられる。
「喧嘩慣れしてるだけあって、一応目を瞑ったりはしてないから、後はどれだけ疲れていても、どれだけ痛くても、“死ぬよりはマシ”の精神で何よりも先に身体が動くように慣らしていこうか」
「……オレは」
「うん?」
再開しようと脱力した黄泉路は、遙の声に応じて飛び込もうとしていた足を踏み留めて首を傾げる。
「確かにお前みたいな修羅場は潜ってねーし、帰りてーって言えば平和な日本に戻してくれるんだろうけどよ。結局、それじゃ意味がねーんだよ」
「……意味?」
「ずっと納得いかなかった、ずっとわかんなかった、それが掴めそうなんだ。だから、オレは退きたくねーし、逃げたくねーんだよ」
疲労で濁った遙の目の奥に、特訓を付けて欲しいと頼み込んできた時の光を見た黄泉路は静かに息を吐く。
「いいよ。遙君の理屈は分からないけど、わかった。それじゃあ、本格的に生き残れるための訓練をしようか」
「げっ!?」
再び高速で踏み込んできた黄泉路の拳が顔を掠め、ぎょっと目を見開いた遙は慌てて距離を離そうと後ろへと飛ぶ。
だが、それにぴたりと追随するように距離を詰めた黄泉路の手が遙の逃げそびれた腕を捕り――
「おわぁッ!?」
「対能力者戦で掴まれるのはアウトだよ。大抵、近接戦闘や掴みっていう選択肢を持ってる相手はフィジカルに自信のある身体強化系能力の持ち主か、接触によって発動する能力を持ってる場合が多い。とにかく視て、警戒して、避ける。これを徹底すること」
捻り上げ、遙を座らせる様に転ばせて黄泉路が手を離しながら淡々と告げれば、遙は一瞬で転ばされた事に目をぱちくりとさせてしまう。
「……お、おう」
「遙君はいくら殴り返してもいいから、能力も込みで掛かってきて」
自身を立ち上がらせた黄泉路が再び2mほど距離を取るのを見て、遙は目の前の少年に負けたくないと心を燃やすままに右耳の飾りへと触れた。
それから暫く、黄泉路と遙の乱戦とは名ばかりの黄泉路による一方的な扱きが続き、遙が安心して転がって身体を休めることが出来るようになったのは天窓から差し込む光がとうに失せた夕方になってのことであった。
「はぁー……はぁー……」
「お疲れ様」
「……死ぬ。無理……立てねー……」
掃除されたとはいえ、元が廃墟であるが故に本来ならば絶対に寝転んだりしない環境にもかかわらず、遙は肉体、精神両方からの疲弊に指1本動かす事すら億劫という有様で床に転げていた。
当然と言えば当然だが、疲労した様子の一切ない黄泉路の姿に理不尽を感じるが、文句を言う気力もない。
ただ気絶する様に眠りたいという欲求だけがじわじわと染み出して身体の動きを奪ってゆくのを感じる最中、不意に黄泉路が軽い調子で声を掛けてくる。
「そういえばだけどさ」
「――?」
「どうして訓練を彩華に頼まなかったの?」
僕よりも彼女に懐いていたよね、と。さも当然という風に、周知の事実であると暗に示しながら問う黄泉路に、遙は一瞬で眠気が飛ぶような気恥ずかしさと焦りに意識が覚醒する。
「バッ、それは……!」
「それは?」
「……お前が強いのは知ってっから」
反論しようと反射的に声を上げた遙が一瞬言い淀み、その後バツが悪そうに告げる答えに、黄泉路は首を傾げる。
「それなら猶更じゃない? 僕が戦ってるの見せたのって最初の襲撃の時くらいだと思うけど」
「ぐ……」
「彩華の方が派手に戦ってたし、この間遙君たちを助けたのも彩華だよね」
それならやっぱり彩華の方に頼む方が自然じゃないかな。と。遙の咄嗟に出た理屈の矛盾を突くように疑問を呈する黄泉路に、遙は低く唸る様に煩悶した後、
「――女に守られたりすんの、恥ずいじゃん」
「えぇ?」
ヤケになったように答える遙に、まさかそんな理由だったとはと黄泉路は困惑と呆れに声を漏らしてしまう。
遙の言葉には大事な文言が抜けている事もまた事実で、そこに気づかない黄泉路は困惑するしかない。
「お前はそういうのなさそうだから良いんだろうけど、オレは気にするんだよ……」
とはいえ、確かに黄泉路はそういった事を気にした事はない。
なにせ、今の黄泉路があるのはもはや懐かしい数年も前、保護されたばかりの頃にカガリや美花に手ほどきをしてもらったお陰なのだから。
思えば、今の構図は昔の自分とカガリ達に似ているな、と。黄泉路は不意に可笑しくなってくすりと笑みをこぼす。
「――何笑ってんだよ」
「いや、何でもないよ。ごめん」
さすがにこの季節の夜風は汗をかいた身体には毒だろうと、立ち上がる気力もなさそうな遙を背負った黄泉路が出口へと歩き出す。
誤魔化しも兼ねているのは承知の上で、この日の訓練を終われるという事実と、自分にとっても恥ずかしい話題が終わるという安堵感から、普段であればライバル意識もあって拒否していたであろう遙は黄泉路のおんぶをすんなり受け入れてしまう。
「――そうそう、遙君の能力だけど」
能力アリでの模擬戦を経た事で、使い方の案をいくつか思いついた黄泉路の声が遠のいて行くのを感じながら、遙の意識は疲労の沼へと落ちて行くのだった。